ドラゴンクエスト11 過ぎ去りし時を求めて


【PS4】ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて 【3DS】ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて


月日の流れは地球の表面で過ごしている限りほぼ同じようなものらしいけれど
長く日々を過ごしているほど過去に対する今日一日の割合は少なくなり
いつしか毎日、今年もあっという間だったと呟くようになる。
2017年もいまや12月。平成もあと1年半弱。
そして私は7月29日の発売日に購入したゲームを終わらせるのに4ヵ月。
失われたわけではないにせよ、季節は過ぎ去ったかもしれない冬。


言わずと知れた「ドラクエ」シリーズ11作目はオンライン専用の『10』から5年、
DSで発売された『9』からは8年の間をおいての発売。
初代からは実に31年。DS発売からも13年。
あれこのサイトDS発売前からあったようなきのせいだよねちがいない。
今回はPS43DS向け版が双方同時発売されたのもひとつの特徴。
もはやとうに「テレビ」ゲームの時代ではないけれど、
ドラクエ」シリーズが変わらずその地位を保ち続けているのは驚くべきこと、
制作陣の弛まぬ姿勢に感服のここちであります。




それぞれの間に遊ぶであろう対象世代が入れ替わってしまうほど
期間を必要とするこのごろのゲーム作品。
そのつなぎとして派生作品や絶え間ない広報活動が必要であるともいえるし
期限目標内に作り上げられるのであれば新規作品が入り込み易いともいえる。
見た目に掛かる手間はますます増えてはいるものの、
PS4版と3DS版がみため違うだけでゲームとしては同じものであるだけに
ゲームとしては、格別ゲーム機性能に依存する程度は
依然ますます軽くなっている。いってみれば見た目のためだけである。
それ以外のところで、ゲームそれぞれにどれだけの違いがあるか。
30年様々な作品が「ドラクエ」シリーズ以上に敗北した理由は
見た目と派生作品や広報活動による知名度以外のどこにあるか。


そもそもRPGとかいう分野わけじたい、わりと謎である。
RPGゲームとかSTGゲームとか言われてしまうわけである。
STGとか最近きかないですね嘘つきました。
RPGというものの元はTRPGというものらしいので、
TRPGの本をここ7、8年ほど380冊ほど読んでべんきょうした成果から言うと、
まったく別物である。
AVGはなぜ『アドベンチャー』が元なのかと同じくらい別。
世界樹の迷宮』が良くTRPGふうと言われるけれど
ゲームブック調と混同しているとしか思えない。
もとい、「ドラクエ」シリーズが、日本のRPGと呼ばれるゲーム群の
大きな割合を規定していたことは間違いないと思われる。
けれど、「ドラクエ」みたいなのがRPGなのか、というと
オンラインゲーム以降のRPGと分類するしかないゲーム等をみるに違うらしい。
アクションがあるRPG。バトルはパズルで育成するRPG
最終目標はなく世界をみてまわったり作ったりするRPG
どれも新しいが、どれも昔からあるものの組み合わせでもあり、
どれもRPGといわれればそうでもある。そうでなくはない。
では『ドラゴンクエスト』とは何か。どこが面白いのか。




「アドベンチャー」と同じく「ロールプレイング」という分野名を忘れて
そのつくりについて思いをいたしてみると
すごく接待です、という感想を避けがたい。
主人公が特権的な立場にあり、時間さえかければ世界一強いだけでなく、
世界の数多全てが自分のためだけに用意されている。
謎はあなたに解かれるためにある。敵はあなたに倒してもらうのを待っている。
たるはあなたに壊され運ばれ指さされるためにある。
とはいえこれは、RPGに限らず1人用ゲームであれば当然のこと。
そうするとそもそも1人用ゲームであることが最初から特異であったのか。


TRPGは1人用ではない。少なくとも2人はいなけらばならない。
競う両者でなく出題者と回答者。
競うためのルールを決めるひとと、それで遊ぶ方の2人。
言い換えればパズルやクイズを作るひとと解く方。
TRPGのルールを固定して1人で遊べるようにしたものがゲームブックであり、
これをコンピューター上で遊べるようにしたものがいわゆるRPGである。
コンピューターも本も用いない1人用ゲームはとても限られる。
パズルやクイズを自分で作って自分で解くこともできる。
それが1人で遊ぶということなのだ。


例えばカードを使ってsolitaire(一人遊び)の『ソリティア』をする。
これはクロスワードパズルや詰将棋と違い、
解決すべき状況を自らランダム生成できる、類まれな完成度のゲームで、
言ってみればサイコロを振って次の100回のうち1が出るのは何回かを
予想して遊ぶのと同じ仕組みと道具立てのゲームでありながら、
格段にゲームらしさ、何度も繰り返し遊んで飽きさせない要素、
ふんわりいうと「ゲーム性」を作り出している。
この言葉はあやしいが、『ソリティア』が『丁半当て』よりは
複雑度合、遊びごたえ、長く楽しめそうさが大きいのは確からしく分かる。
しかしそんな苦労をしなくとも、もう一人だれか遊ぶ相手がいれば良いのだ。
TRPGのゲームルールを書いた本があれば複雑な飽きない遊びができるが、
なくとも囲碁将棋盤やカード、それすらなくとも会話を交わすだけで
1人でどんな道具を使って遊ぶより「ゲーム性高い」、
飽きの来ないゲームを遊べるのである。


ゲームブック、そしてコンピュータはその遊び相手の役割を果たす。
小説や映画はそれ単体で遊ぶのではなく、したがって「ゲーム性」はなく、
それを見た経験を使って自分であるいは誰かと遊ばなければならない。
しかしクイズやパズルは違う。自分を含む誰かが作ったゲームを使って遊ぶのだ。
一方で映画や小説のように、コンピュータゲーム機を使うのにもかかわらず
誰かの作ったもので誰かと遊ぶわけではないゲームもある。


ゲームとは何か。「ドラクエ」ってなに。なにが面白いの。他とどう違うの。
30年前、「ドラクエ」にも『ウィザードリィ』『ウルティマ』という先達があり、
それらにはTRPGという元があり、TRPGにはごっこ遊びという原型がある。
最新の『ドラクエ11』は、何が面白いかを零から作るわけではなく、
ドラクエシリーズ」として良いものを作ればよいのである。
30年遊ばれてきて、どこが面白かったか、何が不親切だったか、
オンラインにするにあたってはどうすれば良いか、
対応することでゲームはできあがる。
ドラクエ」は他のRPGを冠するゲームと比べて様々にすぐれているところがあり、
総じて比較的良い出来だったから、遊ばれ売れて続いているのだ。
そこにゲームとしての進歩とか新しさとか革新は
必ずなければならないのではないのだ。


1人用より複数人で遊ぶゲームの方が、複雑で、展開や解法に拡がりがあり、
どこまでもいつまでも遊ぶことができて、ゲーム性が高い。
ドラクエみたいな」1人用は、主人公様の接待でありすることは決まっていて
用意されたものを指示通り右から左へ動かすだけなので、ゲーム性は低い。
まったくそうである。
しかし「ゲーム性」の低いことが面白さの大小に正比例するわけではない。
言わず知れたこと、人生ゲームほど「ゲーム性」、
それを構成し介在する要素の複雑さ度合が高いゲームはないけれど
1人用接待ゲームより面白いとは限らない。
同じ能力値でも感じ方はそれぞれ。セーブポイントからやり直しも出来ません。


では「ドラクエ」の何が面白いのか。
お話が深いのか。感動するのか。舞台設定が格好良いのか、行ってみたいのか。
登場人物が魅力的なのか。お友達になりたいのか。
雰囲気が良いのか。パッケージイラストのおかげなのか。その再現性か。
課題達成が困難であったり解法わかりづらかったりすることの少ない難度設計が
優れているのか。レベルがあがりやすくて敵がほどほどに強いからか。
しかし、そういう素人でもわかるところを30年間、
まわりがなぜ模倣しなかったのかと思えば、
あるいは真似をして苦労少なくて済んでいたのに
なぜより高い名声を勝ち得なかったのかとすれば、
ゲームの仕組みにおける設計上の問題ではなく、
映画や小説のような、「作家性」にあるようにも思える。


絵画や音楽などの芸術において、良し悪しを素人が判断するのは困難極まる。
歴史系統上の画期性もその評価理由に加わるとなれば、
もはや素人と大家の作品区別もつかない。みための技術だけではないのだから。
料理でも文章でも演劇でも映画でも同様であれば、やはりゲームにおいても、
遊んでいて面白いかを除けば、その作品の良し悪しを、果たして自分が正当に
同じ物差しで比較して上下を付けられているか、まったく自身はない。
まして遊んでみて面白いかどうかの印象も加わるとなれば。




ドラクエ」って面白いのだろうか。
『11』は遊んでみて、戦闘は見ていて時間の無駄を感じ、
終盤何手内撃破課題のために仕方なくAI切って指示出すのはまこと億劫だった。
敵キャラクタも魅力がなかったし、お話も失われた過去を求めていいのか、
そこは割り切るとしても、あそこまでするならよりもっと全体に
先代との関連があって良かったのではないか。
記憶喪失とか覇王斬とかも取ってつけた感が拭えない。
それ以外はおおむね良くできていたと思う。
仲間の半分くらいは一緒に旅をする必要なかったと思うが、
戦闘能力割り振りと成長過程は過去最高の洗練で芸術の域に達しているし
お話上のキャラクタごと役割分担も、他のRPGと比較して優れたもの。
ベロニカセーニャ姉妹の造形と、わずかな台詞でそれを描く技術は素晴らしい。
「幼なじみのエマよ」など細かい不満点はいくらもあるけれど、
全体振り返って過去シリーズと比べ印象点をつけるなら
屈指の高得点は間違いない。


他と比べてどうなのか。そう思うとまったく自信がない。好みの問題だし。
ゲームとしてどうなのか。いつもの「ドラクエ」である。
ではなぜ「ドラクエ」がこんなに長いこと高い評価を得ているのか。
昔は海外で受け入れられてなかったし、絵画や音楽と同じく
歴史上の画期性もあるのではないでしょうか。周りの環境だよね。
FF15』に比べれば印象良いよね。『ゼルダ』とはちょっと方向違うよね。
『ペルソナ』とも違うよね。『真・女神転生』は『3』で終わったね。
まあ「ドラクエ」は「ドラクエ」ってことだよね。




ところで、最初に書いたように発売日7/29に買って
クリアするまで4ヵ月も掛かった方が私としては印象深いのである。
クリアまで84時間。
全体の2/3に当たるであろう★の付くところまで到達したのは9/24の55時間。
最初の2ヵ月は月30時間くらい進めたが、ここ2か月は月15時間。
毎日30分進めたのではなく、土日のどちらか都合のいい日に、
嫌々ながら仕方なく電源入れて、やっとなんとか最後までたどりついた。
遊んだというより進めた。終わらせた。
ゲーム自体は決して悪い出来ではないのである。
過去シリーズと比べて劣っていない。でもこの有様。
明らかに遊ぶこちら側に問題があると思われる。


