『ウィッシュルーム』

kodamatsukimi2007-02-06


 公式 http://www.nintendo.co.jp/ds/awij/index.html ASIN:B000FJ51GO


・ゲームというものは、小説でも映画でもなくてゲームでなければならない。
 いかにもゲームであるゲームはそんなことに悩む必要はなく
 降り注ぐ敵弾をさけていれば楽しい。それだけでそれがゲームであるけれど
 けれどそういうゲームのようなゲームはそれほど最近あまりない。

・なんだか、それだけだとお金を取って時間を費やしてもらうのに悪い気がするのだ。
 なのではないかと推論して決め付ける。
 ファミコンのゲームにあった程度の「ゲーム性」量は
 今のゲーム内においてはミニゲームとしてすら存在を許されない。邪魔。
 携帯アプリでもだめ。ネットで無料、フリーゲームとしてすらいくらでもあって
 価値持つことを許されないとみなされる。




・先月末の注目作品大量中、『ギアーズオブウォー』は買ってきたのに積んだままで
 『三国志大戦DS』『世界樹の迷宮』とDSばかりのこのごろなのでありますけれど
 アクションもRPGもゲームというものの大概は、この狭いダブルスクリーンに
 納まってしまうのではないかと思ったりするわけであります今日。
 随分ゲームは小さくなったものであることよ。
 昔テレビにかじりつくようにして遊んでいたファミコン画面が今手元に転がって。
 ううむ隔世の感。長生きはするものよ。よきかなよきかななどなどとかとか。


・ところでいやいやまたれい、しかし。ゲームは小さくなったわけではない。
 むしろ変わっていない。
 ゲームは昔からそのままだ。

ファミコンカセットに比べてのセガPCエンジンのカードロムとか
 GBからGBAからDSへのソフト極小縮小具合に反するXBOX本体のわが道行きぶりとか、
 とかではなく
 『大戦DS』も『世界樹』もファミコンの「ゲーム性」量と比べて
 質ではなく量、絵とか音楽とかデータ量でなくゲームとして遊べる範囲の量が
 どれほど大きくなったと言えるだろうか。より長時間楽しめると言えるかどうか、
 長時間でなく後年観測して自身に影響与える楽しさの絶対量がどれほど増えたか。
 同じであるといえる。



・『アナザーコード』に続いて昔からアドベンチャーゲームばかりの
 シング(http://www.cing.co.jp/)によるところであるところの本作『ウイッシュルーム』は
 昔変わらぬアドベンチャーゲーム
 ノベルではなくアドベンチャーゲーム。と誇りを持っていっていると思われます。


・『逆転裁判』は、その仕組みで斬新だったのではなく
 用意された一本道を選び出すための正解コマンド選択をする分には変わりないのだけれど
 それを遊び手が自覚的に、自分の操作で正解を作り出しているような感覚を
 事件の解決されるまでの全体像が犯人にすらわかっていないことで与える見せ方こそが
 革新的なところ。
 相手の間違いを指摘することで事件を展開させていく方法自体は昔からのそれそのまま。
 それでもそう見えないところが素晴らしい。

・以降の良識ある、結果良作となり得るアドベンチャーゲームはこれをもちろん下敷きにして
 その見せ方を工夫しております。していることは昔から同じ。
 ただその見せ方表現のしかたに今までと
 違う方法もあったことが認識されたことによる変化がそこにはある。

・同じ謎解きでもこなれている。解いた気になれる。より話の全体像が見えた気になれる。
 ノベルゲームではなくアドベンチャーゲームなのに、お話全体を通して感心できる。
 はっきりそれまでとは『逆転裁判』によって見せ方が変わったことで見やすくなっている。
 余計なものが削ぎ落とされた感。
 『仮面幻影殺人事件』のアドベンチャーゲームとは思えぬひっかかりのなさ、
 ゲームらしくなくノベルのような感じは、そこにこそよるものであるという推論。 


