2019年回顧

また1年の終わりがやってまいりました。
しかたなくしかたなく読み返して、
現時点で思うことを書いていきたいと思います。
昔と比べて量少なく楽には違いないけれど、
自分で書いた文章を読み返す億劫さは変わりなし。

今年はかなり均等に4ヵ月ごと3回。
4ヵ月ごと書こうと決めていたとかではなく、たまたま。
謎の年間ばりおりずむに支配されている。
ここ数年そういう配分であるところをみると
年に3回くらいゲームについて放出すれば十分なくらいが
自分の中のゲーム分なのだなあ。


今年のゲーム周辺のできごとですが、
画期となる特段大きな出来事はなかった感じ。
SwitchでTVモニタへの出力を廃した
携帯専用の「Nintendo Switch Lite」が9月に出ました。
ポケモン」も気づけばいつの間やら携帯用でない見た目に。
ちょっと前、25年くらい前は白黒だったのになあ。
いよいよ携帯据え置き間でみための違いは無実なことに。
ゲーム売り場はますます縮小して、
ネット眺める時間にゲームを遊ぶ時間がどこまで抗せるか。
ゲームとして面白いかより
話題になっているか次第が優先され過ぎるのは、
たかが一消費者ながらも憂慮すべきことではありますが。

クラウドゲームなどの話題もありましたが、
むしろ「PlayStation Now」とかの定額制、subscriptionの方が
2019年の単語といえるかもしれません。
そんなに遠くないうちに、ゲームはオンライン上に存在し
基本無料か遊ぶ時だけお金を払う形式が主流となるのかも。
従来のゲームセンターに置かれるようなゲームが
完全なくなることはないにせよ、書籍電子化よりは変化しそう。

 


さてでは以下は、今年遊んだ順に思い返していきます。


ドラゴンクエストビルダーズ2』

去年末にも書いたので付け加えることもなし。
1年以上前なので本格的に忘却の彼方だけれど、
現在の印象としては以下IGNレビューに珍しくおおむね賛成。
https://jp.ign.com/dragonquest-builders-2/31930/review/2
『1』は面白かった。『3』は出るのかなあ。
とはいえ、『マインクラフト』が遊ばれている総量に比べると
所詮「ドラクエ」ブランドも蟷螂の斧。
『マインクラフト』は本屋に沢山関連書籍が並んでいて
一回クリアしたら終わりの遊び方しかしない勢には
永久に到達できない世界と感じさせます。
ポケモン」にせよ、これも世代の違いよね。

 

三国志大戦(新)』
週1遊んでいる、と書いていますが、その後月1になり、
昨日遊んだのは数か月ぶりだった。
そんなで語る資格があるのかな話ではあるけれど
実は頂上対決、毎日更新される公式リプレイ動画は
すべて欠かさず見ているのである。
https://www.sangokushi-taisen.com/movie/battle.html

だから一日10分分の資格はある。はず。
土日は2試合載るので年50時間くらいは見ている計算。
これは文句なし。のはず。たぶん。
プレイ動画見るだけでしったかしていけない法律はない。
ない。ないけれど、浅くて薄いことは自覚しようと自戒を込めて。


あと14年前から書いている繰り返しですが
三国志大戦』を遊ばず
ゲームの面白さについて語る資格はないのであります。
それくらい斬新なのだ、だったのよ当時はさ。
どれくらい遊べば語る資格初級が獲得できるかというと
とりあえず頂上対決だけ見て
わかった気になっているひとよりは遊ぶべきだ。
それくらいハードル低くても良いから
面白いので遊んでほしい。試してほしいなあ、高いけど。
無料で遊べるゲームがいくらもあるのに
わざわざゲームセンターまで行き何千円も払うのは
おかしい世界、なぜ成り立つ市場環境なのか不思議には思う。
見目麗しキャラクタユニットの入手籤に何万円と払うのと
どちらがおかしいかといえば、どっちもどっちかもしれないが。

 

龍が如く0
今年『シェンムー3』が発売されました。
U.SUZUKIにわれわれが求めていたのは
アウトラン』とか『スペースハリアー』とか
バーチャファイター』であり、『F355チャレンジ』ではなく、
まして「シェンムー」続編ではなかった。
最新技術を使った、セガらしい斜め上の凄いゲームをこそ
期待していたのだけれど、
御本人の作りたいものは違ったのだなあ、と思う。
時代の変遷もあるのかもしれないけれど、悲しいことだ。
と遊んでもいないのに勝手なことを書く。


いや違うよ「シェンムー」の続きが遊びたいんだ、
というひとも当然いるだろうけれど、自分はそうは思わない。
シェンムー」の続編にどういう新しさが期待できるか。
続きって分割では。『FF7』リメイクと同じなのでは。
長くて長大なお話は分割して水増しして作って売って許されるのか。
いや良いのかもしれない、
続けて遊んで面白いならそれでも良いのかもしれないけれど、
シェンムー」がいつか完結したとき、そうあるとは思えない。


ゲームを作るのがどんどん手間かかるようになっているのはわかる。
だからといって、もとひとつだったものを分けて売るのはどうなのか。
マンガも何十冊も続けば確実に名作なのか。
5冊10冊で完結していても長々作品より優れているものはある。
完結していなくても既存部分だけで既に素晴らしい、という理屈もある。
そういうものもあるだろう。でも『FF7』や「シェンムー」がそうなのか。
映画的な面白さという面からすれば、
分割して完結していない部分がどんなに映像や俳優演技で素晴らしくとも、
それはその作品としての良さ、価値とは別物ではなかろうか。
ゲームではそんなもの目指していないのだろうか。


龍が如く」の面白さも「シェンムー」同様よくわからなかったけれど
では「ドラクエ」の、RPGのどこが面白いのか、といわれると難しい。
殴るのが人間でなくモンスターならそれで良いのか。
勇者として世界を救うのは気持ち良くて
現代世界で認められるのはそうではないのか。
RPGも、いやゲーム体験自体が、その題材に興味がなければ
操作していても面白がれないものかもしれない。
今までは目新しさだけで引き付けてこれたのだけれど。

 

『仁王』
12月に『新サクラ大戦』を遊んだらダッシュ移動ができない。
会話イベントの選択肢が選べない。
おかしい、こんなわかりやすいバグがあって話題にならないはずがない。
それでようやく、PS4コントローラのLスティックが
正しく入力できない状態になっていることに気付く。
ドラクエ10』ではまったく気にならなかった。
新しいコントローラ買ってきたら『新サクラ』がふつうに遊べて
試みに『仁王』を遊び直してみたら快適。
ええ今までのは何だったのなんでそれでクリアできてたの自分。
なぜ気づかない。おおまぬけ。


いやだって「ゼルダ」のダンジョン仕掛けがクリアできないとき
まさかバグだとは思わないでしょう。思うけれど。
まさかアクションゲームで操作が上手くいかない理由が
コントローラ壊れているからなんて思うわけがない。いや思ったけれど。
思ったけれど、まさか本当に壊れているとは疑わない。
いや疑ったけど、コントローラ買い替えるほどまでには思わなかった。
よしこれで『SEKIRO』も楽勝だな。歳は関係ないぞ。
クリアできなかったらコントローラがまた壊れているに違いないな。

 

ドラゴンクエスト10
現在はversion5.0が発売されているけれど、買っていないし遊んでいない。
versionいくつで完結するのかわからないけれど、
完結したら続きを遊ぶかというと、たぶん間違いなく遊ばない。
大規模なオンラインRPGにほぼ一人用モードとはいえ
触れたのは初めてなので、様々な目新しさがあり楽しく遊べたのですが
では「ドラクエ」って面白いのか、といわれるとわからない。
オンラインごしに協力しあい『ドラクエ10』を遊ぶのは面白い。
でも『ドラクエ12』が1人用だったら面白がれるのだろうか。
『11』はなぜ出来が悪くないのにあまり良い印象がないのか。
自分のゲームを遊ぶ日々の習慣時間が
もはや何十時間か1人で少しづつ積み上げるように遊ぶゲームと
あっていないのではなかろうか。
過去最高に面白かった、良くできていたと思っているRPG
20年ほど前くらいに遊んだPCエンジンの『天外魔境2』なのだけれど
果たして記憶を消して今、『天外2』を遊んで面白いだろうか。
ドラクエ10』は面白かったのかそうでなかったのか。
と書いて思ったけれど、
そんなこと思い悩んでも結論はないな。
実際遊ばないわけであるし、新しいゲームを遊ぶ時間で一杯だ。

 

 

幕間
ドラクエ10』から『新サクラ』間に何も遊ばなかったわけではなく、
もちろんいろいろ手を出してはいたのである。
出そうとしてはいたのである。


Switchは「ゼルダ」しか遊んでいなかったので活用せねばと
買ってきたのが『スプラトゥーン2』。
WiiUからの新規作品ながらすでに定番の風格。
4対4の対人対戦で、敵を撃ち倒す技術があまりなくとも
地面をペンキで塗りつぶすことでチーム勝利に貢献できる点が
従来の銃を撃ちあうチーム対戦ゲームとの違いであるが、
それくらいしか違いがない。任天堂もこういうゲームを作るのだなあ。


しかし遊んでいて何が面白いのかもうひとつわからない。
特に新しくないのでは。普通に銃を撃ちあうゲームでは。
みため変え任天堂が出すことで従来より広い層に訴求しただけなのでは。
ボーダーブレイク』とかと何が違うのかわからない。
めんどい。マッチングで8人揃うのを待っていられない。
『マリオオデッセイ』もめんどい。『スマブラ』も遊ぶ気になれない。
任天堂が面白いと思っていることの何が面白いのかわからない。
とは、あまりに偏狭なみかただが、ひとことで言えば、合わない。
対人対戦ツールとして出来が良いからの評価なのだ、と言われれば
そうですか、そうなんですね、とは思うけれども。
実際多くのひとが楽しんで遊んでいるのに
自分が興味ないからけなすことになんの意味があるのかである。


そしてまた、他にもSwitchのゲームを何本か買ったけれど、
どれも思い出せない、ここに書く気が起らない程度に印象に残らなかった。
たぶんおそらく出来が悪いわけではなく、自分に合わなかったのだろう。
見立てを間違えたのだ。何が自分に面白そうかの想定が違っていたのだ。
ドラゴンクエストヒーローズ1・2』もまったく面白味を感じなかったが
『三国無双』や『戦国無双』だと面白がれたのだろうか。
PS4の『パペッティア』のような、丁寧に良くできているのに
誰も受け取らなさそうな作品を見ると、
言葉にしがたい悲しさを勝手に想起する自分がある。
ただ狭い自分ひとりがそう受け取っているだけで、
周囲全てにその正しさが及ぶかのように当たり前に錯覚する。
それに仮に、もしそうであるあまりに不遇な存在があったとしても
誰か一人でも心底その作品を愛し受け止めているひとがいるのであれば、
そこに難癖をつける方がおかしいのに。売る側でもあるまいに。

 


さてそうしてそういうわけで、
何本も買ったのにことごとく外れ、いや合わず、
自分の遊べなさにげんなりしているうちに
数か月が過ぎ去った。
何しろこの間は、もう何年も遊んでいる『御城プロジェクトRE』の
ログインすらしなかったし
ゲームセンターへ行く気も起らなかった。

 