もちろんこれも、テレビにつないだゲーム機の前に座って
毎日1時間じっくり楽しむ遊び方が時代に合わないのだ何なのだとは言える。
もっと気軽に手軽に遊べるように細かく区切っても
それなりに達成感が得られるようにだのなんだの。
旧来ゲーム信奉者としては言いづらいながら、
毎週更新して1日10分で遊んだ気になれるブラウザ携帯ゲームを見習えと。
よりにもよってかのあの「ドラクエ」相手に。


3DS版がなかったら本当にそういう感想も自分から出てきたかもしれない。
時代は移る。人も変わる。「ドラクエ」はちゃんと進歩している。
曖昧な言いかたを避ければ、昔と比べて時代相応に見た目も良くなり、
ゲームとしては良い意味で変わらず遊びやすくなっている。
あるいは表現が豊かになって、
それで遊ぶ余地が少なくなっているかもしれないけれど。
こちらは退化している。過去のげーれきに対して
ドラクエ」最新作の占める新しさの感心度合が割合低下している。
それを退化と呼ぶのであれば。大進化の悲報。ソーマ神権現ちゃんの雫。


過ぎ去りし時を求めるのは時間背理に関わらずその気はない。
やはりゲームに求めていて求め続けていくのは、
見たことのない遊んだことのない新しさ。
ドラクエ11』は『FF9』とは比較にならず、
そしてシリーズの過去どれとも比べても、
新しくないが良くできた「ドラクエ」だった。
『1』から遊んでいれば今更の「ドラクエ」だが、
30年、他のゲームが常にその時々に求められる水準を
必ずしも越えられないでいるなかで
『マリオ』『ゼルダ』に並ぶ隔絶した高質の作品には違いない。


今年産『マリオ』も『ゼルダ』も遊んでいないひとの言うことで間違いない。
予定と違う。今年はやすぎ。






 

御城プロジェクトREと千年戦争アイギス


およそ1年ほど前。
10年ほど遊んでいた三国戦国大戦シリーズをばっさり絶って
意志の強さを証明自讃したわたくしは
次なる暇つぶしゲーム選定に掛かったのでありました。


選定基準は毎日短時間であんまり頭を使わずに楽しめるもの。
しかしそう都合よいものなどなかなかない。
なにしろ大戦シリーズは10年毎日のように遊んだ超大物。
ゲームセンター行かないと遊べないので
実際コイン投入するのは週に数日なのだけれど、
動画を毎日見てあーでもないこうでもないと次に使うカード編成を練り、
あるいは攻略WIKIを自己満足で延々編集したりして遊んでいたのである。
同じカードの組み合わせて出撃したのは数えるほどだし、
三国戦国大戦を長く遊んでいたひとで私の文章を避けることは
いかにも困難だったろうと思われる。ううん迷惑だ。
これだけ長いこと遊んでいたのは、
もちろんゲームとして面白かったのもあるけれど、
こういう、毎日都合の許す範囲でお金と時間とあたまを使ってで、
楽しめるものであったという点も大きい。
総額では近頃の課金ゲームに伍して誇れる金額を投入しており、
はっきりいって実際幾ら費やしたかかんがえたくもないが、
えがたいげーむけいけんであったといえよう(震え声)。


動画だけ見るのを遊んだことに勘定するのはどうよと思われる方も
もしかするといるかもしれない。
10年前だったら確実にそう思われただろうけれど、
いつの間にか少しづつ世の中も変わってきた。
親の監視が寛容な家へカセット持ち寄って遊ぶものであった30年前から、
手元の携帯機器で皆と時間や場所に囚われず遊べるものになり、
ゲームを進めているありさまを手軽に公知共有し合う遊び方も整備された。
ゲームで得た勲章を交換や公開で自慢する、という遊ばれかたの観点からすれば
30年前も今も変わらないけれど、
遊ばれ方の許容は多様に整備されてきたと言える。
動画見て知ったかぶるだけ、
攻略Wiki読んで次はどうしようと計画を練ることも、
歴史の戦国時代の地図でゲーム内の領地拡大方針を立てるのも、
みなゲームで遊んでいる。ゲームの遊び方のひとつである。




さて結局、いくつか遊んだうち選んだのは『御城プロジェクトRE』。
PCかAndroidで遊べる、『艦これ』と同じくDMMのブラウザゲームで、
戦国時代のお城を擬人化した城娘さんたちを集めて育てて強くなるゲーム。
遊んだことはなくとも、前作『RE』の付かない方が
それなりに話題になったのに運営が酷く半年くらいで消滅したことで
御存じの方もおられるかもしれない。
短期終了した作品が題材そのまま復活するのはまれなことで
お城を擬人化するという企画がよほど惜しかったからなのか。
物を擬人化する作品もたくさんあるけれど、
お城はなるほど、良い着眼点であると言えましょう。
有名城主がいない、戦場ともなっていない、結果を残せなかったお城でも、
建築として、現代の遺構としての価値から光を当てることができる。
例えば観光地として有名な姫路城や熊本城は『信長の野望』ではあまり関係ない。
五稜郭に加えて四稜郭、飛騨といえば帰雲城小田原城でなく山中城
島原の乱でなく原城でもなく島原城を題材にできるのも本作ならでは。
戦国時代に興味がないひとには武将でなくお城とかなお身近さないですが、
戦国大戦Wikiを更新しているうちにかなり拗らせた身には
まこと好適であったのも選んだ理由のひとつ。


内容はいわゆる「タワーディフェンス」という分野。
本邦ではこれという代表作がないけれど、
海の向こうではわりと広く受け入れられているものらしい。
敵がたくさん攻め寄せてきて、こちらは自陣に部隊を配置し迎え撃つ。
戦場に敵軍本陣は用意されていないため敵大将を討ち取っての劇的勝利はなく、
決められた損害範囲内で自軍本陣を守りきれば勝ち、というルールは
時間内守り切りさえすれば勝ち、というのも確かに現実にありそうだけれど、
囲碁将棋チェスなどからは思いつかないコンピューターゲームらしいもの。
彼我の戦力は一定なので、達成すべき一定以上の正解が明快なのも大きな特徴。
いってみれば、『テトリス』のような落ち物パズルゲームから
アクション要素やアドリブ要素をとっぱらったものとも言えましょう。


敵がわらわら押し寄せるとはいっても、アクションゲームの要素は少なく
無双シリーズの元である『ガントレット』系とは似て非なるこの種が、
これといって一分野を築くことがなかったのは、
なによりステージクリア型パズルゲームであることからと想像されます。
30年ほど前ならまだしも、それ以降、つまりこれらが発明された時期には既に
コンピュータゲームはより複雑大規模でなければならなくなっていた。
アクション要素が薄く、対戦もなく、
お話や部隊やキャラクタのガワを付けるには単純すぎる。
Portal』などと同じく、技術がその表現を許すころには
題材として小さく単純で遅すぎた分野であること、
これがこれといった代表作を生み出せなかった一因である、と思うわけです。


コンピュータゲームの他のゲームと比較して最大の利点は
計算機による素早く精確公平な点数計算によるシミュレートではなく、
コントローラの操作による仮想空間への介入。
旧来解けば終わり、答えを見つけれしまえば価値を失うパズルゲームも、
対人対戦をすることで際限なく遊ぶことができる。
知っているかどうかを競うだけのクイズですら盛り上がるのだから、
計算機の方が早く正しく強いに決まっている囲碁麻雀将棋、
落ち物パズル対戦格闘でも、果てしなく楽しく遊ぶことが出来る。
囲碁や将棋でプロ棋士よりコンピュータが強いことが最近実証されましたが、
シューティングゲームリズムゲームなど
昔からコンピュータ掌中で遊ばせてもらっている身からは今更のこと。


だからパズルゲームもアクションパズルゲームという形で
コンピュータゲームならではの楽しさが提供できるわけです。
スペランカー』にせよ『ソロモンの鍵』にせよ、操作できるからこそのもの。
ただ、それでもこれらは対人対戦できないし、
魅力的なキャラクタと深みのあるアクション要素を付けたとしても
いささか狭く小さいといわざるを得ない。
もちろん深く欠けなく完成された玉壁を表現できる利点はあるけれど。


しかしながら近年、技術的には30年前に可能であった工夫が発明されました。
ゲームはソフトを売るものだった。
やがてオンラインでパッケージでなくソフトそのものを売るようになった。
そこからソフトを試用してもらい料金を後払いする仕組みが整えられた。
携帯機器が充分な性能を獲得、テレビゲームのコンピュータゲームを
充分再現できるようになった。
そういう環境下で、無料試用、料金後払いのゲームも当然生まれた。
そこで多くの遊び手に選ばれたのが
パズルクエスト』に対する『パズルドラゴン』の、その違いです。


パズルゲームにキャラクタをつけて、育成できて、収集できるというのは、
完成したものを見せられないと、なにいってだこいつ、
そのどこが面白いんだ、となるであろうけれど、
遊んでみるとなるほど納得させられる。
『マジックザギャザリング』のような対戦の駆け引きも
カードで戦場部隊を操作する大戦シリーズの革新性も何もないけれど
単純なパズルに、キャラクタを付けることによる舞台背景などのガワの価値と、
育て集めて強く有利になる繰り返し遊びたくなるスルメな価値が付加されている。
SRPGと呼ばれるものは、およそゲームの何にでも貼り付け可能である」
それはRPGというゲームの発明と同じようなひとつの発見で、
コンピュータゲーム40年ほどにしてようやく周知されたといえる。
アリスソフトの『ママトト』や『にょシリーズ』は大変惜しかった。


結果、従来の売り切りゲームが何だったのかと思うくらい、
多くの遊びてがひとつの作品に、それまで一部のカードゲームでしか
考えられなかった金額を費やしているのはご存知の通り。まさに遊戯王
なぜゲームのなかのカード、あるいはユニットというくくりのデータが、
これほどの課金意欲、他のゲームを複数買えるような金額を費やしてでも
所有したいという欲を喚起するのか、
ひとつのゲームになんじゅうま……いや計算しないしない、
すごい金額を掛けた私にもさっぱり理解できない。
大戦シリーズを遊んだことのないひとにはなぜひとつのゲームに
そんな金額を何年もかけ続けたのか理解できないだろうけれども。