・製作任天堂であるところのこのゲームにももちろん、その意識を見ることができます。
 前作『アナザーコード』はシング自身久しぶりの仕事であったこともあったかと
 DSが出たて過ぎたこともあって
 全体としてとても褒められる出来ではなかったけれども今回は違う。
 できることをできる範囲の境が見えていて、表現したいものをしたいように出せている。
 昔からのアドベンチャーゲーム、その面白さを今に再現したものとして屈指の出来。
 最上の一品。
 昔のPCアドベンチャーは、今の子供向けとは違うのだよと言わせぬでき。
 作りたいものを作りたいように作れた感が味わえて余りなく無駄がない。
 およそ欠点はない出来上がりでありましょうと思われます。


・しかしそれは昔のままのそのままのアドベンチャーゲームである。
 作中の操られている対象はわかっているのに
 その操り手がなぜ間違っているのかわからないゲーム。

・主人公だけがその時だけ、解くことを許されるために用意されている、
 謎と仕掛けという仕組みは様式美の名の下に許されると言えなくもないでしょう。
 RPGで問題の解決に取り組むことを許されるのは遊び手だけである。
 STGで最強性能を持つのは自機である。なぜか敵を多く倒すと爆散しても復活できる。
 それはゲームとしてあるために、面白がろうとするため十分必要だというならば許す。


アドベンチャーゲームとはなんだろう。
 小説の主人公がとる行動を遊び手が決められるものだ。
 しかしなんでもできては話が終わらないから正解を選ばなければ話が進まない。
 そこで、正解を選ぶことをゲームとしているのがアドベンチャーゲーム。のはず。
 「道が二手に分かれている。右と左どちらを選ぶか」
 に答えることではない。はず。


・『ひぐらしのなく頃に』はPS2版で選択肢が付くそうである。
 『EVER17』のようになるのでありましょうか。 
 どちらもノベルゲームであって、あるいはゲームですらないぎりぎりだけれど
 けれどゲームである。全体通して眺めるとなるほどゲームではないが
 正解を推論できるクイズとして選択肢が用意されているところがひとつでもあれば
 すくなくともそこはゲームであると言える。

・そしてその論法でいうならクイズゲームももちろんゲーム。
 正解を当てるクイズ。問題から正解は推論できず、
 問いが指し示す答えを知っているかどうかだけが問われるものでもゲームである。
 アドベンチャーゲームにおけるゲームとして用意されているものはそれなのだ。
 と推論する。のは理解できないからである。


・なぜ。
 なぜ話の進行の妨げになる今やミニゲームとしてすら認められないものを
 ゲームの仕組みに正解としてゲームに組み込むことが
 アドベンチャーゲームには必要だったのか。
 だったのか、と過去形なのは今全てがそうではないからで
 『逆転裁判』から見てみればそうではない部分も見えるからですけれども
 昔からの昔のアドベンチャーゲームとはそうなのである。
 それはアドベンチャーゲームとしてゲームを名乗るに良いのか。
 小説ともゲームブックとも違うものである必要性や可能性がなかったのか。


・そこが理解できない。なぜなら知らないからだろうけれど。
 『ウィッシュルーム』を遊んでも、そこは知りたいとは思えない作りだから。
 だからこそ知りたくなって、ここにこのように書くわけである。



・そこで推論しよう。
 ゲームの「ゲーム性」量が、
 少なくともひとりで楽しむゲームにおいての主観では一定である、
 と根拠なく証拠検討なく勝手に仮定するならば
 ゲームブックが小説に劣らぬだけゲーム性を加重しているとして
 アドベンチャーゲームゲームブックに対し
 無駄でもゲーム性を積み増さなければならなかったのではないか、と。
 
・しかし今やようやく気が付いたのである。
 ゲームはゲームである必要はなく
 答えは正しい推論によって正しく求められることも必要ではなく
 ただその細部と全体をその個人が面白がれるかどうかが
 ゲームが含まれるエンターテイメント、遊び、暇つぶしの第一用件なのだと。
 面白ければゲームでなくとも良いのであり
 そしてゲームであっても良く、それが無駄と思えるような「ゲーム性」でも良い。
 それがゲームなのである。というように。