何をしていたかというと仕事をしていたのだが、
仕事はこれまでもしていたのだから
ゲームをする時間がまったくなかったわけでもない。
おそらく、ゲームをしたい意欲が削がれていたのである。
毎日帰ってくるのが22時過ぎで気力体力が追いつかなくて
週末くらいしか時間が取れなかったからではない。はず。
続きはまた一週間後、これで遊ぶ気を維持するのがどれだけ大変か、
とかそういうことではない、と思う。

 


そして12月になっていた。

 

 

『新サクラ大戦
12月になり暇になったわけではなく余暇時間も変わらなかったが、
ようやくゲームをする気がすこし回復。
『DEATH STRANDING』が良いらしい。
花鳥風月、じゃなくてなんたらかんたらの『エムブレム』が良いらしい。
しかし買ってきたのは『新サクラ大戦』であった。


サクラ大戦」である。
あれはゲームじゃないだろう、ゲーマーにあるまじき選択だ、などと
戯れに自嘲しないわけでもないけれど、
『マリオオデッセイ』『スプラトゥーン2』を投げ出して取り繕う資格もない。
頭空っぽでいい、操作覚える努力も
ゲームの仕組みを入れる必要もないものを遊びたかったのだ。
いや、より正しく言うなら、
遊ばないとならなそうなものではなく、遊びたいものを選んだのである。
『Detroit: Become Human』も『Marvel's Spider-Man』も遊んでおきたいし
The Last of Us』や『大鷲のトリコ』すら未だ遊んでいないが、余力がない。
隙間がない。頭に入らない。気力が湧かない。


そして一昨日書いた通り。
『新サクラ』は決して傑作ではないが、昔ながらの「サクラ大戦」だった。
期待以上ではないが期待以下でもない面白さだった。
正直アニメシーンはひどいと思う。
20年以上前の初代、『ときメモ』とかの同期だった時代にすら
あんなひどい絵はなかったように思う。解像能は悪かっただろうけど。
エンディングやオープニングですら酷い。誰があれで良いと思えるんだ。
なぜ見せ場のイベントシーンで使うことに誰も疑問を抱かないのだろうか。
どうして20年経って退化しているのか。
許せる最低線に達していない。無料で描き直させていいくらいなのでは。
でもまあ続編下手には定評あるセガだし。
ゲームの出来栄え管理の駄目さ加減は信頼できるのがセガだし。
それに『ペルソナ5』もアニメシーンはそんなに良くなかったから
今のアニメってそういうものなんだろう多分。
昔のように、ふつうの絵が当たり前にかけるひとが希少なのだろう。
なんでそんな業界が存在していられるのかさっぱり理解はできないけれど。
でもゲームの面白さ、遊んでいての楽しさにはそんなに関係ないから良いのだ。
良くはないけど、小難しい高踏なゲームを遊びたかったのではない。
高品質に越したことはないとは思うよセガさん。なんで成長できないんだ。
まあゲームとしては「サクラ大戦」していたから良かった。
遊んで良かった。良い選択だった。
また、「サクラ大戦」は何が面白いのか、を書く機会が持てたことも良かった。

 

 

そして現在に至る。
ちなみに『御城プロジェックトRE』は12月から再開。
以前書いたように、平日は1日10分でよく、
土日に遊べばちゃんとついていけるこのゲームの有り様は素晴らしい。
もうタワーディフェンスはこれだけで良いくらい気に入っている。
単に日本の戦国時代が好きなだけと言われれば否定もしないが。
1円も払っていないことにはまこと良心が咎めるが
払うに値するものがないから困る。
遊び続けるのに値するものは提供してくれているのに。

 

今年の感想は、できばえともかく面白がれるものは面白かった。
できばえ関係なく、自分が興味持てないものを面白がる余裕がなかった。
このサイトではゲームの何が面白いのかに管を巻いているけれど
出来の良し悪しではない、同時代の他と比較してどうだったかではない、
まして売れたかどうかではない。
遊んで自分が面白いかどうかなのである。そうでしか有り得ないのである。
面白ければ良し。次回作の発売日が楽しみと思えるような出来ならなお良し。
そのためには売れているほど期待もできる、という因果関係なのだ。


来年はとりあえず『エムブレム』の新しいのを遊んでみようかと思っています。
毎日遊びたくなるようなゲームを選べるよう幸運に恵まれますように。


ではまた2020年に。良い一年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

 

新サクラ大戦

サクラ大戦」は1996年に1作目が出て
2005年に5作目が出たのち、これまで続編が出ていなかったが
14年ぶりに続編が発売された。
タイトルは『新サクラ大戦』だが舞台背景は同じで
中身も、たしかにあの『サクラ大戦』だと感じさせる。


『新サクラ大戦』は前作から作中で10年ほど経過しており
登場人物の多くも一新している。
ゲームとしては、戦闘部分がターン制で仲間全機を順に動かすSRPGから
主人公機と僚機を切り替えながら戦うアクションに変更されている。
全体は複数の話に区切られ、前半で仲間との交流と事件の発端が描かれ
後半は戦闘パートで敵を倒して勝利、次回へ続くという流れは同じ。
主人公を除く仲間はみな「攻略」対象であるヒロインであり
その構造はなんとも古めかしい、べたべたの「ギャルゲー」である。


あの単純でひねりのない「サクラ大戦」を今出して果たして面白がれるのか。
そこが『新サクラ』の注目点だったが、
戦闘部分こそ時代相応に変わっているものの、
旧「サクラ大戦」シリーズが他の「ギャルゲー」と比較して傑出していた、
ただヒロインを「攻略」することが「ゲーム」の面白さでなく
そのばかばかしくも愛すべき舞台世界に浸れる「ゲーム」である、
自身の美点をきちんと理解した、真に正統な続編といえる出来ばえである。
懐かしい。


ただ、14年ぶりだから懐かしいだけであって、
旧を知らないひとが遊んで面白いのかはわからない。
旧シリーズのヒロインもお話の主要登場人物として登場し
『新サクラ1』のお話も旧シリーズの影を追うもの。
14年途切れたとはいえ前を一切無視するわけにはいかない、
といって新規に遊んでくれる層にも
面白さをわかってもらえるものでなければならない。
一作ごと完結しながら舞台設定を共通するシリーズ続編の難しさは
これぞ正しいやり方、というものが無いように思う。
逆転裁判」シリーズなども同じ難題に突き当たったものであり、
サクラ大戦5』でシリーズが一端途絶えたのも同じことで、
一作ごとの評価に、続編としての収まりようが含まれてしまうことから
逃れ得ない難しさは、
過去の評価を頼みにできること以上に利益対効果の見通しを暗くする。


それでも今、例えば「アイドルマスター」シリーズなどが
「ゲーム」としてある中に
旧「サクラ大戦」の面白さを正しくなぞる『新サクラ』が
どのようにどう受け入れられるのかは興味深いところ。

 

 


旧「サクラ大戦」は当時、何があれだけ受け入れられたのだろうか。
何しろ1996年、23年前の当時であるからして、
そのころの他作品とひとつづつ比較しなければ正しい評価をしようがなく
現在思うところを並べたてても捏造でしかない。
またその要素は当然ひとつではないだろう。
ゲームとして、今見れば古く凡庸であるように見えても
当時の市場において他と比較し優れていた面がなかったはずがない。
例えば初代『ときめきメモリアル』の発売が1994年。
そこではゲームとして目新しさがあった。良くできていた。
上手く時宜を得た。売り方が上手かった。
商業的にみて9年間に5作品が出るほど成功したという結果だけは間違いない。
同時に、それだけ人気があったのになぜそこで途絶えたかの理由も、
同じくひとつで言えることではない。
他と比較して埋もれてしまう内容だった。出来が悪かった。
新しさがなくなった。売り方がまずかった。出し過ぎて飽きられた。
やはり14年前に立たなければ、その当時なぜに答えは得られない。


しかしながらこんにち、『新サクラ』を遊んでみて、
懐かしさと共にゲームとしての面白さも
ふるびてかすれてすりきれきってはいないことに気付く。
現在からみると古い。他で見たことのないような新らしさはない。
何が「サクラ大戦」の面白さなのだろうか。

 

 

ゲームたる部分を見ると、
先に書いたように「アドベンチャー」部分と「SRPG」な戦闘部分でできている。
ヒロインのいる場所を選び、会話イベントで好感高まる選択肢を選ぶ。
仲良くなれば戦闘部分で能力値にプラス効果がある。
それが「アドベンチャーゲーム」であったが
この「戦闘ユニットと仲良くなることで能力を高めるゲーム」を
どれだけ「ゲーム」として他と差別化できるだろうか。


イベント発生の期間や機会を制限する。
正解だったのかの判定や効果をわかりづらくする。
正解を選ぶこと自体の難度を上げる。
多くの「アドベンチャーゲーム」製作者が、
この現在もこの限られた選択肢のゲームを使って新しいゲームを作りたいと
意欲表明しているのを目にするが
果たして「アドベンチャーゲーム」の新規性ある選択が
ゲームの評価につながった例がどれくらいあるだろうか。
多くはお話の筋書きや、それを演出する表現への評価であって、
この「ゲーム」に求められているのは、
正しく正解を選べたという評価への納得感にしかないように思う。
ミステリなどでは、それこそが「ゲーム」意義であるかもしれないが
「ゲーム」のに流れる時間の速さや量がミステリに向いているとはとても思えない。


何のために選択させているのか。
アクションゲームのように、
臨機応変状況に応じた効果的操作ができたかで判定するのは評価基準が明確だ。
対戦ゲームであればアクション要素がなくとも選択肢の結果に納得できる。
「アドベンチャー」ではどうか。
そこまでに提示された様々な要素から、
例えば、話しかけたキャラクタがその状況でどのような応えが返ってくることを
話しかけられたキャラクタに求めているかが、答えを見て納得できるかどうか。
それが一応の基準と思える。
しかし「ゲーム」では、お話にとって必要な展開へと導かれる応えでなければ
答えとして評価しない場合も求められる。
納得できないが必要だ。現実でも納得できないことには慣れているではないか。
それが日常ではない冒険というものなのだ。
しかしそこにアクションや対戦ゲームのような「ゲーム」である意義はない。
「ゲーム」として必要なことは納得できても、
正解のない選択肢を選ぶことがゲームなのかという失望だけが残る。

 

話し戻して、「サクラ大戦」の「アドベンチャーゲーム」は、
正解の選択を選ぶことは容易な種のゲームである。
選択した結果ごと異なるヒロインの反応を楽しむためのものである。
ヒロインの好感度合が最も下がる、つまり誤った選択肢を常に選び続けたとしても
戦闘部分がクリア不可能になるわけではない。
つまりヒロインを「攻略」する必要がない。それで話が行き詰ってしまうことはない。
ヒロインを「攻略」して仲良くなることが目的の「恋愛シミュレーション」と
その点異なるのだと言えないこともないかもしれないが、していることは同じである。
サクラ大戦」はヒロインと仲良くなるのが目的ではない、とは断じて言えない。

 

戦闘部分はいわゆるSRPG。行動順が回ってきたら移動して攻撃。
RPGとして能力育成の要素はなく、「アドベンチャー」での選択肢結果による補正のみ。
敵と仲間との位置取りと、回数や発動に制限ある必殺技を効果的に撃てるかどうか。
アニメーションや演出では高速で空中を駆け回ったりするが
「ゲーム」としては妄想で補うしかない。
地道に単対多の状況をつくるよう立ち回ることの繰り返しで
最高に能力が高まっていれば一撃で敵を灰燼に帰さしめるような波乱はない。