『御城プロジェクトRE』もそういう、
基本無料、高レアユニットを「引く」為の抽選券は課金という、
現在的なSRPGのひとつ。
毎週の更新のたびに途切れなく課金を喚起する高レアユニットが追加され、
低レアは初期からいたものを除くとさっぱり追加されない。
ひとつのユニット毎の、キャラクタ設定作って絵描いて台詞音声つけての手間は
高レアだろうが低レアだろうがさして変わらないから、
課金につながる高レアばかり追加されるのである。
けれどかれこれ1年遊んでいるのは、
タワーディフェンスで従来の作品がなし得ていなかった、
育成要素を加えてもちゃんと遊べる、面白く遊べるゲームとして優秀だから。


ユニットは配置すると自動で戦うので、誰をいつどこに配置するかを、
敵強さ、攻めてくる頭数、守るべき自軍拠点などを勘案して随時操作。
配置は時間経過で増加のコストを消費するので闇雲ばらまけば良いのではない。
ユニットの回復や強化もコストを要するので、
戦況に合わせてあれを配置ここを引っ込めてまた再配置となかなか忙しい。
適正な戦力で挑めば、充分に工夫し甲斐のある、頑張った感を得られる、
適度のアクションの楽しさもあるパズルゲームになっている。
一方で強いユニット、高レア高レベルを並べれば
何もせずともクリアできるようにもなる。
高度に結晶化されたアクションゲームにおいては
時間さえかければ同じ結果が得られるなど許されないが、SRPGでは許される。
そして、強くなりすぎて工夫しなくとも良くなってしまったならば、
弱いユニットをあえて使うこともできるのだ。
敵の強さはこれまでのタワーディフェンスと同じく常に一定。
定法と言える戦術戦法は体系化できる。
しかし圧倒的戦力で蹂躙することも容易にでき、
極限ぎりぎりの戦力で針で穴を通す解法を探る楽しみも同じように出来る。


アクションパズルゲームとしては『ソロモンの鍵』の方が優れている。
一定段階に達した有様は、思い浮かべ欠けるところないデジタルの芸術。
各ステージが示す意匠を凝らした作意提示は眺めているだけで楽しい。
こちらの戦力が一定でなく、容易過剰に強くすることができるパズルゲームでは
問題の美しさなど成立しようか。
コンピューターが並べた詰将棋に名作が有り得ようか。
不完全で間違いだらけの人間の指す対戦ゲームに完全さが有り得ようか。
戦力差が明らかで、稲穂を刈り取るがごとき作業をゲームにして何が楽しいか。
まこと先入観は恐ろしい。目の前にあるものを当然と思い、
そうあるべきと正しさを規定して疑うことが出来ない。
コンピュータゲームもひとの作る現実であり
数理の極みに比すればまこといびつなすべては仮初のものなのだ。




続いて『千年戦争アイギス』は『御城プロジェクトRE』と
同じ制作チームが運営しているらしい作品。
コラボレーション企画が何度かあり、2017年2月のそれを機会に
こちらにも手を出してみた。つまり遊んでいる期間7か月ほど。
『御城』と同じく後課金によるタワーディフェンスで、
同じ運営でありながら、だからこそか、ちゃんと差別化されていてまこと優秀。
どちらも並立して遊び続け現在に至る。


異なるところは育成の手順、ユニットの性能など些細なところだが
細部が全体を作るように、その印象はかなり異なる。
『御城』が1年半ほどの実績であるにくらべ、2013年から4年続いているだけあり、
見た目は開始時を考慮しても古臭く、台詞に音声もなくキャラ売りは弱い。
しかしパズルゲームとしての出来はより練り込まれ優れている。
4年の長期に渡り毎週手直しを続けてきただけあり、マップ構成も熟達の域。
クリアするだけなら容易でも最高評価を獲得するには入念な配置計画が必要で
幅広い個性を持つユニットを使い分けるほど様々な解法が可能になっている。
戦場出撃でレベリングできる『御城』に比べ、育成はアイテム消費で行うため
その場面ごとに必要なユニットへの育成配分にも様々な道筋がある。
初見、力押しでクリアももちろんこの種のゲームとして可能なのだけれど
詰めようとすればするほど充分に奥深い。




アイギス』も『御城』も面白いところは、
まったく課金しなくとも十分に遊べるところです。
『艦これ』ですらドックと母港の拡張は続けていくに最低限必要なのに、
この2つはそれすら必要がない。私は未だに無課金でむしろ申し訳ない。
『艦これ』と違い毎日数十分遊ぶだけで最高難度についていけて、
それでいて遊ぼうと思えば長時間遊ぶこともでき、
けれどもちゃんと成り立っている。
多くのひとへ遊び続ける気になる楽しさを提供し、
また一部のひとへ遊べる時間に見合う以上の課金をなさせて商売成立させている。


なぜそんなことが可能なのか。まったく無課金なので想像しようもありませんが
少数が多数を支える構造がたまたま成り立ってしまっているのは事実。
課金することで、多くのひとが持っていないレアキャラを所有できる。
自尊心を満足させられる。みんなの話についていける。
課金さえすれば時間を掛けずとも楽しくゲームで遊べる。
ゲームを遊ぶには、時間さえ掛ければゲーム内の最高評価は得られ、
工夫さえすれば時間もお金も掛けなくともゲーム外で高い評価が得られる。
動画の公開や掲示板やまとめサイトで、同好同士ゆるく交わるだけで楽しい。


かつてRPGはみんななんでもかんでもMMO化すると唱えられた時期がありました。
今の携帯ゲーム機器におけるゆるいゲーム、SRPGガワのパズルゲームは
逆に過渡期における今だけのものと唱えられているようにも見られます。
ゲームがこんな単純なものであるはずがない。
本格的なゲーム、重厚なゲーム、見た目がすごいの、とにかく新しいの、
お金がかかって手間がかかって宣伝費もすごくて誰もが話題にする超大作、
それこそが本当のゲームだ、と思いたい。


娯楽だから何でもよいし、面白ければ何でもよいのですが、
そういう煽りに乗って乗せられて楽しむのもまたゲームではある。
単純だから良いのではないし、大作だから優れているのではない。
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
遊んでみなければわからないし、遊んでみなくともわかることもある。
そういうのもゲームで遊んでいて面白いところに違いない。







遊んでいるひと向けのおまけ

★7は未だに1人(ステルスくまもん)のようだが実は三人。
つまりひこにゃんヤンデレなので使わないわけにはいかない。
つよすぎるからつかいたくないけどね(棒)。
岩殿さんも強すぎで、おかげで武神もらくらくです。
福知山さんは蓮姫効果なのだろうか。
そして島原さんは至高。手作りお弁当は永久保存。
チョコレートはヤンデレが怖いので彦根さんですけれども。
あと枠内にはいませんが編成中なのは伊丹城さん。この6人がお気に入り。


アイギスはちょっと進行程度がわかりづらいのですが
まだ7か月なのでこんなもので。
黒チケットはイングリッドさん。SW2の聖戦士物語を勝手に投影。
最近のスキル覚醒強化でイングリッド無双!(大歓喜)が再現できて満足。
回避はしてくれませんが。あと本作の王子に忠誠は誓っていない。
他の黒2人はプラチナチケットと本日引いたLV1。
ライドでなくドールで行く予定。ミレイユさんをいつか手に入れたい。
現状でも神級は一通りいけますが魔神はまだまだこれから。

ペルソナ5


ペルソナ5 - PS4  ペルソナ5 公式設定画集


シリーズ『3』と『4』の間が2年だったのに対し、以来8年ぶりの新作。
溜まり高まった期待へ応える出来ばえではあるけれど
いろいろ難航したさまも見て取れる、惜しいところも目立つ作品。
「キャンディ持ってモニター見つめるランコ」というキャラが
オープニングムービーには居るのに
ゲーム本編で実装されていないんですけど。




ゲームの種類としては『3』からの継続で、
高校生がペルソナの力に目覚め、日々の生活を送る中で仲間との絆を深め、
都市伝説や社会の影に現れるペルソナの負の側面たる悪と対決していく、
現代日本を題材によくぞと思える上手いことRPG化した作品。
高校生が超人的な能力を得て日常を守る、という
かなり大掛かりでありがちでありながらも、容易に真似できない大作。
悪を討つべく強くなっていく手段として、
仲間だけでなく周囲の様々な人たちとの関係を日常の中で築いていく、
という人格的観点の拡がりを、RPGの成長として持ち込んだのが目新しく、
主人公が自分の観念内だけで、だけだから思う様力を振るえるという
数多の凡、もとい汎他作品にはない、
自分以外の誰かなくしてなりたたない、あたりまえで明確な主題を
巧妙にゲーム化できている稀有な仕組みが素晴らしい。




本作でも最後に倒すべき悪、そこに至るまでの変遷、
主人公をつくる周囲の皆たちの動機付け、
全体を眺めてみるとこれまで通りよくできているが、
最初に触れたようにすっきりと整理されていないところがあり
いささか流れのぎこちないところが残念。
これまでの時間をかけて仲良くなっていく仕組みを
多くの対象に無理に当てはめているゆえの点もあるし、
主人公たちが「怪盗」となって心を盗むという仕掛けに対し
対する「正義」の表現担当に役割を振り過ぎで、
その対立昇華がきちんと行われたとは思えない。
犯人は誰かをわからないようにすることが重要だったとは思えず、
「怪盗」であることが明らかなのだから、明確な正義側も
弱く愚かで歪んだ悪と同等に描ければ、よりわかりやすくなったと思う。




ゲームの面で見れば、
期間が開いているだけにゲーム機性能を受けた表現力向上が
いよいよ魅力へ大きく華を添えているものの、
高校生の非日常における冒険を敵との戦いを除いた面で描くにあたり、
怪盗らしさという題材が縦横に活かされていたかというと疑問。
いわゆる迷宮探索も最初こそ力が入っていたものの
急速に息切れし、わざわざ用意されたのにたいして使われない舞台や
広いだけで単調だったり、主人公様御一行に解かれる専用だったり、
本作にばかり高くを望み過ぎではあるが、
8年待たせた割には期待外れであった感は否めない。
日常部分も「ゲーム化」し過ぎである。
綿密なタイムスケジュールに従い効率を追求する主人公の有り様が
優れた成長なのか。目的が転倒している。
ダウンを奪ってからの会話か総攻撃かの戦闘と
ペルソナを集めて合体して継承させての連なりは変わらず楽しく
ごく同じ素材を使ってあの有様の『真女神4Final』と比べ
いかに些末であるような点を押さえるか否かが
全体の印象を変えるかを良く示しており、確かな面白さであるが、
意地悪く言えばおおむね従前からの継承だ。






