2006年の『ファイナルファンタジーⅢ』

kodamatsukimi2006-09-18


 
公式 http://www.square-enix.co.jp/ff3/ ASIN:B000CSFA0A


・FC版『ファイナルファンタジー(以下FF)3』が発売されたのは'90年4月。
 なんと16年前。16年。高校一年生。
 えー、'90年代生まれでもう高校生ですかごにょごにょ。

・当然すっかりその中身は忘れていて
 DS版は色々なジョブが使いやすくなっていて良い、なんといっても竜騎士が使える。
 素晴らしい。ジャンプ最高。このアクションが。とても良し。
 よし忍者無視で最期までいくぞと調子に乗っていたら
 今回も長いラストダンジョンの、最深部に待つラストボスで全滅。
 セーブポイントからやりなおし。削った睡眠時間が無駄。
 心がおれた音を聞いた。

攻略サイトは基本的に1周するまで見ないのがゲーマーたるものの矜持である、
 とかなんとか思ったりする心もしおれ、google「FF3 攻略」とする気も起きない。
 ゲームは楽しむために遊ぶ娯楽なのになんでこんなもやもやと、
 しばらく中途半端にほったらかしていたのだけれど、
 座り悪いので当時思い出し、回復約2人竜騎士使わず忍者使って
 やたらと強くしてから撃破。クリア。勝った。勝ちました。
 すっきりした。素直に嬉しい。
 



・ところで、そうして勝ったというとき相手は誰か。自分の意地か、作ったひとか。
 そしてまた、楽しむことにおいて勝ち負けは別ではないか。
 ただ強くするのに手間掛けるところにも楽しさはあって
 敵を倒しても勝っているとは思わない。つまり、それがRPGなのだろう。



RPGは、元となった非電源ゲームのRPGを遊んだことがないひとにとっては
 用意された舞台を道筋に沿って、ある程度の許容された幅で右往左往と工夫し
 幾つかあることもある正解を探りあてて、解いていくゲーム。
 手間を惜しまず、舞台としてある世界をうろうろ眺めることへ満足することにも
 価値を見出せるならば、それを許容して有利に働くように仕組みは作られている。

・十数年前に遊んだFC版『FF3』と比べて今回のDS版は、
 強くなる手段と、敵の倒し方という解答の基本的な枠組みはそのままにして
 どうあれば、よりコンピュータ上で動くロールプレイングのゲームが良く動くか、
 という方向で適切に拡張されている。


・もうPS以降、それでも10年前であるけれど、それ以前のゲームの歴史がどうであったか
 『ウィザードリィ』と『ウルティマ』から『ドラクエ』ができて
 PCで作られていた国産RPGや『ドラクエ』以外とその対抗馬とそれ自身が
 当時、どのように絡み合って10年前の『FF7』を生み出したかを適当に思い出すのは
 今や困難至極。全てことごとくは忘却の彼方。

・なのでDS版『FF3』に、昔懐かしさを感じたとしても
 それはこの10年、『ドラクエ』が『7』『8』の間に『FF』は『7』から『12』まで、
 そしてそれ以前の10年より恐らく多数であろうRPGが作られた過程を無視しては
 それを見ることはできない。DS版『FF3』は'06年に作られたRPGに違いない。



RPGの構成を上から眺めれば、それはどこまでも遊び手によって解かれるべくして
 用意された問題である。地形も敵の配置も物語の進行もその世界全て。
 その世界を滅ぼしたり我が物にしたりしたがっている敵の親玉とかその裏の影とかも
 やはり、『FF3』が作られ発売されている現実世界まで含めて全て、用意されている。
 遊び手のために。それがゲームだから。
 人生ゲームより楽しくあるために。それがテレビゲームの価値だから。


・単純に昔と比べて違うのは、遊び方の累積があるところ。
 こういうゲームがあれば、ではそれと違くしてこういうようにも作れる、の積み重ね。
 同じゲームはなぜか作られないから、話を変えるだけでなく
 そのゲームルールの成立要件まで千差万別に様々に取られている。
 もちろん歩く速度が早いとか見た目がきれいとかの違いだけも
 RPGが用意しなければならない回答への手段を変えることはできるので
 それは多く重複している。

・日本でその最大公約数かつ中心がもちろん『ドラクエ』であって
 今や『FF』なのかもしれないけれども
 DS版『FF3』が違う、例えば同じ年に発売された『FF12』と違うところは
 もちろんその取り得る手段の幅の狭さゆえ、全体サイズは小さいところ。

・ゲームの商品としての有り方の違い。
 電球は、消費者に不快感を抱かせない長さを越える程度で切れなければ
 商品にならないように
 ひとつのゲームはその購入価格だけでなく、事前及び事後も、周囲一体となって
 話題を共有できる規模がある程度なければ良い商品ではない。
 情報共有速度は10年前とは決定的に違うから、消費速度も目に見えて違う。

・だから今や誰にもゲームは、楽しめるための条件として消費できなければならない。
 クリア可能でなければいけない。解答にたどり着くための手段は
 できるだけ広く緩く開けていなければならない。
 ゲームルールが交通整理を図られる中で、RPGに取ることができる手段は
 常に狭くなってきたと見える。
 アクション要素があってはいけない。答えがわかっていても楽しめなければならない。
 世界は広がっている。よって手段は多様化している。
 よって、許される答えもまた多数用意されていなくてはならない。
 そういう方向にしか進めていない。




・DS版『FF3』は、2006年に発売されたRPGとして良く出来ている。
 16年前の仕組みを今楽しめるように良く作りかえられている。面白い。
 しかし、まったく同じゲームが違う名前でより美しい見た目でPS2で発売された時
 その良さは話題として広く共有できるだろうか。
 昔のRPGにあった様々な手段が見出されていなかったからこその
 今のありようにはない、狭い手段と少ない解答しか許されない狭い世界。

・マニアはその良さを見つけたと喜ぶけれど
 その良さというのは「古き良き狭さ」であるだろうか。
 ただ現主流と違うことのみにあるのではないか。


・『FF』の敵は、『ドラクエ』や他のRPG、コンピューター上でのRPG全てではなく
 昔も今もこれからも、その時遊ぶ、商品として消費する客である。
 そうして採るゲームの仕組みはだから、
 これまで同じでなく常に変わり続けてきたのだし
 よって話だけ変えて同じ仕組みのゲームは売れず
 そしてだから、RPGはこれからも常に新しい仕組みを作っていかなければならない。

・採りえる手段は今、より広い方に狭く収束しているようでも
 昔のゲームは反主流というのに関係なく楽しめることがここに証明されていること。
 常に新しくを面白がることが出来る。
 新しくなくとも同じものも見た目を変えるだけでも楽しむことが出来る。
 面白い。
 どちらもいつもこれからも、面白がることは、が、出来るのだ。
 今、ゲームはそういう仕組みでも面白い。