ここでしいて、「サクラ大戦」が特徴的である点を挙げるならば、
RPGな育成要素がないところとなるだろう。
仲間との交流による能力補正と、育成成長能力の個性付けは何ら矛盾しないことは
多くのゲームが採用していることから証明されている。
能力成長そのものがないことで各機の戦闘能力個性に着目する機会がなく、
ひるがえってはヒロイン個性演出機会も潰していないか。
煩雑さを避けて脇の経験値稼ぎのみが目的となる機会を設けなかったとしても
戦闘評価による能力補正もないのはなぜなのか。

 

現在から見れば、
サクラ大戦」のゲームとしての仕組みはSRPGを中心として良くあるものである。
基本無料でアイテム課金ゲームにもあふれるほどあるものでもある。
仲間の紹介と事件の演出部分に、ゲームたるバトルシミュレーション。
当時としては、仲間が全員攻略対象であるヒロインであることが
重大な他との差別点であったろうが、現在ではいうまでもない。

 


先に書いたように、20年以上前の当時なぜ「サクラ大戦」が売れたのかではない。
今遊んで何が面白いのか。


仕組は目新しくなく良くあるゲーム。
簡単で詰まるようなところはない。
上手く操作する必要は低い。成長要素なく単純である。
お話部分はあまりできが良いとは思えない。
伏線あるいはミスリードかと思わせるような台詞になんの意味もなかったり、
敵はわかりやすく悪で、味方が思い悩む理由もいかにも浅い。
話の規模は壮大なはずなのに、限られた登場人物しか戦っている描写がなく、
なんともからっぽでやすいつくりである。


ばかばかしい。でも面白さがあるのだ。
勧善懲悪、因果応報、破邪顕正。お話はとても単純。悪人は悪い、味方は正義。
世界を救うため少数の犠牲はやむを得ないか。断じて否。全員救ってこそ正義。
仲間との信頼。敗北からの再起恢復復活。そう、悪を蹴散らし正義を示すのだ。
いってみれば時代劇や子供向けヒーローもののお約束で出来ている。
時間内に事件が起こり、展開し、悪を懲らしめ、日常に戻る。
その形式は単純で驚きがないが、だからこそ安心安全に見ていられる。
絶体絶命の危機には、必ず最高のタイミングで味方が助けに現れる。
これを、展開がわかっているのに何が面白いのか、と非難するのはできない。
そうなることがわかっていても面白いからだ。
勝つのがわかっているのに戦うことになんの意味があるのか。
勝つことが気持ち良いからだ。正義は心地良いからだ。
一切後ろめたくなく罪の意識にさいなまれることのない善などあり得ない。
しかし善と正義の概念は矛盾しない。娯楽の場に勧善懲悪の心地良さは否定できない。
サクラ大戦」はゲーム作品として極めて稀に、
そいうばかばかしい子供じみた裏表のない作品形式を、その形式の持ち味を、
自覚してわかってあえて採用しているのが、他にない特長である。


そしてもう一点評価すべきは、ゲームの仕組みからみてもお話のありかたからみても
これが最初、1996年発売の『サクラ大戦』から変わっていないことだ。
単純なゲームである。成長要素もない。だから戦闘で良い評価を得る必要もない。
ヒロインの関心を得るのも極めて容易。お話が詰まることも無い。
だからときにあえて間違っていると判っている選択ができる余裕もある。
遊ぶことができる。
ひとつひとつの要素は現在から見て、目新しくなく手が掛かっているわけでもなく
技術的にすごくもなく、質が高いものでもない。
しかし、できる範囲でどれを選ぶかの選択においては確固たる軸があり誤っていない。
それが23年前の最初から出来ていることが素晴らしい。
初代から確固として完成している。
ゲームの基礎構造は未だ単純だが、しかしここをこうすればという点はない。
欠点はない。ゲームとしては最初から出来上がっているのだ。
そして継続して23年後も出来ていることが評価できる。
わかって出来ているんだなと思える。
次を作ろうとするとき、仕事をした証明として誰もが新しく何かを付け加えようとして
全体を損ねる例は枚挙に暇がない。ゲーム以外でも日常あまりにありふれて
人間は全体の退化、ごく一部の改善による進化が当たり前ですらないかと思うなかで、
無駄なもの、他であたりまえでも「サクラ大戦」では邪魔なものを峻別できている。
だから面白がることができる。

 


『新サクラ』では、時代に合わせみためも大きく作り直されている。
ヒロインたちの表情は、声だけでなくみためからも読み取ることができるようになったが
これが同時代の他と比較して、優れていると言うことはできない。
イベントシーンでいまだ一枚絵に頼る場面が多数あり、その出来もよろしくない。
予算の都合か声のついていないイベントも少なくない。
歩き回れる範囲は広くなく、個々の舞台背景の演出も不足している。
SRPGからアクションへの変更で、話を盛り上げる効果演出の一面は強化されたが、
作品主題として不可欠な全員で力を合わせ戦っていると感じさせる面は失われている。
サクラ大戦」として上手い操作をすることの必要はないとしても、
理想の華々しい格好良い動きはまだまだ妄想で補う他ないだろう。
同時代の、現在の他のゲームと比べて、総合的に良い出来か否か。
すごく劣ってもいないが、傑出して良いところもない。
5点満点なら4点、10点満点なら8点くらいのゲーム。
それが『新サクラ大戦』である。


でも「サクラ大戦」自体は現在遊んでも面白い。
他にこういうばかばかしく単純で面白いゲームがないからで、
ばかばかしさを楽しむことを邪魔する要素がない点で良くできているからだ。
ゲームとしてこの他に様式を代えがたく完成している。
器の中身、お話やみためはいくらも正すべきべきところはある。
しかしゲームとしては簡素でも必要十分にできている。

 

 

www.youtube.com

ゲーム外でも広く有名な主題歌の流れるオープニング。
懐かしい。そしてなんとも古い。でも遊んでみればそれが良いのだ。
エンディングでもやはり歌が流れる。20年前と異なりありふれた演出だ。
過去のエンディングもみな一度しか聴いていないはずなのに
印象深い歌だったなと十数年ぶりに思い出す。


過去シリーズを遊んだのはそれぞれ一周のみ。関連商品も一切購入したことがなく、
シリーズの、「サクラ大戦」という作品のファンではない自分でもそう思わせる。
音楽の良し悪しなどわからない。
一度聴いたら耳に残るものが良いのか、
耳に残らずとも雰囲気を盛り立てるものが良いのか。
しかしゲームと共にある劇伴において「サクラ大戦」のそれは印象深いものであり
その作品を思い起こす時、良く懐かしさを喚起するものであるのは確かなことだ。

ゲームとして同時代に置いて傑出していなくとも

その位置をよく理解し作られ、そこにいつまでも浸っていたい心地良い世界。
そういう十年後、二十年後に懐かしく思い出せるだろう作品が
現在も遊べたことは喜ばしいことだ。

 

 

 

 

 

 

ドラゴンクエスト10

前回も感想を書いたけれど、その後もずっと遊んでいた分、
もう一段感想を書いておきたい。数ヵ月分のもとをとりたい。
なお前回どんな内容を書いたか忘れたし
読み返すとか恐ろしいことも出来ないので
同じことを繰り返したりまったく逆のことを書いていても
ああこのひとってそういうひとなのね。無定見。いつものこと。

 


さて、『ドラクエ10』はオンラインRPGである。
オンラインRPGの中でも「本格的な」に分類され
常にネットにつないでいないと遊べない種のそれである。
PS4とかのトロフィー履歴を見て
だいたいみんなが取ってるのは取らないと
そのゲームを遊んだと言えない感あるものだが、
それもまたオンラインゲームと判定すれば、
今やオンラインでない方が特殊なゲーム、などと妄言できる。

そういうようにこじつけてオンラインゲームを分類するなら
以下の3段階である。

1.一人用
2.対戦
3.「本格的な」オンラインRPG

1.の2.3.との違いは「同時に遊ぶ必要がない」点。
古典的にはアクションゲームのスコアランキングであり
現在的にはプレイ動画を公開の場に上げるのも
『マインクラフト』で作ったのを他の人に見てもらうのもそう。
2.は「オンラインで一緒に遊ぶゲーム」のほとんど全て。
そして3.が、『ドラクエ10』とか『FF11』『FF14』にあたるわけだが、
では2.と3.はどう違うのか、というと難しい。


ゲームのできあがりから分類してみるならば、
RPGにおいて、街から街、街から迷宮をつなぐ山川平原が広大に用意され、
そこを多数のプレイヤーが移動したり、互いに会話したり戦ったり、
敵と協力して戦えたりするところが差別化する特徴である。
もうひとつ言えるのは、
ゲームルールとして敵を倒すことや勝ち負けをつけることが
唯一の目的として設定されていないところ。

街と街の間に、探索する迷宮の他にも
舞台世界の広がりを感じさせる意味しかないような場所が
無駄とも思えるほど大量に用意されているという事は、
そこで遊ぶことにとって2.とどう違うのか。
街と迷宮と戦闘だけで完結するゲームとどう違うか。
実際、2.に分類されるものでも3.に分類されることのほとんど全てできる。
ただ舞台として街と迷宮の間に山川平原がないだけで、
できるが、必要ないのでしないだけ。

しかしそれでも3.は、RPGを好きなひとにとっては
区別したいものだというのもわかるのである。
車を運転するゲームで、
コースから見えるコースの外も走ってみたいという欲求。
日の差さない迷宮の暗闇にも、
わずかない言葉の断片を手がかりとして舞台世界を創造する欲求。
秩序だっておらず無駄がほとんどで意味を持たない必要のないもの。
しかしそれが在ることが要るゲームもあるのだ。


RPGとはなんだろう。
その最初は、つまりTRPGにあるような、
ゲームルールの場における人間同士の会話が
即興で作り出す物語の面白さだ。

もちろんこれは2.でもできる。
モンスターハンター』でも『PSO』でもできるし
オンライン『ウィザードリィ』、『ディアブロ』ができるなら
『ダンジョンズ&ドラゴンズ』ができるのと同じではないかと言える。

それでも『ウルティマオンライン』などをみて
「本格的な」RPGがこれから作られようとした初期に、
「これからのRPGはすべてオンラインになる」ということばが出たのは
RPGが『ウィザードリィ』だけではなく
TRPGが、RPGの舞台がダンジョンを探索して敵を倒すことだけでなく
外に出て、街と街の間を移動する過程にも
楽しいゲーム体験を生み出すことがあることを知っていたからである。

敵を倒すこと、プレイヤー間でルールに則り
あるいは協力し合いながら競技を行って勝ち負けをつけなくとも、
ただ会話しているだけでも面白い物語は創出されるし、
ゲームとして楽しいことを知っているからだ。
昔から表現したかった、TRPG以上の広大に拡がるRPGがオンライン越しならできる、
なぜならTRPG以上に多数のプレイヤーと同じ舞台を共にできるのだから。
その夢の実現に立ち会えた熱意。


ドラクエ10』もこれらの実現を意識してつくられ、
したがって明らかに3.に分類される作品である。
ゲームの歴史に沿って言うなら、
パソコンと英語の高い壁を越えて、
『FF』よりもさらに全年齢に向け開かれた『ドラクエ』でこれを行い、
シリーズの名に恥じぬ内容をもって成功を為し、
こういう種類のゲームの面白さを幅広く普及させた偉大な作品と言える。
というようなことを稼働開始7年後に
数か月遊んだ新米にしたり顔で言われても
先行の先輩方にとっては何を今更であろうけれども。