ペルソナシリーズが
女神転生シリーズから独立したひとつの商品分類となったのは
女神転生if』からの、現代の中高生を主に対象とした造り、
いってみれば小説に対するライトノベルのようなくくりにある。
別世界の勇者でなく隣の誰かを引きとして打ち出す作品は
ゲームの表現手段向上に伴い当然に増えてきているが、
なかでも「ペルソナ」が他に結果として区別できるのは
先に述べたように、きちんと自分以外の他者の存在から自身を描いている、
製作者インタビューでも現れる、
ライトノベルに対する「ジュブナイル」との違いである。
定義づけ言葉あそびになってしまうけれど
子供向けでも、きちんと自分と並びあるいは偉大な人物が
同列に描かれているか否か。


ことにペルソナシリーズがその姿勢を確立したのが3作目からで、
いわゆるRPGにおいて、
主人公たちの成長を表現することと、倒さねばならない敵の理由づけを
現代を舞台にどのように解決するかに、それまでと飛躍した革新があった。
体制とか組織とか常識とか普通さというような
すでに出来上がっている大きいものが持つ
小回りの利かなさや大きさゆえの目配りの限界が産み出す悪に対し、
ひとりの能力でなく、志を同じくする仲間との協力でそれを正すという、
主題のゲーム作法による表現。
仕組み自体は恋愛シミュレーションとよばれる種のゲーム作法だったが
なぜそれがそうか、これを表すには何が良いか、
ウィザードリィ』がそうだから、『ドラクエ』がこうだからでなく
表現したいことにゲームが付いていて、
ゲームの上にガワが載っているのでなく、
仕組みと手段と主題が一体に表現され形成されている。




そういう理屈はどうだろうと、
ゲームの出来ばえ、凡作と良作を分ける違いはまったく別ではある。
ペルソナ4に続き5も残念ながら無難な良作だったと言える。
それを自覚して作れるだけでも稀有なのかもしれないけれど。
はたから見ているだけでは偶々なのか否か何作当てようと半信半疑だけど。
次は8年後といわず、さらに3から5のようなとは違う新しさをと、
大いに期待したい。3作続けて良作を示したのだから当然である。




あと音量調整は付けてください。
画面の明るさ調整とセットで必ず当たり前につけるのを
あたりまえの当然にしてほしい。

2016年反省会(おざなり)

祝!パソコン使い始めて何年目だかわからないけれど
Windowsメモ帳に何時間か掛けて書いた今回用の記事が
メモ帳フリーズでだいなしになったのでブラウザ直書き記念の巻。
たぶんクラウド候補入力予測変換のせい。泣ける。


そういうわけで一度書いたのを思い出しつつ
すごくさっくり書き直すのですごく短めである。

前振り

2015年にくらべて更新回数が2回から3回と1.5倍に。
でもゲームを遊んだ時間は減少中。
このサイトの歴史分だけ書いているひとも容赦なく加齢していくので
身体が睡眠を欲してゲーム時間を削らざるを得ないのである。


ゲーム周辺、今年のできごとと言えば
ポケモンGO』。幅広い層に話題。ゲームの遊ばれ方として興味深い。
FF15』『ペルソナ5』『大鷲トリコ』など長期開発作の発売。
ドラクエ11』も来年でそう。
WiiU」終了と次の「SWITCH」発表。PSVRの発売。未来はどっちだ。


このサイトを始めたころは、
「ゲーム」といったら「テレビゲーム」だったのですが
いまはスマホの「ゲームアプリ」。
任天堂も『マリオラン』を出して、入力操作に大きな違いがあるものの
それは差でなく別でしかないこのごろです。
もう20年前から一番売れているゲームは『ポケモン』なのだし
ポケモン』にスマホで出来ない専用入力操作機器は不要なのであれば
ようやくスタンダードなゲーム機が実現したのかもしれません。


今回もあんまり気が進まないけれど書いた記事を読み直して振り返ります。
未来みてるので。昔は良かったじゃないので過去見たくないので。
反省は大切なのはわかるから仕方なく。

ドラゴンクエストビルダーズ

http://d.hatena.ne.jp/kodamatsukimi/20160430
ここ数年を振り返って久しぶりに大手を振って称賛できる作品。
『マインクラフト』の日本向けアレンジなのかもしれませんが
日本文化にしか浸かっていないので、はっきりこの方が良い。
『みんなのA列車で行こうPC』を遊んで
同シリーズ『3』に費やした時間を思い出しますが
同じような何十年と価値を保つゲーム形態の完成形。
よりゲームとして幅拡い発展続作を希望。

初音ミク Project DIVA Future Tone

http://d.hatena.ne.jp/kodamatsukimi/20160930
新作の『X』も遊んでいるのですが、これが評判よろしくない。
リズムゲームとして同じものなのだけれど
曲を増やしたりみためをきれいにするだけじゃなくて何か変えなければ、
ということで追加されたのであろう要素がとても邪魔。
みためも重要なのに好きな衣装を選べず、
リズムゲームでパーフェクトをとっても課題クリアにならず失敗扱いされる。
前作に対し、何かしなければ仕事したことにならないのかもしれないけれど、
既に出来上がっている料理に蜂蜜を掛けるがごとき結果である。
いつものセガといえばそうだけど。


ここに書いたように、不随意運動の気持ち良さや
曲の好みがある時、突然に切り替わるところなど
とても面白いゲーム体験をさせてくれる作品なのでこれからも続いて欲しい。
けれどセガに限らず、出来上がったらあとは駄目にされていくだけなのか。
ミスタードリラー』も遊びたいけどもう帰っては来ないのか。

戦国大戦終了のお知らせ

http://d.hatena.ne.jp/kodamatsukimi/20161016
2017年3月で終了するのですが、なんと今月もう『三国志大戦4』が稼働開始中。
驚きの速さ。
最大の特徴は、カードがプレイヤーデータ専用化されたことで
カードショップで取り扱えなくなったこと。
プレイヤー間でトレードは出来ても市場価値は持たなくなった。
コードオブジョーカー』という同じくセガアーケードゲーム
そもそも紙カード自体がなくゲーム内データのみで、
基本無料でカード購入にお金を払う、ブラウザゲームと同じ仕組み。
『三国4』は『艦これアーケード』と同じく紙カードが排出されるのですが
紙のカードをわざわざ印刷するから、基本無料でないと言えなくもないことになる。


コピー可能なデジタルデータの一時的保有権利に高いお金を払う。
ゲーム内で性能が優れている、絵や音声からなるキャラクタが魅力的、
100回抽選中1回しか引けないような希少価値がある。
そこに、これまでの「家庭用テレビゲーム」何本分もお金を払う人がいて成り立っている。
他人事のように書いていますが、わたしも10年くらい大戦シリーズに
総額にすれば普通のゲーム何十作品分も払っている。


なぜか。
ブラウザゲームは毎週のようにバージョンアップ、追加要素が加えられ、
プレイヤーがその情報を交換したりして
ネット上で、ゲームの外で、雑談することもゲームを楽しむことの重要要素。
みんながいるから希少データを保持することにより価値がある。
大戦シリーズでは対人対戦であるから、より「ゲームらしく」、
相手より上手くゲーム内の要素を組み合わせ操作する過程の研究研鑽に熱が入る。
互いが公平でゲーム操作の巧緻しか差がないから
ネットの向こうの誰かに勝てば嬉しく、負ければ悔しい。


ゲームは作品で商品で、遊び道具で遊び場。
作るのに掛かった以上に遊んでもらえるものもあればそうでないものもある。
遊んでもらうとは別に、あれは良かった駄目だったと褒めたり貶されたり、
遊ばれるのでなく話の種として消費されることもある。
ゲームはデジタルデータで、本よりも複製容易であるけれど
追加要素をみんなで楽しむ過程や、対戦相手は複製できない。
一方で、本のように最後まで進めればそれですべてその作品を味わったことになるゲームもある。

まとめ

IMEの予測変換のおかげであっさり仕上がりになってしまいましたが
それもまた2016年12月31日に終わったこと。
みんなが、完成している作品にも何かを付け足し続けていかなければならない、
新しく変えていかなければならないのは2017年も変わらぬ世の常。
過去は良かった。同時に思い出したくない過去は悪かった。
現在はどうか。明日はどうか。
自分にとって、誰かにとって良いように常に新しくあることが
難しい、大変で、どうすれば良いか明確でないけれど、
その方が良いのでしなければならない。
寝ることで次の日が、いつか次の年が、いつも未来が来続けます。


2016年もおつかれさまでした。良いお年をお迎えください。

戦国大戦終了のお知らせ

コンプリートに終わったでも終わって欲しいコンテンツでもなく
公式からお知らせなのです。


戦国大戦」シリーズの今後について http://www.sengoku-taisen.com/news_1255.html


というわけで今回は
稼働開始から6年、三国志大戦からだと10年くらい、
えんえんお金を投入していたに相応分、だらだら振り返ってみたい。




遊んだことのない、興味のないひと向けに大きな視点からいくと
今のアーケードゲーム不調がお題に挙がる。
街のゲームセンターが減っている。
個人経営の小規模店舗は希少種だし、
複数店舗を有する大き目のところも数を減らしている。
休みの日に遊びに行く場所、アミューズメント施設のひとつとして、
完全になくなることはないにせよ、
ゲームセンター単独、これを主体として経営できるほど
ビデオゲームには集客力がない。


アーケードゲームが家庭用ゲーム機や携帯ゲーム機器と
差別化できる独自性は、
プライズ、UFOキャッチャーとかプリクラみたいなのや、
メダルゲームという賭博系との中間種のほかに、
家庭用では難しい専用の筐体、映像音声振動などのの出力や、
汎用のゲームコントローラーでは対応できない入力機器が挙げられる。
戦場の絆』のようなものは、これからのVR機器では到達できない
アーケードでなくては有り得ないものだし、
音ゲー」も入力形態の他に、環境的な意味でも家庭用で実現できない。
戦国大戦』のカード位置を読み取る仕組みも
タッチパネルでは完全に再現できない、専用筺体ならではのもの。


入力機器自体は独自のものでなくとも
オンライン環境が整っている、手軽に利用できるというだけで
成り立っている作品も少なくない。
マジックアカデミー』も『麻雀格闘倶楽部』も
携帯ゲーム機で十分成り立たせられる内容であるのに
ちゃんとアーケードゲームとして成立している。
パチンコパチスロに対するメダルゲームもそうだろう。
特に『スターホース』は
ゲーム内容としてはメダルゲームである必要はまったくないのに
メダルゲームとしてきちんと需要が存在している代表例と言える。
マンガがレンタルでなくマンガ喫茶として需要されているように、
囲碁や将棋で会所とオンライン対戦を両立させているように、
映画が映画館とレンタルとオンライン視聴とを並立させているように、
ゲームでもその内容、遊ばれ方によって、技術的なことと無関係に、
アーケードでもの遊ばれ方がある。


アーケードに限らず、家庭用ゲーム機という分野自体で、
売り切りのゲームソフトと
基本無料のアプリやブラウザゲームとの並立による
携帯ゲーム機の規模伸長によって、
「テレビゲーム」という言葉自体が消滅しつつある。
昔ほど「ビデオゲーム」は誰にとっても目新しく興味をひくものでなく
娯楽の選択肢における比重を低下させ続けている。
技術的にも、画面のきれいさ、2Dから3Dへの入力操作の転換、
オンライン対応といった時々の課題をなし終えて
いよいよ行き詰まりを見せている感がなきにしもあらず。
WiiUKinectも成功したとはいえないところに
VRがどれくらい「目新しさ」を打ち出せるかは注目されるところである。


アーケードゲームがなくなることはなく
アーケードならではのゲームも同様に存在し続けるだろうけれど、
市場規模、ゲームセンターに置かれるゲーム機自体が
遊んでくれるひとの減少に伴い縮こまっていく中で、
ならではの意義と価値を、どれだけ許され欲求されて
持続を成功させいくかはますます難しい。
ビデオゲーム」も、誰にもどのようなことができるか自明の
当たり前のものになったのだ。




もう少し狭い範囲でみると、『戦国対戦』は『三国志大戦』の後継ゲームで
『戦国』稼働終了後は『三国志大戦4』の稼働が予定されている。
しかしながら、かつての初代『三国』の活況再現が
困難であるのはもちろん、
『戦国』最盛期のプレイヤー規模をすら、取り戻せるかも懸念される。
もちろん出てみなければ何もわからない。
稼働時『三国志大戦』は「10年早い」時代を先取りした歴史的傑作だった。
しかし今は11年後。
いかに洗練を重ねているとはいえ
11年前から続いているだけの古いシリーズでしかない。
現状『三国4』への待望感が
強くあるようには感じられないし(個人の感想です)、
既出の情報を見る限り、シリーズを一新するような、
例えば『女神転生』シリーズにおける『ペルソナ3』のような、
新機軸であるようにも見えない。出てみなければわからないけれども。



戦国大戦』は『三国志大戦』に対し、
単に登場キャラクタが変わったというだけでなく
いくつも対戦ゲームとしての差別点を作り出し成功させている。
統率差による押し合い、陣形という計略種類、
タッチアクションによる騎馬突撃、鉄砲射撃の再現などが挙げられるが、
最たるものは「大筒」の存在。


対戦格闘ゲームのように、画面上部左右に表示されているゲージを、
先に削りきるか、時間切れまでにより多く削ったほうの勝ち、
というルールにあって、
『三国』はごく限られた手段を除き、
敵の守っている最奥まで攻めていかなければ
引き分け以上に持ち込むことはできなかった。
『戦国』では自陣、自身の城の近くに設置した「大筒」を撃つことで
城ゲージを削ることができるようになった。
攻めていかなくとも良くなったのである。
自陣の大筒を守り相手の大筒発射を妨害するだけでよくなった。
といって守っていれば良くなったわけではなく、
自陣の側で守っているだけでは、
戦場半ばまで出てきて大筒を近くから撃ってくる敵に負けてしまうので、
敵城には張り付かなくとも、前にはでなくてはならなくなったのである。


もっとも最初からこれが完成していたわけではなく、
Ver1まではこの「大筒」は戦場にひとつしかなく
Ver2では敵味方にひとつずつ固定位置に設置されていたが
Ver3で、ようやく自由に設置場所を変えられるようになった。
設置しないこともできるようになった。


『戦国』はお世辞にも運営が良かったとは言えず、
稼働開始から1か月で料金を下げたり、
半年ほどでデッキ総コストが変わったり、
武将能力値を大量に変更したりと、
特に初期の開発陣は擁護困難としか言えないが、
Ver3での大筒自由設置により
決定的にそれまですべてを過去に追いやった。
大筒を敵城すぐそばを除きどこにでも置ける、置かないこともできる、
同等の価値がある自動攻撃、速度上昇、兵力回復、
計略使用に必要な士気ゲージ上昇などと選んで設置できる、
敵城に近いほどそれぞれの効果は高まる、という変更点は、
それまでの押し引き、一勝負における攻めと守りの展開に多様さを与え
対人対戦ゲームとしての駆け引きに大きな広がりをもたらした。
Ver3の稼働開始はVer1から4年近くあと。
稼働期間6年中、最後の2年になってようやく完成したのである。



現在明らかになっている『三国Ver4』の『3』との最大の変更点は、
陣取りによる「内乱」システムにより
敵城に貼りつかなくともダメージを与えられるようになっている点。
陣取りは『悠久の車輪』を思い起こさせるけれど、
カードごとに持つ制圧力で、盤面を移動することで自陣地を上書する
スプラトゥーン』風のものらしい。
スプラトゥーン』遊んだことないけど。


「大筒」のようなものが今後の「大戦」シリーズに
必要と捉えられていることが推測されるけれど、
『戦国』の現在の仕組みより良いものなのかはわからない。
他の変更点には、『艦これアーケード』でも採用されている
カードのオンデマンド印刷などもみられる。
印刷済みのカードが排出されるのでなく、筺体にてその場で印刷。
ICカード(ゲーム内個人セーブデータ認証用)に紐づけされて
トレード不可(ただし筺体とセット販売の専用機器で可能)という仕様。
対戦ゲームとしてでなく、料金、遊ばれ方に大きく関わるところで、
プレイヤーの広がりにどのように寄与するか。
またタッチアクションによるより細かな操作はいまのところないようで
操作の複雑化をある程度初期化し、より広くへ訴求したいものと思われる。



「大戦」シリーズの他ゲームとの独自性は
カードの位置、向き、あるいはタッチすることによる操作によって
最大8部隊という多数の部隊を同時に、ターン制でなくリアルタイムに、
操作できるアクションゲームであること。
騎馬隊の突撃、弓部隊の射撃などを、
カード向きと刻々変わるカード位置の変化で再現しているという点が、
11年前の登場から現在に至るまで他になく新しく面白く独自の魅力であり、
三国時代や戦国時代が題材であることはそこまで重要ではない。
加えて新機軸ながら対人対戦ゲームとして
最初からかなりの程度、現在から見返して大きく方向を過たずに
良くできていたところも、初期盛況の重要因である。
以降は各カードが持つゲーム上での差別化、能力値だとか特技だとか
味方を強化したり敵を妨害したりといった計略効果の変奏を
ひたすらに増やし整えの繰り返しで、ここまで成り立っている。


過去の経験から対戦道具としての拡がりも調整も熟達されてきているが
遊ぶ方の受容も練達を重ねている。
対戦格闘ゲームと同様、遊び手のこれまでの経験値はゼロにしようがなく
勝てるひとにしか勝てなくなり、勝てるひとほどには楽しめなければ
遊ぶひとは減少していかざるを得ない。
ゲームとして覚える必要のあることのリセットは常に必要で
興味を持たせるよう新しいことを打ち出す一方で
複雑になり過ぎないようにもしなければならない。
ゲームの歴史も40年近くになり
遊び手の変遷、新規顧客導入は常ながらいよいよ大事である。




さて最後に、さらに狭く、
戦国大戦』を遊んだひとでなければ面白がれない範囲で
ぐだぐだ感想を書き流していきたい。
このサイトではそのゲームを遊んだことのないひとにも
おおむねわかってもらえるように書いているけれど
遊んでいなくても書けるようなことばかりでは
この10年セガに貢いだ金額、遊ぶのに費やした時間は大きすぎるのである。
ゲームセンターには行かずとも、ほぼ毎日動画を10分程度見、
さらに攻略Wikiを眺めたり書いたりした時間を合わせたら
どれだけになることやら。



『戦国』の最終カード枚数は1000枚を越えるが
当然全部は持っていない。
しかし「電影武将」システム、
紙のカードはなくともプレイヤーデータでは所持していて
対戦で使用できる仕組みがあり、
おかげでまったく触れたことのない武将はごく少ない。
最新バージョンでは新カードの期間限定お試しなども
この仕組みで提供されていた。遅すぎだが、仕組み自体は素晴らしい。
沢山のカードの性能を把握してはいるといっても、
もちろん使いこなせているわけではないので
所持しているカードから、ある程度気に入っているカードを挙げ
その勢力ごと振り返ってみたい。





まず織田と武田。
武田家は『三国』と変わらない槍騎馬勢力で、
織田家は新兵種の鉄砲を主体としている。
鉄砲という兵種と信長の「三段撃ち」は非常に強力なのだが
強すぎるゆえに、対戦ゲームとして強さ制限も大きい。
武田が全バージョンを通し安定して一定の使用率があったのに対し
織田は調整の影響を大きく受けている。
鉄砲の仕組み自体が何度も変更され、計略自体が無意味になり
変更を余儀なくされたりしている。
最初の設計が悪いといえばそうだが、
織田家の強さであった夜戦築城や付城や兵農分離などの近代化進行を
対人対戦ゲームでどうやって表現すればいいんだよ、
と言われると答えはないので、同情はしないでもない。


また武田が『三国』と変わらぬ槍騎馬勢力である、といっても
統率差による押し合い、タッチ騎馬による突撃という要素により
まったく同じものではなくなっている。
『三国』では部隊がぶつかると速度が下がるだけだったが、
『戦国』では速度が下がるだけでなく、
逆方向に移動する、自城から敵城へ向かう同士が激突した場合は、
相手をすり抜けて移動することができない。
そして統率差の大きい方が相手を押して移動できる。
これにより突撃するための助走スペースを作るために
壁部隊には武力だけでなく統率も必要になるし、
低武力でも統率が高ければ相手を押して計略強化時間を無駄にできるし、
自城に張り付いた相手も強引に引き剝がしたりできるのである。
またタッチ突撃は単に速度や威力が大きいだけでなく
あたり判定も広がる。敵が密集していれば複数部隊を削ることができ、
また統率差があれば相手を吹き飛ばすことができる。
とまあ書いていくときりがないのだが、
『三国』よりちゃんと進化している、
アクションゲームとして要素が増えて面白くなっていることは
記しておきたい。