3.のようなゲームは2.と違って競技の区切りがついて終わることが無い。
ゲームのそとのようにプレイヤー同士の関係は社会性をなして
そこに人生を感じることができる。
ゲームとして勝ち負けを越えた楽しさを持つことは異常な没入感を産む。
正確に応答する計算機よりも、
性能に劣る面も多い対人相手に競争する方が楽しいのは
その向こうに簡潔な計算式ではない、
誤りも正しさも含む、無限の奥行と広がり持つ世界が応答するからだ。
ルールに則して競うだけない。協力するだけでもない。
こちらの対応と向こうの応答とまた別の応えとが、
ルールを越えてゲームを作る。舞台となるゲームは遊ぶ場所を提供するだけなのだ。


「まだ見ぬ僕らの王国へ!砂漠を駆け抜けろ!」
初めてドルワーム王国に行った時の思い出。
恐ろしいモンスターを横目にドワーフ20数名でゴブル砂漠を駆け抜けた。私は僧侶だったので「ザオできます!」と自信を持って発言していた。新しい町に行く時ってドキドキしますよね。
テーマ:1年間の思い出
投稿者:ガンバさん
ドラクエ10』公式サイト「ドラゴンクエストX展覧会」(https://www.dqx.jp/Xrankai/photo/ver01.html)より

 


ドラクエ10』は多数のプレイヤーが同じ舞台で協力しあって
いままでの「ドラクエ」を遊べるゲームなわけである。
しかしながら1人でも遊べる。
これを書いているひとはほぼひとりでしか遊んでいない。
つまり上に書いたような
製作者が意図したであろう楽しさのひとつとはほぼ無縁であるわけだが
それでもなかなか面白かった。
もちろんそれは製作側が1人で遊んでも楽しめるように作っていたからで
ドラクエ』がオンライン専用になるという時に
より幅広い層に向けて、こういうオンラインゲームの面白さに
近づく機会を与えたいからだったろう。
仲間と組むことを前提として作ることと
どちらが正しかったか分かることはないが、
この方針でもひとつの成果を挙げたと言える。


ドラクエ10』は現在稼働7年目で、
PS4Windows、スイッチ、WiiU3DSスマートフォンで遊ぶことができる。
最初に出たのはUの付かないWii版なのだが現在は遊べない。
現在version4まで進んでおり2019年内にversion5が出る見込み。
version4までが含まれたオールインワンパッケージが¥3000ほどで購入でき
月額課金は機種により異なり¥1000~¥1600ほど。
また毎日2時間の無料時間「キッズタイム」があり、
この時間内に遊ぶ分には月額課金不要。永久無料。
スイッチ版以外は体験版でかなり、具体的にはversion1部分、
つまり全体の1/4ほどが遊べるのでお試しあれ。


で、なぜ1人で遊べるかというと、
他のプレイヤーキャラを酒場で「サポート仲間」として雇えるからである。
もちろん会話はできない。アイテムやゴールドのやりとりもできない。
レベルや能力値や装備は、他のプレイヤーが育てたそのまま。
装備を引っぺがして錬金術はできない。どういう能力が見られるだけ。
つまり上の上の方に書いた分類の1.ということである。
この「サポート仲間」は他の「ドラクエ」同様「さくせん」に沿って戦ってくれる。
ただし「めいれいさせろ」はない。
そして自分のキャラクターは常に「めいれいさせろ」状態で
「さくせん」に沿って自動で戦えない。さすがのこまかいこだわりである。

他のプレイヤーが操作しているキャラクターとは、当然会話もできるし
ゲーム内お金のやりとりもできる。
アイテムもお話進行に関わるものなどは当然制限があり、
入手に多くの手間かかるようなものも制限ついていたりするが、可能。
酒場で雇えるサポート仲間はプレイヤーのレベルによりレベル上限があり
同じ程度の強さしか雇えない。
プレイヤーキャラならこの制限はないが、当然相手の同意が必要である。


さて、1人で遊べるとして、ではその何が面白いかというと
7年経っているのでさくさく進めるからである。
きょうはじめた初心者が、
7年遊んでいる先行プレイヤーに永遠に追いつけないのでは
同じゲームを遊んでいながらいつまでも共に遊ぶことができない。
だからあとから始めるほど強くなる早さが優遇されている。
ものすごい速度でレベルがあがり、強くなり、高価な武器防具が揃う。
お話もがんがんこなせてこなしきれないほどである。
7年間かけて順を追い徐々に広げられてきた舞台が、
いきなり一望のもとに開けているのだ。それを一息に引き寄せられるのだ。
これは楽しい。これが楽しくなければRPGとしておかしい。
この部分の快感はとても強く、
いわゆる記憶を消して最初から遊び直したい類の
生涯一度しか味わえない楽しさだ。

したがって、よほどRPGが、ドラクエRPGが合わないのでなければ
ドラクエ10』を今から始めるのはすごく楽しいはずである。
むしろすでに遊んでいる高レベルのプレイヤーに手を引かれて、
あるいは攻略サイト片目に効率よく遊ぼうとすると
あまりにも早く進められすぎる。
そんなことしなくとも、既に十分過ぎるほど効率極まっているのだ。
ぜひともある程度は、具体的にはversion2をクリアする部分くらいまでは
オンラインRPGだけど1人で、そして攻略サイトをみずに楽しんで欲しい。
これはちょっとふつうの他のRPGでは体験できないゲームのつくりだ。
すごい楽しい。記憶消してもう一度遊びたい。


ドラクエ11』は、良くできていたか、というと良くできていたし
欠点はどこでどういうように直せばよいか、というとまことに難しい。
仲間はあんなに大勢いらなかったのでは。
でも戦闘の幅をもたせるには止むを得ないか。
あいかわらず世界が主人公のためにできすぎなのでは。
では通過するだけが最高効率の益亡き舞台が今の何倍も広いほうが良いのか。
まったくわからない。でもあんまり繰り返し遊ぶ気になれなかった。

繰り返し遊ぶ気になること、
あるいはそのゲームにいつまでも触れていたい意欲が
良くできていることと比例するのではないが
お話を追うための段取りをこなす過程が、隙なく、遊び少なく
終始一貫積み重ねられていることが息苦しく感じてしまう。
でも過去の自身が高く思い入れもって評価しているRPGはそうでないのか。
いま、記憶を消して過去に遊んだ最高のゲームがここにあったとき
それは『ドラクエ11』とどう違うか。
たぶん遊んだ時期次第なのだ。思い入れである。

しかしながら7年目の『ドラクエ10』はたいそう楽しめた。
すごい早さで強くなり、次々に世界が広がり手早く事件をこなし突き進む。
ドラクエ11』より楽しい。
いろいろすっとばして高速に処理できている感が楽しい。
けれど、レベルがどんどん上がっていき
だんだん先行しているかたがたに追いついてくると
次第に当然、進行速度もやっぱり少しづつ落ち着いてくるわけである。

なかなかレベルが上がらなくなる。あんまりこの前と強さが変わらない。
敵を倒すにも苦労するようになる。
いや、そこまでまったく苦労しなかったわけではなく
ちゃんと、というのも変だが何度も全滅しており
けれど別のイベントをいくつかこなして鍛えて再挑戦すれば
倒せるようになっていたのが、
別のイベント、できることの選択肢がだんだんなくなってきて
レベルもあがらなくなってきて、装備の更新も誤差になってきて
そうすると仲間の職業選定とか戦闘時の戦術組立とかになってきて
ちゃんとRPGしてる風になってくるわけだが
つまり普通のいつもの良くできたRPGの「ドラクエ」になってくる。

果たして「ドラクエ」の面白さとは何なのか。
ドラクエ」のようなRPGとは何が楽しいのか。
わかりやすく入りやすく、テンポよく進めやすく、
適度に苦労が必要で達成感があり、
誰にとっても上質に思える出来ばえの心地良さがある。
そういった良くできていることが、良いRPGなのだろうか。


7年前から遊んでいる方々は、それこそ毎日のように何時間も遊んで
ゲーム内のありとあらゆる要素を遊び尽くしているわけである。
普通のいつもの「ドラクエ」のような部分は
バージョンアップの直後に消化してしまい、
毎日やることない新要素はやく、とボヤキながらも
そこで知り合いと遊んでいて楽しいので遊んでいる。
ゲーム開始当初はなかった課金要素も現在は取り入れられており
戦闘の強さに関わるものではなく
主に見た目の変化や、ゲーム内に持てる自分の家を飾るものを購入できる。
そういうもので仲間と遊ぶのだ。
それで遊べるから7年間にversion4までしか進んでいない、
いわゆる普通のRPGのおおよそだいたいおおむね4つくらい分のお話しでも
今も楽しめているのである。


version2までの普通のRPGの部分は、勇者が出てきて、それを助けて、
魔王を倒して世界を救うといういつもの「ドラクエ」で出来ている。
そこまでを普通のRPGでは出来ないような高速でこなすのは楽しい。
そこからが、そこでいつまでも遊んでいたいと思わせられるかが
「本格的な」オンラインRPGである『ドラゴンクエスト10』の
あるいは素の身かもしれない。
数か月しか遊んでいない身からも、7年目の『ドラクエ10』は、
夢中で遊ばせる要素もある一方で、明らかに失敗している部分も見える。
これは定期的にバージョンアップし続け、付け加え続け、手を入れ続け、
遂にサービス終了の時がくるまでの歴史の中の、
どの部分からどこまでを遊んでいたか、
ひとによってさまざま変わるところだろう。
出会いの機会は一期一会。
いつ触れるか、何の次に、どれの前に機会があるかで、
その作品の出来栄えと正しく比例せず、自身の中の価値は変わる。

 


もうひとつ面白いと思ったのが、NPC
誰も操作していない街で暮らす人たちの扱いである。
普通のRPGでは自分と仲間以外はみなそれなのだが、
この種のRPGでは大勢の主人公が自分の他にも多数いて、
彼らは自分とその仲間だけでなく、
他の主人公とその御一行の相手もしなくてはならないのである。
これは全てのこの世界で暮らしている人々に共通の鉄則であり
名もなき村人の立場であろうが、
数多存在する主人公どもより貴重で偉いはずである伝説の勇者であろうとも
変わらず従わなければならない。
昼も夜も彼らは同じ場所で、無数の主人公相手に同じ話をし続ける。
移動してはいけないのである。
なぜなら他の主人公が同じように話を進められなくては困るから。
寝てはいけないのである。サービス開始から世界終焉のその時まで。
お話の進行に伴い魔物に襲われて街が滅びたりしない。
いつでもいつまでも後から来る可能性のある主人公のため
同じ状態を維持し続けなければならないのだ。


思えばゲームに登場させられる彼らも辛い立場である。
主人公がどんなひとだろうが、
同じ行動には同じ態度で接しなければならない。
ゲームだから当たり前ではある。そういうものなのだ。
ムジュラの仮面』の「クロックタウン」のようにはいかない。
その世界で遊んでいるひとの邪魔をせず、その楽しみを助けるために在り、
無意味であってもよろしくなく、最後まで一切の自由はない。


ドラクエ10』は、表面上、いつもの「ドラクエ」のように作られている。
1人で普通のRPGを遊べるようにも遊べ、
「本格的な」オンラインRPGのようにも遊べて
いつものように、この町は何というところで、
どういうことが起こりそうなところか説明し、
それしかしないよう街の人は在る。


これを進化、ゲームとして一歩すすめて改善するとしたら
どうしたらよいのだろうか。
まるでそこで本当に生きて暮らしているかのように、
様々な行動を採る方が自然で現実味あって高踏であろうか。
主人公にちょっとした頼み事をすることがあるかもしれない。
その結果で彼らの生活にも変化が生じ、
その小が大に転じて大きな物語をつくるかもしれない。
いままでのように一から全てを設定してあげなくとも
自動生成して物語舞台を構築できるようになるかもしれない。
でも1人用RPGならそれはできても
「本格的な」オンラインRPGでは、それは出来ないのだ。


真に本当らしいRPGであることと、
多数の主人公が同列に存在することを許容できることを並立させること。
TRPGにはできるがコンピューターオンラインRPGには至難である。
技術でも采配でも如何ともし難い袋小路。
閉じた世界を無限に開くように遊ぼうとすることが神をも畏れぬ傲慢なのか。
而して現在のRPGは今この地点に立つわけである。

 

 

 

 

2019年上三半期報告

4ヵ月ぶりくらいにゲームの感想を書く気になったので
すかさず活かしていきたい。
4連休以上でないと気力が湧かないと判明したわけで
次の更新は年末だな夏は暑いから。

 

なお久しぶり(4ヵ月ぶり)にはてなにきたら

景色が変わっていてびびる。

 

ドラゴンクエストビルダーズ2

昨年度末にも少し触れたけれど再度。
全体『1』を拡張したつくりながら遊び終えた感あまりよろしからず。
その理由は『1』がステージクリア型で
繰り返し遊べるようになっていたからだと思う。
クリア後に自由に街づくりを楽しみたいのではなく
趣向凝らし用意されたパズル解いて褒めてもらう方が楽しい派からすれば。
遊び方の問題で、けれど『1』は両方できたのに『2』ではできない。
全体のお話のまとまりとしてそのほうが良いと判断したのだろうが
クリア後の自由さが楽しみでない身には
一度食べたら終わりのもったいなさだった。


ほとんどのゲームがステージ構成でなく
そうだとしてもクリア後、自由にそこだけ選び遊べるようにできていない。
それだと面白がれないからである。
2時間の映画の真ん中10分を切り取っても面白くない。
どこをとっても敵と戦っているだけの作品ですらそうだ。
育成成長、全体の悲喜緩急。登場人物同士の関わりに音楽による効果。
アクション要素が少なく、ストーリー要素が全体として希薄だとそう。
パズルをテンポよくクリアする快感があり、
そこだけでまとまったお話の満足感が得られるなら
『ビルダーズ1』のような形式も考慮されるべきではあるが
それがなしえる様式のほうが稀と言える。


三国志大戦(新)

今年に入ってだいぶ遊んだのがこちら。
昨年の夏くらいからちょこちょこ触っていたが
現在はひさしぶりに週1で2時間弱ゲームセンターに通っている。
タイトルの(新)は、2005年から2016年まで稼働していた(旧)とは
殆ど同じ仕組みながら、全面リニューアルしてタイトルは同じという
紛らわしいことをしているから。
version表記もまた1からで表記が大変わずらわしい。
三国志大戦4』として新規ユーザーに敬遠されるのを恐れたのだろう。
現在(旧)をあそんでいなかった比率がどれくらいあるかは知らないが。


中身はほぼ同じだが、料金がお安くなったのが嬉しい。
現在の仕様では、最初に¥200、続けて2戦目をするのに、
¥300払って追加で武将カードを貰えるモードにするか、
初戦に勝っていれば追加報酬が無い代わり無料で遊ぶかを選ぶことができる。
新規カードが欲しい人はお大尽に¥500で2ゲーム遊ぶし
遊べれば良い人は無料を選べる。
ゲーム内報酬にリアルマネーを出したいひとは出せるしくみ。
(旧)は¥600払って3戦の仕様だったことを思うとまことにありがたい。
さらに初期は初戦¥300、勝ったら¥200でもう一戦、さらに勝つと¥100の
3戦で1セットという過酷さだったが、大量に客がついていたので仕方ない。
現在の仕様では勝率5割でも1ゲーム平均¥133で遊ぶことができる。
勝率2割5分で¥160、勝率8割でも¥111なので不公平感が少ない。
昔仕様だと勝率5割で¥242。最盛期の人気すごい。
中身がほぼ同じなのも、15年前から言っていたように
時代を10年先取りした15年後も楽しめる傑作だからである。
遊んだ人にしかわからないと思うが、
三国志大戦』も遊ばずにゲームについて語るとかありえない。
15年遊んでいて底なく他に変わりなく面白い。


近年のゲーム最大の発明は、お金を出したいひとから、
購入して貰ったあとからも集金できる仕組みである。
アーケードゲームでも、ゲームをたくさんあそびたいひと、
そのゲームでカードをたくさん集めて、詳しくなって、
仲間と動画を見ながらわいわいゲーム外でも楽しみたいひとと、
どちらにも良いように応える仕組みが整備されてきているのは結構なこと。
(旧)の昔は公式動画ですらゲームセンターにいかなければ見れなかった。
15年も前の話。


龍が如く0

某「キムタクが如く」が話題になっていたので。
シリーズ中では出来がいい方らしいという風聞に基づき。
このシリーズはPS2で出た初代以来で、やはり15年まえの2005年。
絵がきれいになっているはずだが、朧げにしか覚えていないので
まあこんなものなのでは感。でも堂島組3幹部の毛穴感には感心。
主人公2人はさすがに覚えていたが、その親友はまったく覚えていなかった。
何か以前は100億くらいで大騒ぎしてなかったっけ。
15年でお金の価値も下がったものよ。


一応最後まで遊んだのだが、いまひとつ感想が思い浮かばなかった。
主人公がヤクザという時点でもう駄目なのでは。
話し合いで話が進まないので
よくこれでシリーズ化し何作も話を作ったものだとそちらに感心する。
なぜ最初から『事件屋稼業』みたいにしなかったのだろう。
シリーズを重ねているだけに
最後まであそばせるだけの引きと全体の出来はある。
アクションRPGとして、例えば『ゼルダ』と比較もできるだろう。
でも別にいいかな。単純に「任侠もの」に自分が興味無いだけか。


仁王

次は何に手を出そうかというところで折よく半額だったので。
テクモの『忍者龍剣伝』『NINJA GAIDEN』を作っていたひとたちによる
和風『デモンズソウル』。
デモンズソウル』もひとつの偉大な発明だ、とか書くと
キングスフィールド』を遊んでいない奴がゲームを語るなと
怒られそうなそれ。
エロバレー」と同じ人たちが作っているかは存じ上げないが
ヒロインのお勝(徳川の守護女神とは別人)や誾千代が美人。
やっぱり西洋風より和風だよねという個人的趣向を多分に反映。


楽しく遊んだが、自分の指がついていかない場面には閉口した。
この敵はこういう攻撃でこれが開始合図で弱点はここね、と
わかっているのに操作がついていかない。なんどもやられる。
音ゲーと同じで、画面を見て脳が判断してから指を動かすのでなく
この色や形や音のタイミングでこのボタンという
反射で操作できれば良いのが良くできたアクションゲームというものだが
結果がついてこない。指がなかなか覚えない。
あたまではわかっているのだからこれ以上工夫しようがないのである。
ゲームの反応が悪いんだと文句をつける勢いるよね。
音ゲーには大抵タイミング調整ついているね。あれは苦情避けなのね。


歳。歳なのか。
このサイトも10年以上続いてるし。
どれとは言わないが15年前のゲームの感想をここに書いた覚えがあるし。
怖いから読み返さないけど。


ドラゴンクエスト10

今更。
いやなんか体験版がすごく後ろのほうまで遊べるらしいと聞いたので。
ほなら試してみるかと気楽に始めたら、ほんとにかなり遊べて
無料にしてはあまりにも遊んでいる時間が長くなりすぎ
悪くなって製品版にしたのである。
そういうこころにも応えるダウンロード販売って偉大。
ちなみに今調べたらお値段¥3000だった。遊んだ時間は調べない。


遊べる時間、間隔がわたくし仕様上不定期なので
オンラインゲームなのにソロプレイしかしておらず
それで感想も何もあったものではない。が
たまに入ってきて周りのみんなが駆け回っているのを眺めながら
表面だけさわるような遊び方も許されているのは懐深い。
また、変な遊び方ではあるが、
本作は2012年から稼働しているゲームで、
今から遊ぶと要素が積もり積もって膨大なことになっており
それを攻略サイトとかに頼らず読み解いていくのは単純に楽しい。
この手のゲームの常として、遅いスタートであるほど
序盤は加速して付いていきやすく手が入れられており、
そのへんの基本無課金ゲームとちがって
ドラクエ』という大看板なだけに、あらゆるところで分厚い。
また基本パッケージ販売なだけに、課金で高レアを引けばどうこうでもない。

 

基本無課金ゲームと同じような感覚で
かの『ドラクエ』を、ちゃんとした大規模オンラインゲームを、
気軽に遊べるということ自体が新鮮で面白い。
これから「ソロで遊ぶひと」は
是非、同じように攻略情報を見ないで遊んでみて欲しいが
ひとつだけそれだけは書いておけよ、と恨まれそうな項目といえば
大陸間移動ができるようになったらまず「岳都ガタラ」で高速移動手段確保。

 


総論


ゲームにはいろいろな遊ばれ方がある。
そういう遊び方をすれば楽しいのだろうなと頭でわかっていても
そうでない遊び方をする、せざるをえない、
そのほうが向いている向きもある。
どれも許容できるゲームの作りが理想なのかといえば、そうではない。
幅広く作らなければならないことはない。
ただ楽しめなかった人にはもったいなく映るのだから
誰もが楽しめるようにすることを、
本来意図した楽しみ方を損なわず用意できるのであれば
そうするべきかもしれない。


しかし完成品を世に出すまでの時間は限られている。
後出しで対応できるオンラインアップデートこそが
基本無課金に限らずゲームの遊び方の幅を広げる可能性を拡げているが
捕らわれて狭めてもいる。

 

2018年の感想


前回反省を受けたわけでなくもともと楽しみにしていたのだけれど、
ドラゴンクエスト ビルダーズ2』を発売日に買って昨日クリアした。
面白かった。
思えば発売日を楽しみにしているゲーム自体が珍しい今日この頃である。




さて2018年を振り返ると、
とくに新ゲーム機が出たわけでもなく、
ゲーム好き以外にも注目されるような話題作も少なく、
これといった大事件もなかった気もする年でした。
「eスポーツ」という言葉が売り出しされている印象はあったけれど
軌道に乗るのはまだしばらく掛かりそうか。
ゲームが上手いことが収入になり得るのは産業の一般化で結構だが
他の「ゲーム」、囲碁将棋麻雀とかと比べても
操作の上手さが重要そうで劣化が早そうな気がする。
「スポーツ」として見るならチームプレイの面白味が必要そうだが
今度は観客に広く面白がり方を広めるのが大変そうだ。
せいぜい30年ほどのゲームの歴史で、これから末永く
ひとつの競技の公式ルールとなり得るゲームがあるのだろうか。
年数掛ければ出てくるものでもないかもしれないけれども。