個々のカードで言うと「瀬田」信玄が文句なしの格好良さで好き。
計略もひたすら「瀬田」。最高統率で戦線を上げて「瀬田」。
兵力ぎりぎりまで主君自ら働いて「瀬田」。車輪(回転自動槍)は勘弁な。
ちなみに最高統率は信玄と毛利元就本願寺顕如太原雪斎
ひとり場違いがいますね誰とは言わんが。
武田新旧四天王ズも馬場さんを始めとしてみな渋くグッド。
親父も勝頼も良い感じに活躍できて武田最高である。
ただ黄梅院の不遇さは泣ける。なんで北条家で出してあげないんだ。
北条家は瑞渓院の扱いも悪いし甲斐姫エラッタまで微妙だったし
そんなんだから地元で支持されないんだよ。
ちなみに三国でいう神速号令は武田所有。
タッチ騎馬の仕様上、ランカーでも実用的突撃制御は
2部隊が限度であることが明らかになる。
また一般に三国より戦国は妨害計略が使いづらいのだが
山本勘助の「啄木鳥戦法」は数少ない実用性を保つ性能であるのも印象的。
織田家では佐々さらさらが好き。速度上昇最強。今孔明とか欠陥品ですから。
斎藤徳元とか木造長政とかCに良いカードが多いのだが、
史実的には森一家が注目。忠政以外全員討死。これぞ戦国一家。
えいさんの計略が賢妻より使えないとかどうでもいいんだよ(真顔)。
帰蝶さんも鉄砲なのに速度低下なしの範囲毒とか開発ェな性能だったので
最後に輝いたのはめでたい。白ヒゲとRの兄も喜んでいるでしょう。




続いて上杉と今川。ここまでVer1の稼働最初からいる組。
上杉は槍が弱く騎馬と鉄砲重視。
初期の兵種調整が難航したこともありいまひとつ特徴がなくなったので
後から撤退コストと時間参照計略や城ゲージ抵当計略が加わった。
今川は鉄砲を除くバランス型で、長時間計略と短時間計略の組み合わせ型。
『三国』でいうと魏武と天啓という極端さ。その変わり個々の能力は低め。
後から最大士気を上下させる袁家的な色付けが追加された。
どちらも織田と武田というわかりやすいカラーに対して個性強め。
調整というより追加カード次第。この2家に限ったことではないが
誰おまえなひとたちが大活躍しているのも、
能力値が全ての信長の野望ではありえない面白いところ。


上杉の象徴はもちろん武力最強「毘沙門天の化身」謙信。
計略も単体強化で「三国」の呂布を頭良くした性能。
そのためコストが激烈に重い4。それでも活躍していたが、
最初8コストで設計していた連中は本当にどうするつもりだったのか。
今見返してコスト3.5以上の面子を眺めても、
ほんとに必要だったのかと思わざるを得ない。
無くて良かった、まではいかないのでなんとかなったというべきか。
なお謙信以外の最高武力もう一人は『花の慶次』仕様の前田慶次
あの作者さん絵の武将は平手の爺さんまで高武力なので仕方ない。
上杉も初期は伊勢姫から毘天の推挙無双みたいなことをしていたが
柿崎がこの面白くなさを体現してくれたので、修羅羅刹計略がもっぱらに。
大国阿虎親娘をみても会津征伐をみても兼続はまったく好きになれないが
お船さん(於フ子じゃないよオセンだよ)は許す。
ちなみにどうみてもおふざけ枠にしか見えない女性謙信の「車懸りの陣」は
意外にも実用的。絵だけのカードでなく上杉屈指の実用性ある一枚で
初期から最後まで使われ続けていたりする。
これも武力より統率を高めに取り
陣の武力上昇と回復を上手く活かすのが重要。


今川はやはり北川殿(ふともも)である。
兄(弟)同様の統率差ダメージが強い。
速度上昇がなく追加ダメージも上限があるのでコスト相応ではあるのだが
突撃時の弾きにおける統率差参照により、高統率で一方的に突撃でき
相手の動きを長時間、乱しまくれるのが楽しい。
旦那とのかみ合わせが額面通りでないのは残念だが
武田からきた信虎さんが楽しそうなので可。
白馬陣が弱いわけないんだよ弓は刺さるけど。
ゲームには関係ないけれど、今川家正室の兄弟が素浪人は無理があるような。
昔の歴史家は謎。
コスト2の雪斎も高統率騎馬で、若義元とのコンビが良い感じ。
玄広恵探兄貴も定番の両スぺC。仲良く微笑ましい。




3つめは浅井・朝倉と北条。2武家の連合という妙手に感心。
朝倉家はみな仮面を付け悪魔風のデザインで、
浅井家は白い羽の天使風デザインというのも面白い。
連合だけに、もう一方のコスト数を参照する計略などでデッキ制限が強く
型に嵌めてがっちりいくデッキが多め。
一方で低士気かつ他を参照しない単体で完結する能力が低コストに多く、
混色でのワラ性能も高いという相反する特徴も同居する。
イラスト的には宗滴教景最高(瀬田信玄やあとの家康と同じ方)も
活躍させやすさでは当主義景親娘や浅井三姉妹のワラ投入となる。
わたしだよ。すごーい。あっ、死んだ。
当たり前になっていたけど1000人以上の戦国武将に
声が付くのもすごいことだ。
お市様は計略は間違いなく優秀なのに織田でもここでも出番がなく
戦国らしいといえる一枚。
朝倉景隆などは浅井朝倉混色の象徴ともいえる良デザインで
3Dモデリング完成度と相俟り(関係ない)印象的。


北条家は守勢小田原城が象徴、守りの槍が中心で馬と弓が続く形。
独自特技「盾槍」は鉄砲ダメージと弾きを低下させるが、
それ以外には無意味。織田家と同様の設計を誤った感あり。
後付で乱戦からの統率差無視弾きが特色となったが、
その効果は盾槍と関係ないのは気のせいではない。
そんななか意地を見せたのが初代早雲。北条夫人は登場を早まった。
「五色の采配」や「大筒攻勢の采配」は使いこなせる気がしないので保留。
なぜこれで勝てるのか本当に謎。極まったランカーすごすぎ。
督姫の良計略は飛び抜けていたが、
全体に使われるカードが決まっていて、そこも失敗の印象を受ける。
あと白目さんはなんで白目なんですかね(白目)。




4つめは毛利と島津。本願寺は使いこなせなかったので最後に。
毛利家は弓と炮烙の組み合わせ。
炮烙火矢は毛利足元の瀬戸内水軍が実際に使っていて
狭い海上の戦いで有力だったと思われるが、『戦国』では地上でも使う。
地上の戦いだと飛距離に難があるし味方にも当たる気がするが気のせい。
武力差でなく統率差の固定ダメージが偉く、
妨害計略と弓と炮烙の三点セットでちくちく削りるのが家風。
島津は織田同様鉄砲主体ながら、
移動しながら射撃できる「車撃ち」を持つことで差別化されている。
一発ごとの発射数は下がるが、命中させやすさが大きく上。
待ち構え立ち止まって撃つのでなく、
常に敵を追いながらゴリゴリいくのが島津らしい。
もうひとつの特徴として「釣り野伏」や「捨て奸」の気風を反映した
「闘痕」があり、最大兵力が下がる変わりに武力が上がる計略を持つ。
戦闘民族である。個々の数値能力も高め。


毛利弓の代表が元就の「三矢の采配」。
三部隊が弓を当てると武力低下と速度低下が付く。
『三国』の麻痺矢号令の改良版。ちな使っているランカーも同じ。
もう一つ妨害の象徴が隆景の「慧矢の眼光」。
範囲内の武力統率を長時間大きく下げ炮烙が効果的だが味方にも効果有り。
敵を陣に統率差で押し込んでとらえ続けるという面白さは
陣形がなぜ『三国』になかったのかと思わせる良アイデア
この計略や尼子経久の自城強制転身などが代表的。
『三国』でも山頂にお湯を張る奥義というのがあったけれど
それを計略にしても良い、という気づきは見事。
騎馬でよく使われるのがR元春。SRも騎馬だがコストが重く、
能力、計略あいまり、必要な場所に必要な能力がある感じが美しい。
残る隆元は「瀬田」信玄同様、自身撤退で味方強化の「我屍」計略。
他の持ち主は伊達輝元と松平広忠
島津家では「釣り野伏」家久が使っていて楽しい。
三方ヶ原時代の家康が持つ「鶴翼の陣」もそうだけれど
なんでこれが「釣り野伏」、といいだせばきりがないのだが
「瀬田」信玄同様、押し引きの見極めがすべてという単純さが奥深く楽。
普通に便利なのが闘魂付与の「死地の鞘売り」山田有栄。
貴久同様どんなデッキでもなんとかなるのが嬉しい。
カタリナと組んで瀬名の癇癪で全滅した馬鹿は私です。




5つめは豊臣と徳川。
豊臣は日輪ゲージを使う秀吉時代、武断派と文治派に分かれる関ヶ原時代、
傑集散開計略を使う大坂の陣時代とで異なる特徴があり、
三勢力が同居しているかのような大勢力。
徳川も計略を畳みかける三葵系デッキと、
ゲージを貯めて一気の攻勢を仕掛ける戦旗デッキの2系統。
どちらも別系計略パーツ同士が同居できないこともないようになっていて
幅広い構築幅がある。
秀吉の「日輪の天下人」は日輪ゲージの消費量で効果が変わり、
最大消費では全計略強化計略中最高級の威力、ほどほどでも士気相応と、
傑作といっていい見事な出来栄えの一枚。
『三国』の国力ゲージを、日輪ゲージはきちんと昇華している。
一方徳川の三葵采配は、計略ごとに色分けがあり
三色揃い状態使用で効果が上がるもの。勝負どころで一気に士気を使う。
その象徴が家康の「三葵の采配」。
三色揃い「三葵躍進」は信玄の「風林火山」のように多様な能力が上がり、
また日輪ゲージと異なり「躍進」してもゲージは時間経過で消えるため
別計略へつなぐ計略とすることもでき、さまざまなデッキに対応できる。
三葵ゲージは日輪ゲージとはまた違う計略士気配分、
一戦ごとの押し引きの展開を実現できている。
豊臣家大坂の陣時代の傑集計略も独特のもので、
単に集まって能力を上乗せするだけでなく、
再発射に時間がかかるが相手攻撃無効の自動攻撃状態を召喚可能で
傑集、召喚、散開を使い分けることでさまざまな戦い方を構築できる。
部隊召喚的な計略は従前よりあったが、盤面指定位置に呼び出す戦い方は
別ゲームを遊んでいるかのように忙しく面白い。
練り上げればこれだけで
別のゲームがひとつ作れるのではないかと思わせるものがある。
逆に言うと現状では想像するほど広がりがないけれども。