あとはスマートフォンの性能がいよいよ押してきて
携帯ゲーム専用機の市場がなくなったのも今年の出来事か。
ゲーム情報サイトでもすっかり同列に扱われるようになった印象です。
その料金体系ばかりが話題になっているとはいえ
性能が追いついてくれば未熟なゲームも淘汰されていくわけで、
けれどすっかり基本無課金が染みついた市場で
どのようなゲームなら利益を上げられるか。
アーケードゲームとかでも、低額で長時間あそびたい用と
高額だけど報酬がたくさん貰える用に料金体系をわけたりしています。
クラウドファンディングにも見られるように、
様子見の内は極力出したくない、
熱心な信者としてアップグレードや続編のためになるならお布施したい、
という需要、および金はあるところにはあるという現実は想像以上にあり
当然ゲームという水物製造業社ものっからざるをえない。
良いゲームを作れば売れる、それは一面間違ってはいないけれど
売るための工夫、良いゲームであり続けるための積み重ねも必要で
ますます面倒なことよであることよ。




自分としては、ようやく予算の都合がまわってきて
新規ゲーム機を2つも購入してしまった。
36協定上限まで残業したからね当然だね(悲しみ)。
ひとつめは『ゼルダ』感想をいまさら書いたことでわかるように
Nintendo Switch」なのですが、
もうひとつはなんと「PlayStation VR」である。
やった。よくぞ決断した。


で遊んで思ったのは、まだ時代が早かった。
画面が荒い。
ディスプレイで見る分にはゲームは充分すぎる綺麗さになって
あとは写真のままのみためをどのように各ゲーム向けに加工していくかか、
とか思っていたが、VRは粗い。きたない。ゲーム機の性能が足りない。
VR専用でなく普通の映像、PS4向けゲームや動画も
ディスプレイより大画面で映せるのだけれど粗さが目立つ。
到底映画館のような体験ができるとはいかない。
まだまだ時間が必要そうで、なかなか新規対応ゲームがでないわけだ。
当然ゲームもいくつか買ってみたけれど、
VRならでわ、とは感じられなかった。期待が大きすぎたかしら。
やっぱり『Rez』より『パンツァードラグーン アイン』の方が好きだなあ。
ゲームの仕組みとして横や後方の視界外から攻撃されていることに
攻撃されて初めて気づく様では駄目だと思う。
それは現実ではそうなのだろうが、ゲームなのだから。



スイッチは『ゼルダ』の他に『スーパーマリオオデッセイ』も購入したが
1回遊んで放置している。
『ギャラクシー1』は曲がりなりにも最後まで遊んだのに。
曲がりなりにもとは、それ以外はまったく遊んでいないということで、
つまり全ステージを一通り、文字通り一回通過する分のみ遊んだだけで
同じステージを繰返し遊ぶとことを全くしていないということである。
昔の「スーパーマリオ」では考えられないことだが
これらは直近の『ビルダーズ2』にも共通してみられる
自身の遊び方の変容によるものだと思う。




ドラゴンクエストビルダーズ2 破壊神シドーとからっぽの島 - PS4


『ビルダーズ2』は前作が大層気に入り発売日を楽しみに待っていた作品で
遊んでいる最中も大いに楽しかった。
今回の特徴は『ドラクエ2』の
『1』に対する「スケールが違うぜ」という売り文句に同じく
基本部分はそのままに、舞台の広さや高さや作れるものの種類を
単純に拡大したもの。
もうひとつはNPCが一緒に戦うだけでなく建築も手伝ってくれるところで、
設計図通りに自動的に組み上げてくれるのをみているだけで楽しい。
単純に巨大建築物を建てるために
NPCが突っ立ってみているそばで延々労働する面倒さから解放されて嬉しい。
自分で設計図が引ければもっとよかったかも。
戦闘も大勢の仲間が敵をぼこぼこにしてくれて大変気持ち良く、
旗振って応援して気分はジャンヌダルク。ものどもちからをみせよー。
旗振りだけの戦争ゲームも遊んでみたいよね。
ファミコンの『ナポレオン戦記』みたいな。


しかしながら遠出にも附き添ってくれ、街中では普段の生活も営んでおり、
建築の時は自動で参加して主人公との当たり判定もあるというNPCの挙動は
いかにもバグりそうである。
でやっぱりいくつか進行不可バグが発生してしまったようで
素直に言われた通り動く派の私は引っかからなかったものの
オンラインアップグレードがなければやばい作品であったかもしれない。



「ビルダーズ」は『マインクラフト』を「ドラゴンクエスト」の設定で
より入り込み易くしたものと言える。
キャラクターやお話をゲームの上物として付けて、
事件を解決するために、言われるまま走り回る過程が
世界の仕組みをわかりやすく説明してくれる。
最後まで走り終えたら後は自由で
障害のない世界で身に着けた知識を用い
好きなようにものづくりを楽しんでください、というつくりである。


しかし小学生のころと違って
自由に作りたいものを作って良いとされても作りたいものなどない。
砂場にお城を作るより部屋で本を読んで寝ていたい。
困る。
『マインクラフト』って何やったらよいか分からなくて困る。
でも『ビルダーズ』で、クリアするまでの過程で
何かのために誰かのために言われるままに
あれやれこれしろをこなしていくのは楽しいのだ。
しなければならないことをしなければならないのは嫌だが
だからこそ終わらせるとすっきりする。そういう遊び方である。


『マリオ』の場合、コインを集めながら先へ先へと進むゲームで
工夫に飛んだステージの仕掛けを
ああでもないこうでもないとこなしていくのが面倒ながらも楽しいのだが
面倒さが上回ると駄目である。
ピーチ姫を助けるとか、クリアすると誰かが褒めてくれる、感謝してくれる、
事件が解決して平和な生活を取り戻すことが明示されれば、
こなしてあげたくなる気が面倒さを上回れば、達成してすっきりする。


ゼルダ』を遊んでいても思ったのは、
フィールドに配置されている敵を倒す気がまったく起きないところ。
彼らは放っておいても村人の安寧を脅かすわけではない。
倒され経験値を配って主人公強化に貢献する形で
事件解決につながっているわけでもない。
なぜ山奥で平穏に暮らしている彼らに
突然物陰から爆弾矢を撃ち込まなければならないのか。
村人に剣で斬りかかると同じくらいやりたくない仕組ではないか。
ゼルダ姫が頑張っているからで、そうしないと世界が滅びるのだ、
という設定ではある。だからクリアはするが、
道中の雑魚敵は倒しても倒さなくても良いですよね。
じゃあなんで倒さなければいけないのか。と面倒さを誘発してしまっている。


敵を剣で斬ることに躊躇いがあるのではない。
アサシンクリード』では
ざくざく数えきれないほど盗賊とされているひとを闇に葬り、
善人で故郷に恋人や親兄弟を残し
エジプトくんだりへ国家命令で仕方なく来ているのかもしれないローマ兵を
たくさんたくさんお亡くなりにした。
対戦ゲームでは特に理由なくとも剣で斬り弓を撃ち銃撃する。
しかしだからといって、ふつうの村人に斬りかかったりしないし
襲ってこない倒す必要がない相手に、襲い掛かったりしないのである。
なんでそんな必要がないことをしなければならないんだ。
たかがゲームでも、ゲームだからこそ、めんどくささを跳ねのけて
わざわざそれをするには理由が必要なのだ。
敵を討つ理由、ステージの先へコインを回収しながら進む理由、
何かを作るために材料を集めて配置してを繰り返す理由。


自由でなんでもできる、そういうのを売りにするゲームはたくさんある。
RPGという分野を称するゲームでそこを気にしない方が少ないだろう。
でもそれらの自由なゲームが、
例えばTRPGよりもお話の展開で自由だったことがあるだろうか。
現実よりもすることが可能なことで自由にどれだけできるだろうか。
空想に描く世界よりも枷なく自由であることがあるだろうか。


誰か与えてくれた自由の解釈、こういうかたちの世界もある、という知識が
想像の世界を拡張してくれることはある。
その時の拡がりの心地良さは代えがたい歓びであるかもしれないが
自由ではない。なんでもできるではない。
『マインクラフト』はこれをゲームでやったことが驚くべきだし
それを多くのひとが受け入れたことこそがより驚きだ。
面倒さを越える何かをしたいという欲求をゲームの中で達成し
飲み干し満足できる規模であることもあったのだという忘れていた驚きが。


いわゆる大作ゲームの方向として
小説や映画やアミューズメント施設といった現実世界の装置ではなく
現実にありながら操作することである程度介入できるゲーム装置の中でしか
味わえない楽しさを提供することが求められるが
舞台はどこまでも狭いし、見た目は明らかに粗いし、
できることは決められたことだけに限られるなかで、何を提供するか。
過去の類似作品としての自由でなんでもできる差を求め続けるのは
いかに限界の壁が見えている滑稽さがあっても必然である。
協力して時間内に敵を倒せという単純なゲームが持つ明確なゲームの強さ。
これをどのように、
いかにも何でもできるようで何かしかできないが
それを感じさせず楽しませる形に表現するか。



2018年はランスシリーズが完結した年だった。
途中凡作もあったが30年続いたお話がきちんと終わりを迎えて
大いに満足させてくれた。
小説でもない、紙芝居でもない、映画でもない、ゲームである。
部隊を率いて敵と戦い、慎重に進めれば主人公力で勝ち
遊べばゲームオーバー。
ゲーム内で様々な展開を収集しようと思えば大変苦労する。
リズムに合わせてボタンを押すだけのゲームも充分面白いし
だけれど同じ「ゲーム」でも気に入った曲が無ければつまらないし
仲間と呼吸を合わせて敵を画面外へ吹っ飛ばすのは
吹っ飛ばされた方ですら納得感があるが
わずかにコンピュータ操作ゆえの理不尽さを感じさせれば台無しになる。


文章でも、僅か数行が自らの思い入れを刺激して感に入ることもあれば
数か月かけて読み終えた大著が何も残さないこともある。
そこに作りの高低、質の深み、出来不出来は確かにあっても
それだけではない。
例えば2018年という1年に区切って、
そこに流れる時間の総量はだれにもいつでも同じでも
誰もが重い一日と軽い時間を繰り返して過ごしている。
大切に生きねばと背を伸ばして座り、疲れ果てて背を丸めて布団にもぐり、
今日は嫌だと、あるいは今日は楽しみだと伸びをして目が覚める。
どうであれば嫌なのか。何が満足なのか。
死ぬ間際に納得できればいいのか、
十分楽しんで苦痛にまみれて死ぬののどちらが幸せなのか。


ゲームの自由さは大変である。
なぜそんなに時間をかけてゲームの外になんの益ももたらさないことに
時間を掛けるのか。
めんどくさくないか。
そこは、遊んでくれるひとのすべてが
満足してくれなければならないものではないから。
現実と同じく。





さて話が明後日に飛んで行ってしまいましたが、
2018年も無事に終わりそうです。
もうこれ平穏無事。家内安全、交通安全、健康第一これに勝るものなし。
最先端ゲームについていくのは大変ですが、
ついていかなければならないのでなく
ついていきたいからしているのであって苦労ではない。
時として面倒ではあるし外れを掴むと苦しいけれど。
世の中明るいことばかりでなく
意図せずにも人に苦い思いを与えることも多いけれど。
それでも世界は前向きな意思でより良くなろうと回っている。
自分もせめて、これを妨げないようつとめていきたいものです。
また来年。



 



 

ゼルダの伝説  ブレス オブ ザ ワイルド


ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド - Switch


『Legend of Zelda: Breath of the Wild』、野生の息吹。
前作「すかいうぉーどそーど」同様に略し難い副題で
表記では「BotW」と略されている。びーおーてぃーだぶりゅ。略せてない。
Nintendo Switch本体と同時すわなち2017.3.3発売で
つまり1年9ヵ月前の作品である。
それ以上に問題なのは2017.12発売の『アサシンクリード オリジン』を
今年の1月くらいに遊んでしまったことだ。
完全に順番間違えたねこれ。