個々のカードでは秀長やRまつが不憫で良い。
どちらも『三国』でいう「反計」のような計略、「逆計」を持つのだが、
あちらのように成功しても効果絶大ではない。
『戦国』では敵に掛かっている計略を消す「雲散」が極端に少ないのだが
「反計」が一切存在しないのも特徴で、これは最初の設計を褒めるところ。
傑集では女帝淀の方が忙しく走り回っているが
母に負けず秀頼も、秀吉に似せて上手く程よい位置に収まっている。
毛利勝永真田幸村に対する判官びいきで使いたいが
コスト-0.5の明石全登と比べて重さの扱いが難しい。
清正でないほうの加藤さんは烏賊扱いを免れた上に声が素晴らしい。
武田のSSセンゴク山県昌景とセットで堪能すべし。おえい!
徳川では使いやすさで松平忠吉が実は凄い子だったりする。
家光の弟の忠長もなぜかやたらと優秀で愛らしい。
戦旗デッキのコスト1.5は土井利勝で決定の光背格好良さなのだが
於大の方、水野忠政、華陽院、市場姫、水野勝成あたりの
徳川親族衆の優秀さは芸術的。惚れ惚れする設計である。





最後にその他。本願寺、長宗我部、伊達、真田、他家とまだ多数ある。
本願寺雑賀衆とのセット。真言宗の僧兵と
『尻啖え孫市』の影響を多大に受けた鉄砲使いとの混成。
雑賀勢は傭兵だっただけあり混色でも有用な能力持ちが多いが、
顕如に加えてなぜか蓮如まで参戦している本願寺勢のほうも
仏撃だったり金ぴかだったり槍を消したり独自の能力持ち。
大量生産はいらないです。
とはいえ本願寺全体では織田や島津以上に鉄砲だよりすぎて、
相手していて面白くなく、自分で使ってみたいともなかなか思えない。


長宗我部は一領具足をゲーム化した戦兵民兵の切り替えが特徴。
それぞれのモードの数やコストを参照したり、
切り替え時に効果は上乗せされたりとかなり複雑。
どう士気を配分すれば最高に切り替えを使いこなせているのわかりづらく、
沼のようにどこが底だか判別しがたい勢力である。


伊達家は騎馬の機動力と鉄砲射撃を併せ持つ竜騎馬隊が特徴。
実際の伊達家はもちろん竜騎兵を使用していないが、
同時代の三十年戦争で普通に使われているからまったくありえなくもない。
当時の火縄銃で騎乗移動しながら弾込めが出来たかはともかく。
竜騎馬は相手との正面衝突を避け、
鉄砲よりは近いが槍よりは遠くから射撃して削り、
または突撃できる状況では射撃と突撃の合わせ技で大きく削る、という
せこくせせこましくちょろちょろと立ち回るのが特徴。
三国でいう人馬号令とか錦馬超の一喝みたいなのを政宗が持っており
さながら西涼勢風でもある。東北だけど。
槍もそこそこいて、なかでも特攻野郎小梁川さんは
史実との活躍格差が圧倒的。いいのか。


真田家は最後に追加され、架空の真田十勇士を加えてもなお極端に小勢力。
「寡烈」という特技を持ち、人数が少ないほど武力が上がるという
変態さんたち(小松姫を見ながら)の集う場所。
幸村の胸飾りもぐう邪魔そう。昌幸も武田時代と違い悪い顔をしてます。
真田丸系計略もあり、長宗我部も使った設置陣形を使うのも特徴。
もっとも人数が少なすぎて無理やり感がないでもない。
寡烈持ちを活かすには少人数デッキでなくてはならず、幅が狭い。


最後に他家。Ver1からあり途中で他家(東)他家(西)に分割された、
当初の適当さを感じさせる設計。これまで上げた以外の勢力は全てここ。
当然ながら統一された特色は特にない。
史実が三国志のようにゲーム化するに程よい色分けでなかったのだから
仕方がない。これでも応仁の乱時にくらべれば頑張ったといえよう。
構成員は幅広く、
大友家のベッキー一家や津軽為信南部晴政、律義者の佐竹義宜、
太田道灌長尾景春細川勝元山名宗全、尼子勢に龍造寺四天王、
琉球尚円王からアイヌシャクシャイン宮本武蔵も天草時貞もいて
応仁の乱から戦国時代と定義できる200年くらいまでなんでもあり。
戦国時代ゲームだからこれはこれでありで、勢力としては雑多だけど
個々の武将の個性で楽しめる面々である。





さて、存分好きなように書いた。
武将カードの画像や動画はたくさんネットにあるので
さらに知りたい方はそちらをご覧のほどを。おわこんだけど。
データ総覧は以下のサイトが便利。
Wikiはけっこうこのサイトを書いているひとが書いているが
特に証明する手段があるわけではないので
実はまったく書いていないかもしれない。
まあこのサイトよりは限られた範囲でもたくさんのひとが読んだだろうから
良しとしよう。


戦国大戦用Webアプリ「1059tools」 http://1059.tools/
戦国大戦wiki http://www59.atwiki.jp/sengokutaisenark/

初音ミク Project DIVA Future Tone


2016年6月23日にPS4ダウンロード専用で発売された本作。
3ヵ月で80時間くらい遊んでいるのに、
いやそれだけしか遊んでないのかよといわれるとそうですけれど
このゲームだけ遊んでいるわけでないので許していただきたいのですが、
まだまださっぱり遊び終えた感が湧かないほど大容量。
もう次回作が出てしまっているけれどそちらに手を出す暇もない。




シリーズ中でこの作品の位置付けを説明すると次の通り。
なお曲数重複数とかは今てきとうに数えたのでだいたいそんな感じで。


まず2009年、2010年、2011年と1年置きにPSP向けに3作が出ている。
1作目は36曲(ボーカル違いの同曲をひとつとすると34)、
2作目は47曲(チュートリアルを含む 1作目と1重複は14)、
3作目が37曲(チュートリアルを含む 1、2作目と重複は9)。
これらはそれぞれ1年後後にPS3向けダウンロード専売で移植されている。
なおPS3版の「2」は「1」の収録曲が全て含まれている。


次にPSVitaPS3向けに2012年から2014年にかけて2作。
1作目は38曲(PSPでの3作とチュートリアル曲を除き重複なし)、
2作目は40曲(1作目との重複はないがPSP版とは20曲)。
同時期に3DS向けに3バージョン発売されている。
バージョンというのは、2番目のに1番目の曲が全て入っており、
最後の「でらっくす」に2番目+1曲の全48曲が全て入っているという
ゲームシステムや演出の試行錯誤過程を楽しむ仕様だからして。
ベータ版販売商法ともいう。
試行錯誤は良い意味でも使うけれど「錯誤」って良い意味ではないなあ。
そして今年VitaとPS4向けに最新版が発売済み。まだ遊んでいないけど。


さて、このように作成途中版発売を3回もやらかしているのに
定期的に続編が出ており、
いわゆる「音ゲー」のなかで
専用入力機器を要しないうちではもっとも定番と言えるシリーズである。
まわりが酷いからね許されちゃうんだよね遊べちまえるからね。
実際のところ制作するセガの良い所を上手く出すことに成功しており、
PV(プロモーションビデオ)と称する曲の演出が
凝っているものは実に凝っていて感心させられる。
好きな曲に、この力の入りまっくた演出のついたものがひとつあるだけで
全てが許せる出来ばえ、と言って良い。
凝っていないのは汎用使いまわし演出なんだけどまあともかく。
ゲームとしても、以前も書いたけれど、ちゃんと新しいものを出すたびに
細かいところで改善が見られて
遊びやすく、ゲームを楽しむのに集中できるよう洗練を続けているのは
セガらしくなく評価に値する。
もっとも3DSの最初ののようにやらかすこともあるのだが。セガだし。
新しいものに挑戦することは必要だしそれこそでこそセガだけど、
ベータ版で金を取るのは止めよう。


話を戻して今回のPS4版『Future Tone』。
2010年、PSPの2作目と同じころから稼働しているArcade版の移植である。
6年に渡って稼働し続けているが、当然常にバージョンアップが続けられて
収録曲も最初の40曲から現在は220曲超に達している。
それがほぼそのままPS4で遊べるようになったもの。
最初は別に数えていたボーカル違いを同じ曲に数え
演出違いを同じと数えると221曲。
それでいて値段はこれまでとほぼ同じ\7800。
また今月追加ダウンロード曲が4曲(内2曲はボーカル演出違いだが)追加。
今後もとりあえずあと2回、同値段程度の追加が決定しており、
ほぼArcadeに追随しての追加が当面は見込まれる。


つまり今回は同じお値段でほぼ6作分の曲があるのである。
これまで(PSP:3+PS3/Vita:2+3DS:1として)6作しか出ていないのに。
実際3DS版の48曲中20曲が含まれていないのだが、
PSPPS3/Vita版は1曲を除き全て含まれている。
難度もPSPの最初のは3段階しかなかったが
現在は5段階(ただし低難度や高難度版がない曲もある)、
全曲を全難度、順に遊ぶだけでもものすごい時間がかかる。
なお小声でいうとクリアできるとは言っていない。
端から端まで遊んでいるうちに最初の方の印象がうすれ、
さらに200回も遊んでいれば自然に操作に慣れて上手になるので
なお新鮮に遊べてしまう。
果てしなくいつまでもエンドレス。
3ヵ月たってもまったく遊び代の終端が見えない。


ゲームの中身はPSP、Vita路線とほぼ同じ。
曲の演出はそうなのだが操作体系をArcadeに準拠させているのが特徴。
Arcade版はボタンが4つしかなく、その分ボタンが大きく連打しやすい。
そのため、これまでのように左手と右手での
同方向への同時押しがなくなった変わりに、別方向への同時押しが加わり、
また連打が必要な場面も増えているため
右手と左手の交互押しは必須と言える譜面になっている。
譜面という言葉が適当が難しいが。
このように実際的なことを書くと難しそうだが、まったく難しくはない。
いや、操作の難しさを感じる程度は
個々人毎千差万別なので一口には言えないが、
少なくともピアノを弾くのよりは確実に簡単である。指2本動かすだけだし。
何の説明にもなってないか。
楽器をひとつもまともに弾けない自分に説明は難しいが
人間の身体は10本の指と1本の足でピアノを弾けるようにできているのだから
指2本だけのこのゲームの操作が出来ないことはない。ということで。




このごろ私のなかでのゲーム需要は、
頭をつかう程度によって区分されている。
すごく使うのが対人対戦。まったく使わないのがこういう操作だけのゲーム。
その中間の例はだらりと遊ぶひとが多いだろうRPGである。
RPGは操作にまったく容量を使わないし、
効率のために工夫はしても、あたまをつかうというほど使うか、
疑問に思われるだろうけれど、
お話を掛けた時間相応に楽しむには
提供されている舞台設定や登場人物演出とみためや劇伴がつくる「世界観」へ
こちらから積極的についていこうとしなければならない。
でなければただの作業である。お使いである。
入りこめず楽しめなければ唯々苦痛。
言ってみれば、マンガと同じ程度に入りやすいが
映画より能動的に、小説のように主体的に意識を持たなければならない。
そんなのお仕事でつかれたあたまではついてけないんである。