今作はシリーズ屈指の高評価である『時のオカリナ』(1998.11.21)に
並ぶ傑作であるとの評価を得ているようである。
ファミコンスーパーファミコンのころの「2Dゼルダ」から、
『時オカ』は同シリーズ後続のみならず
以降の近接戦闘型3Dアクションゲームを決定する変化を実現した作品で
ゲームの歴史なら初代『スーパーマリオブラザーズ』(1985.9.13)、
あるいは『ストリートファイター2』(1991.3)あたりと並んで
太字で明記されるような格。
それと同じくらい今回は凄い、ということらしい。そうか。



遊んでみて、確かに今回の「ゼルダ」は大きく変わった。
初代『ゼルダの伝説』(1986.2.21)から前作にいたるまで、
ゼルダ」とは、
ボス敵の居る部屋の扉を開ける鍵が入った宝箱のある部屋の扉を開けるスイッチを押す方法を探すゲームだった。
ところが今回の最後の敵の待つ部屋には扉も鍵もない。
導入の操作説明が終わったらまっすぐ飛び込んでざくっと剣で斬って終わり。
それどころか正面から乗り込まず窓からガサゴソ入りこんでもいいのだ。
いままで30年間、忠実に指定された通り
走り回っていたのはなんだったのか、という変化である。


なぜいままでの「ゼルダ」はこうでなかったのか。
大抵の他のゲームでも、
なぜいきなりお話の原因である敵と始まって即戦わせてくれないのか。
だってそういうものだから。
なぜならその方が面白いからである。


リンクの冒クロノトリガー』であれば、最初は勝てなかったのに
強くて勝てるようになることが心地良く感じられるからであり、
「つよくてニューゲーム」もそれを強調するもの。
アクションゲームもRPGも、道中苦労してやっとたどり着き、
最後にここまでの過程中でもっとも高い壁を越えてこそ完遂の解放がある。
最初から戦えたら面白くない。
いきなりヒバチと戦えるより段階を踏んだ方が大変でも気持ちが盛り上がる。
確かにそうだ。それがゲームで感じられる快感を高める手法だ。
では今回の「ゼルダ」は面白くないのかというと、もちろんそうではない。


いままでのように、目の前に見えている目的地に辿り着くために
舞台をめぐって頭をひねって腕をふるって謎を解いて回らなくとも、
塞ぐ扉をけり倒し、あるいは横から回りこんでも良いようにする。
これが今回の「ゼルダ」を貫く軸。


いきなり最後の戦いに挑めるが、その代わり当然に
世界中を回り中間ボス敵処置を済ませたあとより強く苦労する。
各個撃破したほうが楽なわけである。
お話も間をふっとばすのでもうひとつよく「覚えていない」し、
武器と弓と盾が使っていると壊れるので、替えを用意しておかないと
べしべし叩いている間に砕け散りどうにもならなくなる。
でも、そういうようにも遊べるわけだ。


普通に今まで通り勇者さまのためだけに用意された世界を回って、
景色に感動したりキャラクターに魅了されたりいろんな武器を集めたり
困っているひとを助けて感謝されて気持ち良くなって、
そして蓄積された分、自分は強くなり弱くなった最後の敵を順当に倒して
心地良くお話の扉を閉じる。それでも良いのだ。
ゼルダ姫も敵も困っているみんなも、いつまででも勇者を待ってくれる。


レベルの概念があるRPGでは、
フリーシナリオシステムや極限低レベルクリアとは言っても
それを最適化するには、
前提として膨大な遊んだ経験から得られる知識が必要になる。
今回の「ゼルダ」も良くできたゲームである以上、もちろんそこは同じ。
アクションゲームだから操作の上手さあればショートカットクリアできる、
わけではない。
そうであってはいけないのである。
そうできてしまえ、当たり前の方法でクリアすることの評価が下がっては、
からしくなってはいけないのだ。
例えば初代『スーパーマリオ』や『スーパーマリオ3』は
セーブできないのだから全ステージ通して遊ぶ方が当たり前でない。
普通は普通であるからこそ、すごいのすごいがよりすごく偉くなる。




だが、今回の「ゼルダ」が高い評価を得ているのは
従来と違っていきなり最後の敵と戦えるようになっているからではない。
そうできてしまえることが、単に「最後のボス敵だけの仕掛け」だけでなく
多くの場面でそうできる仕組みになっているところにある。


従来はアクションゲームでありながら「マリオ」とはっきり区別させる、
わずかな段差も越えられない、民家の塀にも遮られていた機動が
今回は雪山北壁だろうが滝だろうがラストダンジョンだろうが登って乗り越え、
世界最高峰から飛び降りても携帯型コッコのパラシュートセーリングで無傷。
高いところに登れパラセールで滑空することで、越えられない段差はない。
ゲームの常として世界の端は越えられないにせよ。


だから鍵のかかった扉しか出入り口がないところ以外、
導入以降どこでも容易に移動可能。そしてハイラルに鍵は存在しない。
障害としての立ちふさがる敵も基本的に存在せず、
ショートカットするなら倒すのは最後の敵のみ、
普通に進めても「倒さなければ話が進まない敵」は途中5体しかいない。
最後のボスだけがいきなり戦えるのではない。
最初からどこへでもいけるのだ。
話も順番にすすめなくとも各地で別々にきちんと展開する。
そこが偉い。
当たり前のようだが、いわゆる「オープンワールド」といわれるゲームでも
屈指のどこへでも行ける舞台設定設計と言える。


またシリーズお約束の特殊アイテムも面白い。
そのひとつ「ビタロック」は、地面と接続されていないものの時間を止め、
止めている間に与えられた向きを持つ力が蓄積され
効果が切れた途端に蓄えられた力が作用するという独特のもの。
蓄積できることで通常の打撃で得られない量の力を与えられるから
人間大でない巨大なものを動かすことができ
地上と接続されていない物体であるから作用時に向きへ激しく変位するので
それに乗って移動できたりする。時間を止めている間に乗れば良いわけだ。
桃白白もびっくりである。


なんでもできるわけではない。燃やせられるものしか燃やせられないし
爆破できるものしか壊せないし、斬れるものしか斬れない。
こればかりは物理シミュレータでなく
勇者の冒険シミュレータであるから仕方ないが、
それでも従来の、勇者のために世界中に用意されたダンジョンのなかで
定められた通りごそごそやっているよりも遥かに広い。
他の似たようなゲームと比較してもその表現手段は見るべきところが多い。
望遠鏡で覗いた景色にピン止めすると地図上に反映される仕組みなどは
見事なアイデアだ。本作が初出かどうか知らないけれど。


ゲームの質というべき部分もシリーズの名高さに違わず流石の任天堂
武器で敵を叩く感触は気持ち良く、攻撃を上手く避けると心地良く、
簡単すぎず難しすぎず、複雑な操作は知る必要なくクリアでき、
気づいて活用できれば快適に活劇できる場面が脇道だけでなく用意されている。
地道に舞台の仕掛けを集めて回ることに、しっかり楽になる報酬がある。
ゼルダ姫は前作同様ヒロインとして微笑ましく
サブキャラクターたちもわずかな登場場面で印象深い演出の確かさ。
お話は単純で揺ぎ無く必要十分を心得ており心憎い。
世界観の表現という見た目に至っては
これぞ「ゼルダ」完成形を思わせる秀逸さと言って良い。


何より感心するのは今回のいろいろなことができることを、
いろいろできない、従来の「ゼルダ」法則に支配された小規模ダンジョン、
これを進行段階に応じて多数用意することで、
丁寧に何度も教えてくれるところだ。
普通に走って登って飛び降りるだけじゃない。
それでも最初から最後まで問題なく通せるのだけれども、
こうすればこういうことができる世界であることを思いつかないひとにも
最小の段差を越える努力を通過させることで、
自分が思いつくきっかけを与えている工夫。
いろいろできる。しなくても最後まで行ける。すれば大胆に省略できる。
そういうことができるのだということを、無理なく気づかせようとする。
自由度の高さ、世界の広さを用意して、しただけで
ゲームを作った気になっているほとんど全てのゲームに出来ないことだ。






ゼルダをいまさら遊んでいるのは
1年前の時点で予算の都合がつかなかったからである。
この1年遊ばなかったのは
アサシンクリード オリジン』がかなり良くできていて、
同じようなゲームであろう今回の「ゼルダ」を
遊ぶ気起こさせなかったからである。


今回の「ゼルダ」も完全無欠ではなく、もちろん欠ける点はある。
ロードが長い。音量調整がない。画面の明るさ調整がない。
街で住人と話して回るのがめんどい。
景色は起伏に富んでみばえがするが狭い。
馬で気持ち良くはしりまわれる部分が少ない。
この戦闘の仕組みでは1体1でリンクが強すぎる。
戦闘時のカメラ自動追尾がまだまだ。
盾や弓の耐久力はこれで良かったか。木の矢を希少にし過ぎたか。
料理はもっといろいろ試したくなる意欲を起こさせる工夫があって良かった。


今遊んだから、『アサシンクリード オリジン』を1年前に遊んだから
こういう感想になるわけで、
発売直後に遊んでいたら、ちまたみかける評価のように
『時オカ』に並ぶ傑作と扱っていたかもしれないが、わからない。
どちらが面白かったかと自分に聞いてみると
やはり9ヵ月前に発売した方と峻別がまことにむずかしい。
先につくったほうが偉い。それはそうだ。
ゲームは素材の味と調理方法とみためだけが評価箇所ではない。
あらゆる細部の集合であるつくりのすべてに対し
コントローラと画面と音声ではたらきかけたかえりの感触と印象が大切だ。
初めての印象は遊んでいる現在の感じを除くすべてに勝る。


ゲームに限らないが遊ぶ順番や時期は大事である。
どちらのゲームにも失礼した。失敗した。反省。







ランス10


忙しかったり暑かったりで2月末の発売から半年経ってしまい、
いまさら感を通り越してそんなのもあったなそういえばの境地。
今立ち上げてみたら200時間以上遊んでいたゲームの感想を
書かないわけにはいかない。ではなかった、わけがない。


というように感想書いて、一晩寝かせておこうと思ってはや一月。
ああ、もう、まあ、うん。
完全に書き方忘れたなあ。ゲームの遊び方すら忘れた。
いままでどんなゲームを遊んだか思い出そうとしなければ思い出せない。
端から忘れていくのでなんでもすごく新鮮だ。遊ぶ気力さえあれば。




で。
この『ランス』シリーズは30年くらい前に最初の作品が出たのち
同一設定、同一主人公で延々話が続いていることで有名な
PC18禁の雄と呼ばれて久しいアリスソフトの看板作品群。
ゲームの分野で対抗できるのは『イース』シリーズくらいか。
でもあれは『ゼルダ』みたいなものか。
確かに同じ主人公で全体としてひとつのお話と言えて、
ながなが続いてきちんと完結したのは珍しいかもしれない。
この10作目はシリーズ最終回。
長年培ってきた全ての素材にケリをつけ綺麗に終わった。ただただ偉い。