よってこういう操作だけのゲームばかり毎日遊ぶようになり、
頭を本当に使うゲームは充分に余裕がないとめろめろになるし、
ある程度に暇を感じている状態でないと
ひとのつくった物語に入っていくのは難しいのである。
以前はCAVE弾幕を浴びたり
ミスタードリラー』がこの枠を担当していたが
ご存じのようにかのものたちは無くなった。ナムコはもはや存在しない。
どんなに優れて好きな作品だろうが同じもので楽しみ続けるのは困難。
もちろんこういうゲーム、良作アクションゲームが
他にまったくないわけではない。
しかし、頭を使わない、
短時間、おおむね長くても1時間程度である程度の達成感が得られ、
操作入力に対して的確な対応があり、対人競争要素が希薄で、
余計なお話とか謎ときとかパターン化とか積み重ね要素とかがないもの、
というのはなかなかないのである。
特に最後。積み重ね要素とかパターン化である。
弾幕STG落ち物パズルゲームにだって
解法や積み重ねて上手くなる要素はある。
しかしそれはゲームを離れて資料と記憶と図上演習で上達するものでなく、
ボタンをポチポチやっているうちに血肉となって身に付くもの。
弾は見て、避けようと思って避けるのではない。
ぷよの重ね方もドリラーの落ちルートも頭で判断するものじゃない。
勝手に指が動くようでなければ間に合わないのだ。
その方が効率良いのだ。
そういう意味で頭が要らないゲームが良いのである。


音ゲー」はまさにそれである。
音に合わせてボタンを押す。画面の表示に合わせてボタンを押す。
それだけで面白いのか、文章では伝わらないが、
音楽に合わせて指揮棒を振っているだけで
人間は楽しめるように出来ている。
自分で自在に楽器を奏でて名曲を産み出せたらさぞや快感だろうが、
それは無理でも、既存の曲に合わせているだけで、それでも楽しい。
画面の表示は、慣れていないひとには滝のように嵐のように降ってきて
滅茶苦茶な高難度に見える。
音に合わせていないのならそうだが、
曲が押すべきときは教えてくれるのだ。あとはどのボタンをそこで押すか。
目で見て、頭が判断するまえに、指が動く。
それがだんだんできるようになり、
身体能力に問題がなければ誰もが歩き、走り、
運動能力に無関係に自転車に乗り
頭の出来に関わらず母国後で会話できるようになるように、
そう、頭を使わずども人間の身体は反応だけで
入力に的確な出力を返すそれが次第に自然にできるようになり、
それを的確にできたと頭が追認評価するだけで
気持ち良くなれるように出来ているのである。
良くできたアクションゲームには、そういう身体的快感を得られる。
単純にゲームを遊び上手くいったとき、なにか操作が良く嵌ったときの、
頭でなく身体で感ずる快感。それだ。




もう一つ、音楽に感じるのは、これらに対する好き嫌いの印象だ。
200曲のそれぞれに、何度聞いても心地良く感じるもの、
聞いていてあんまり良い出来ではないな、と感じる差がある。
音楽に関してはまったくわからない。
そこに出来の良し悪しがあるか、あるのだろうが、
どこにあるかはわからない。
好みが発生させているのであろう印象差を
出来良し悪しに投影させているのが、おそらく正しいのだろう。
というのは、この印象はときに変わるからである。
同じ曲でも演出が変わると変わる。
ボーカル、声がちがうのに変わると変わる。
曲を歌っているキャラクタのみためや作詞作曲者の名前や曲名すら
影響を与えているのがはっきり判断できる。
つまり曲の良し悪しとはまったく別のところで印象は上下している。


違うひとが歌うと良く聞こえる。
これは歌い手の技術とかその人の声がその曲に合っていたから、
そのように判断する。そうなのだろうか。
なんとなく、そのほうが自分にとって合っていたから、
良い印象を受ける何らかの要素を刺激したから、
悪い印象を与える要素が減じたからではないのか。
良く知っていると思える範囲、
例えばマンガの良し悪しとかゲームの良し悪しなら
わかった気になれている。それについて議論を戦わせられ、
あれはこういう理由で優れているのだ、と
自身と周囲に意見を貼りつけることができる。
確かに良し悪しはあるのだろう。
それについて知っているほど見えるものもあるだろう。
しかしそれが正しいと、いつから誰から見ても共通の物差しと、
いつの誰が正しく判断できるのか。それを正しいと何が認めるのか。
個々人の印象である。時に容易に上下するそれに依る。
個々人の印象を比べ合わせて同意を見出すことが
良し悪しをつけることであるとすればそうなのだろうけれど。
長きにわたり多くのひとに評価されることが
良いという理由ではない。
良いという評価を多くのひとに長い世代に
受けやすいものではあったろうというだけ。


的確にかくあるべしと評価されるように指が動いてくれると気持ち良い。
その時々でその曲は何度聴いても心をさまざまに揺り動かす。
これらは、絶対というものなど反証自在故絶対になさそうな、
真実という言葉に対して、少なくともその時に対して真実である。
あたまで判断したことでなく、身体が反射して対応した快楽。
そこに既にあった実感に、後から嘘を想像することはできても
その時は確かだった。
そういうことが簡単に、確実に得て、
一定に達し成し終えられるゲームというものは、まったく素晴らしい。


 

ドラゴンクエストビルダーズ アレフガルドを復活せよ


ドラゴンクエストビルダーズ アレフガルドを復活せよ - PS4 


『マインクラフト』は非常に成功した作品だけれども
なぜなのか理屈ではわかっても
実際にわかるかというと想像である。
トロフィーを全開放し
フリービルドモードで超げきとつマシンを作りバトル島も更地にして
することが無くなるようなひとにとっては。
ランダム表示されるネットの向こうの作品を目の当たりにして唯々感嘆するが
自分には鑑賞中にお腹が空かないようレストランを作る以上のことはできない。




『マインクラフト』は以前書いたように「レゴブロック」のテレビゲーム版である。
ブロックをリアルマネーで買わなくても良いが集める手間はあり
その集める手間をアクションゲーム風にして組み立てるのも同じ操作でするもの。
アクションゲームとして敵を倒すというような目的はなく
ブロック積み重ねていろいろなものを作るという目的に対するゲームが手段である。
『テラリア』はその2D版で、本『ドラゴンクエストビルダーズ』はその日本風RPG版。


操作とかみためを長年培った「ドラクエ風」に置き換えただけでなく
集めたブロックをどうやって加工していくか、
「おつかい」という小目標を繰り返し設定して導入する日本式RPG調で
丹念に置き換えている。
その出来栄えは「ドラクエ」の名を冠するに相応しく高く、
『アトリエ』シリーズとか『牧場物語』シリーズとかの
同じような「ものづくり」を「敵を倒して強くなる」の他に据えたRPGとして
お話にならないほど隔絶している。
もちろん『マインクラフト』のゲーム造形があってこそのものだけれども。


題材は30年前の1986年に発売された最初の『ドラゴンクエスト』。
1993年にスーパーファミコン用にリメイクされ、以降も様々な機種で遊べることで
未だに素材としての価値を保っている。
岩山の洞窟の構造は覚えていてもさすがにメルキドガーデンは覚えていなかったけど。


4作目のように段階を章立てで区切り
それぞれのお話でひとつの滅びかけた街を再建していくという目標が与えられて
そのためにはとりあえずどうすれば良いか、
再建していく過程で徐々に増えていく街のひとびとからの頼まれごとを
達成していくことで実現していく。
作った食堂で料理をして満腹度を回復するアイテムを作ってくれ、
敵が襲って来れば共に戦い、夜は再建した宿で共に眠る。
彼らが街中でちょこまか動き回っているのは
それが自分が建て直した舞台だからこそ楽しく嬉しい。


お話はいろいろあって、きちんとひとつの区切りを迎える。
章立てされているので気軽に何度も楽しめて、きちんと終わりがあって達成でき、
愛着あるみんなに称賛され感謝されながら
いつものファンファーレでエンディングを迎えるのはまことに気持ちが良い。
さすがドラクエだ。しみじみ良いなあ。
ドラクエ1」はファミコン版以来遊んでないけど
もう一度そちらでも、ひめをちゃんと救ってあげたくなるなあ。




一通り操作を覚えたところで後は自由に好きなものを作ることができる。
限られた広さの枠内だがネットに公開することができ
他のひとが造ったものを自分の作っているところの隣りに呼び出して
その中を眺めてみて回ることができる。
多くの力作、大作、工夫をこらした秀逸な作品に溢れていてただただ感心する。
すごい。えらい。よくぞ思いつくものだ。
眺めているだけでいくらでも時間を費やせるここち。


敵を倒して強くなるだけのゲームでも
そういうひとの作ったものに感心することはできる。
低レベルでクリアしたり、実時間短時間でクリアするよう工夫を凝らす。
実際それがどれだけ困難であるか知っているから感心すること、
そんな発想であればこれを達成できるのかと驚くこと。
限りあるゲームの奥行を隅々底まで浚って、
新しいものを作り磨き上げて完成されたものは、同じ素材からの別する作品である。


このゲームや『マインクラフト』も同じ。
建物。あとは看板に書かれた簡単な紹介。解説。
出来上がったそれを眺めるだけで、単純に時間を掛けるだけでは、
もととなって出来ているものを隅々まで知ってなぞるだけでは
つくれないものがそこにある。
敵を倒して強くなるゲームや、対人対戦ゲームや、
できなりのお話を楽しむだけのゲームを一通り遊んでわかった気になって
良かったのだろうかという気にさせる。やむ。良かったも何もないけれども。


それぞれのゲームは、それで様々に遊んでいくことができる。
このゲームはそれが特に目に見えてわかりやすい。
だから優れているということでなく、
欠けなくこちらの解釈を許さず完成されていて揺るがない作品だって良いのである。
この作品の音楽やパッケージイラストが想像させる舞台のようすや
キャラクターたちのちょっとした台詞のひとつに手を加える必要はない。
いつまでも漂っていたい、眺めていたい、遊んでいたいと思わせる舞台づくりは
ゲームパッケージとして必要だし、
ロード時間だって舞台の広さだって作れるものの幅広さだって操作のしくみだって
いずれもみな大切である。


その作品を懐かしく好意をもって思い出すとき
それはその遊んだゲームが最初から最後までもっていた出来ばえが全てでなく
結局遊ぶ自分がそれでどのように遊んだかでしかない。
ゲームに限ったことではないけれど。
コントローラーを握って、手でブロックを積みいろんな方から眺めるだけでなく、
ブロックを作って、小人になって加工して積んで作って中からも上からも眺める。
これはゲームだからで、これこそテレビゲーム、ビデオゲーム
とにかくゲームとよく呼んでいるいわゆるゲームのゲームらしいゲームだ。