シリーズ中では2006年の7作目『戦国ランス』が傑作として名高く、
信長の野望』のような「国取りSLG」の自国を大きくしていく楽しさと、
登場人物たちにRPGのようなお話の起承転結を並立させた空前の作品。
こんなゲーム形式がありなのか、
PC18禁でありながらここまで面白いゲームあるのかとその存在を知らしめた。
シリーズ他作品も多くが個性的。
出来ばえ凹凸はあり、30年の時間経過で色あせた面はあるけれど、
どれもRPGSLGといった分野においてこういった表現もありかと唸らされ
一般向け分野に伍する程度の最後まで遊ばせる力を兼ねて備えている。
18歳以上であれば『ドラクエ』『FF』『テイルズ』『ペルソナ』だけ遊んで
いわゆる「アクション性のないRPG」をわかった気になってはいけない。
ランス6』『ランス7』も遊んだこと無くそれを語るなどおこがましい級。


前作『9』が同メーカ製旧作品の焼き直しでありながら
中途半端な仕上がりで元より劣る凡作であっただけに
シリーズ最終作と制作前より公言されていた『10』が
どういう出来となるか危ぶまれていたが、見事その懸念を払拭。
掉尾を飾るに相応しい、『戦国ランス』に並ぶシリーズ中の傑作である。
ただいきなり本作から遊ぶのは、『戦国ランス』と違って合わない。
30年に渡るお話すべての設定に解答を与える立ち位置だけに止むを得ない。
アリスソフトゲーム初心者は
是非とも『ランス6』『戦国ランス』のいずれかを先に試してほしい。
なお『ランス8』も分割商法である一点を除けば良作である。




『ランス10』の構造は、分類するならSRPGだが
ファイアーエムブレム』のようなとは異なり
『ブレス オブ ファイア5 ドラゴンクォーター』のような、というのが近い。
経験値稼ぎをする寄り道が基本的になく、話が進むほど敵は強くなり、
どこまで高くなるか判らない壁を最後の最後まで越えるまで、
徹頭徹尾の戦力資源育成活用が求めらる種類のゲーム。
『ドラクォ』と違っていくらでもいつでもセーブでき、
戦闘一回ごと何度でも即やり直せるのだが、
容易にやり直せ、それでいて何度も付け加えれれないだけに
全戦闘で最善結果を積み上げていかないと不安にさせてくれる
延々続く綱渡りのひりひり感が楽しい。
『ドラクォ』を遊んだことのないひとに説明するなら、
すごくターン制限が厳しい『信長の野望』という感じ。
無理だろ無理だろと思わせるがしかしこういうゲームになっている以上は、
極端に変なことはしていないから最後まで行けるように出来ているはずだ、
あるいは
ゼルダ』での先に進むためのパズルが解けないように出来ているはずがない
自分のソフトだけが進行不可のバグで詰まっているはずがないのではずかしい、
という製作者との疑心暗鬼な進行に、こころをぐりぐりさせるゲーム。


舞台設定もそういうゲームの仕組みに合わせ、
極力無駄のない行動を求められるものが用意されている。
前作までにおおむね大陸各国を回って信望を勝ち得てきた主人公たちに対し、
冒頭、大陸全土に魔軍が攻め込んでくる。
オーストラリアほどの大きさに全人口2億ほどが住んでいるが
何もしないと数か月で全滅する。頑張ってもどんどん減っていく。
主人公たちはすべての人びとを助けることはできず、
あるいは人類の半数を失いながらも乾坤一擲、敵首魁を討ち取れるか否か。
過去作品に出てきた仲間たちと協力し
各国軍が頑張って死闘しているのを後ろに敵陣最奥に潜入して勝機を掴む。
これまでになくまじめで遊んでいる暇のないお話だが、
主人公ランスは主人公に相応しく、これまでと同じように活躍してくれる。
本作を遊んでランスの働きを評価しないひとはいないだろう。
本当に良くやった。偉大だ。英雄だ。主人公だ。




本作が『戦国ランス』に並び、あるいは越える傑作であるというのは、
そういう完結作に相応しい、
過程と結果のめりはりからなるまとまりの良さだけにあるのではなく
やはり本作でも空前に類を見ない独創の戦力活用ゲーム構造が用意され
作品に合っていて、見事に機能しているからである。
なぜ世に数多ビデオゲームありながら
戦国ランス』や『ランス10』を生み出したのが
予算規模の限られたPC18禁向けゲームメーカーなのか。
そこに深い解答などない。ゲームを作る能力の高低があるだけである。


お話はそれぞれを数週間ごとの出来事として15程度のターンに分けられ、
各ターンごと大きくどの方面で作戦を行うか選択する。
各作戦ごとにどこへ行って、どのボス敵をどう倒すためにこうしてああして、
という選択肢で選べるいくつかの流れが用意されていて、
その過程で雑魚敵との戦闘、新たな仲間の加入やアイテムの獲得、
ときに全体動向を左右する敵味方彼我の戦力上下イベントや
お話の流れを結末まで決定付ける分岐点がある。
話のどの場面で何度、おおよそどの雑魚敵と戦闘するかも、
どこへ行き誰と会話をすることで何が起こるか決まっているのと同じく固定。
またその流れの全体もいつでも確認できる。
つまりあと何回くらい雑魚と戦い、どれくらいイベント過ぎると
ボスと戦わなければならないかが最初から見えている。


ひとつの雑魚敵との戦闘ごと、3ターン以内や残体力10%以下勝利で
獲得経験値ボーナスがついたりし、
戦闘後得られる仲間も2〜3人のうちから1人だけを選ばなければならない。
どの戦闘で誰を入手できるかはターンごとの作戦開始時に決まるので
リセットしても意味があまりないが、
どの仲間を得たかによっては変わるので安易ではない。
仲間1人はレベルによって増加すると体力と攻撃力、そして2つのスキルを持つ。
仲間は出身や種族や立場ごと10チームに分けられ、
戦闘には最大7チームまで、各チーム代表者1人を出撃させることができる。
体力と攻撃力は代表者の能力値*5+チームごと残り全員の合計。
つまり誰か1人を育てるだけでは限界があり、
といって全員をまんべんなく育てなければならないわけでもない。
スキルはそれぞれ最初から最後まで変化することなく、
戦闘で使用する通常攻撃と必殺技、ステータスを上げる補助魔法、という構成もや
戦闘にでているだけで効果を発揮する、
戦闘にでなくてもそのチームを戦闘に出すだけで効果を発揮するものなどがある。


要は、限られた経験値を、
ある程度運良く入手候補に挙がったメンバーから選んで得た誰かたちの中から
どのボス戦闘前までに誰にどれだけ配分するかを常に選んで、
また雑魚戦闘では短ターンクリアできるよう戦力を維持しつつ、
ボス戦闘ではどの敵行動ターンで誰に何をさせるかを想定して
どのチームの誰を出撃させるか選ぶのである。


ざっくりいうと「『エムブレム』みたいな」SRPGである。
誰をいつまでにどの程度育成させるかは結局、
どの時点で倒さなければならない敵がどれくらいの強さで、
どういうメンバーを集めて育てておけば有利になるかは、
戦うまでわからないのは普通のRPGも変わらない。
したがってこの『ランス10』も
一周目はごく普通に繊細に、有能そうでまだ入手していない面子を選び、
場面毎の経験値帯でレベル伸びが悪くなったら次育成候補に変えて、
ボスはまず行動パターンを観察したのちロードして
手持ちのスキルとレベルを眺めて最善そうな構成で挑む、という方法でよい。
主人公ランスがここではこうするだろうという「ランスらしい」行動を選び、
長期を見据えたラストエリクサー症候群の慎重さを怠らなければ
最善のエンディングを見ることが出来る難度になっている。


これだけでも良くできた佳作の出来栄えだが、問題は2週目以降。


2週目以降は持ち越し特典として得た仲間も上げたレベルも附いてこないが、
獲得経験値アップなどを付けることができる。
敵の強さは1週目と同じ。戦い方は分かっている。有利である。
そこで1周目は歯が立たなかったので
ゲーム内時間を掛けて戦力を蓄え撃破したものを
なんとかゲーム内短時間でクリアできるよう狙うわけである。
そうすると敵戦力が早期に減少して人類が有利になり、
1周目では起こり得なかった展開も起こるのだ。


これが面白く罠である。先がどうなるか解っているからこそ楽しく苦しい。
敵の強さも行動も有利な戦術もわかっているのである。
すべての戦闘はなんどでもなんどでもやり直しでき、
またクリティカルが出たり回避したりと運要素で結果はそれなりに変わる。
でも入手できる戦力資源は同じ程度。しかもまったく同じでなく、
場合によってはすごく使える仲間が手に入ることもあれば、
これは必須と言う仲間がちっともひけなかったりする。
そして先に述べたように、一戦闘ごとに得られる仲間は決まっているが、
どの仲間を得たかで次に得られる仲間は変わる。
あの敵を倒すには、あおこまでにこれくらいにはしないといけない。
敵の強さが解っているから、戦力をどういじって整えるかが面白いのである。
その時々ごと違って限られた手持ち戦力でどうやりくりするかを
何度も繰り返し遊ぶことができるのだ。同じ敵に対しても。




『ランス10』が優れているのは、
こういう仕組みのゲームを思いついて並べるだけではなく
エンディングまでの時間、得られやすい仲間の能力値の配分、
敵の能力、イベントの配置から
製作者がそういう仕組みのゲームであることを解って置いていることが
こちらにも伝わる点だ。


敵の能力がわかっていて、この戦力ならこうしてこうしてああすれば
ぎりぎりながら最短で倒せて美しい。
でも普通は、敵の残り体力や、この攻撃でどれくらいそれを削れるか、
何ターン後に敵がどれくらいこちら体力を削るかなんて知らないのである。
まともなゲームは、
その味方戦力でその敵と戦うのは一度きりであること解って作る。
『ランス10』はすべての戦闘開始時にオートセーブが作成される。
2週目も同じように進めていけば同じ強さの敵が出てくる。
違うように進めて難度が変わっても、行動パターンはまったく同じ。
その味方戦力でその敵と戦うのは一度きりであり、
次はどう戦うとより良く戦えるかわかっているけれど、
こちらの戦力が一様でないよう、解っていて作っているのだ。


あらゆるゲームは公正に決まったルールの下に誰かと競う競技であるが、
前提は平等でなくそこに一定の運の要素が介在する。
陸上競技でもレーンや同走者で最高成績が異なり
囲碁将棋でも先手獲得側は常に相手より一手多く指すことができ
カードゲームでは、すでに出たカードを除き、
次にどのカードが出るかはすべてのカードに平等である。
乱数発生装置として運の要素は幅広い展開をもたらして
同じルールで同じ競技者が競う場合は欠かせないものであるように思えるが
平等でないことはなぜ許されるのだろうかと感じる競技もある。
ビデオゲームでは公正無欠な計算機をルールとすることで
自身との競い合いにおいては運の要素を完全に配したゲームが可能である。
例えばアクションゲームではそれまで成し得ない精度で
完全完璧に同様環境が用意され一切の自身への妥協が廃される。
そこにビデオゲームでしか成し得ない美しさが確かに発生するが、
しかしビデオゲームの可能性はそれだけではない。


ある確率環境で、当たりを引く確率は完璧に平等だが、
籤を引くこちらは常に同一ではあり得ず、
つまり何度引くことができ何度当たったことがあり
何回前に辺りを引いたことがあるかは異なり、
またそこから受ける印象もその個人その時々で同じではあり得ないので、
同確率でも同確率と感じられることができないのだ。
これは完全に同一環境下を何度でもいつでも完璧に再現できるからこそ
そこでその時々の自分がそのようにするかを公正に比較することができて、
競技として、つまりゲームとして成り立つのである。