『逆転裁判4』

kodamatsukimi2007-04-23


 http://www.capcom.co.jp/gyakutensaiban/ ASIN:B000NMRWX8


・シリーズを分類するならば「定番の名作」。
 アドベンチャーゲームジャンルでお勧めするならまずこれだ、
 というそれであります。

・その4作目。安定した質の高さは今回も変わらず。
 難しさの程度も整理されてきています。
 破天荒なキャラクターや設定に頼らずとも話を構築する技術は
 ますます磨かれている感触。申し分なく、早く次が読みたい。



・このシリーズについては、3年くらい前にGBAの『3』について書きましたが
 (http://d.hatena.ne.jp/kodamatsukimi/20040605
 たぶんあまり付け加えることもないかと。
 たぶん、というのは3年も前に書いたものなど読み返したくないからですが、
 今回は、しばらく振りに同じようなことを書くと
 どの程度言っていることが変わるかを
 以下比較対象として記録することといたします。
 今読み返しはしないです。今書いている文章を再度読み直す気になるほど
 未来になったらするかもしれないかもしれない。




・『逆転裁判』の面白さは、まったく先が読めないところにあります。
 捜査して証拠を揃え、裁判が始まって証人を尋問していても
 その事件が、どのような形であるかまったく見えない。
 有利不利が次々逆転して、いつの間にか思っても見ないところに
 つれて来られていたという驚きが、このゲームの核となる楽しさです。


アドベンチャーゲームというのは、
 小説に選択肢をつけて、この場面でこうしたらどうなるか、を楽しむものではない。
 この話を進めるためには、どうすれば正しいのか、を選択するものであります。
 一本道。用意された答え。それを正しく辿らなければ読み終えられない話。
 国語のテスト問題で「主人公はなぜこうしたのか答えなさい」に答えるのと同じ。

・ほんとにそれ正しいのか、引用もとの原文書いた著者に確認したんか、
 と文句付けたくなりますが、その必要なし。
 なぜなら、そうすると正解がわからないから。
 問題作成者が答えて欲しそうなことを、問題文の作りから読み取るのが
 国語のテストというものなのだ。
 そして、作成者は必ずその決まりに則って作っているからこそ
 原文著者の意図や、千差万別な読み手の読み取りに関わらず
 正しいといえる答えが導けるのである。

アドベンチャーゲームも同じであります。
 製作者が、話をどのように持って行きたいのかを読み取って
 正しいと思われる選択肢を選ぶ。
 違うのは、ゲームだから、間違えても何度も選びなおせるところ。
 アドベンチャーゲームのどこがゲームなのか、
 選択肢を選ぶとそれに応じて話が展開するところである。
 しかし例えば小説で、選択肢を所々設けて主人公の行動に
 作者が想定した正解を選ばなければ先を読めない、という仕組みがあっても
 それはテレビゲームではない。もちろん小説である。
 国語のテストがゲームではないように。


・正解がわかる選択肢を用意しなけらばならない、というのがゲームたる要件。
 これはアドベンチャーゲームの形式を縛るもの、となります。
 先の展開を想定して正解を選んだ後で、読み手は想定通りの話を読まなければならない。
 そうなることはわかっている。意外性のないつまらない話である、となる。
 そこでここで発想の転換。選択肢の答えをひとつとしない。
 選択によりこの場面でそうしたらどうなるかを見せてかつゲームにする形をとる。

・多くの場合、物事の正解というのは
 結果としてひとつしか採れないからこそ絶対唯一に見えないもの。ゆえに
 例えばどのヒロインと仲良くなるかに正解はないから
 選択肢にかかわらず話は常に成立する、ともいえる。
 しかしこの際、求められているのは状況を仮想構築するシミュレーションではなく
 製作者によって求心されるお話である。その形式である。

・そこでアドベンチャーゲームがとった形は
 選択肢の結果へいたる過程を並列し
 それを経たからこそ用意され得る選択肢を正解とする状況において
 全体構造を総括するという話の構造である。
 これは他の表現媒体、小説でも映画でもなんでもあり得てあるものだけれど
 主体的に選択肢を選んだ結果に応じて話が展開するゲームという形式に
 もっとも合っている形であると見ることができるようである。


・ゲームとは、操作することで構造を変化させて
 その手ごたえや経過や結果を楽しむものであるから
 この形式と、その内包するアドベンチャーゲーム
 ゲームとしての楽しさに即しているとは言えないようにみえるけれども 
 それでもアドベンチャーゲームから感じるのは、小説ではなく
 ゲームとしての楽しさであるのは
 つまり、国語のテストがゲームではないということと同じであるのである。
 小説を読む楽しさが、ゲームでないように。 
 

・と、いうように言うことができる。
 真面目な話をすれば、そういうことはどうでも良いのですけれども。
 読んで遊んで、面白いか、楽しめるかどうかであります。
 そして『逆転裁判』については、それについて特に言うことはないです。



・ゲームの面白さとは何か。私にとってそれは
 今までにない新しい要素をそこに見ることであります。
 ゲームは、そこに内包する、あるいはそれで表現する要素に関わらず
 その構造、手段が、他にないほど様々の様式をとる。常に新しいものが生み出される。
 

・一方でゲームでしか感じられない楽しさもある。
 STG弾幕を避けて敵を殲滅するその瞬間、
 指先が画面の中にあるそれを操作しているでなく、一体となって感じるその時。
 小説のページをめくるのでなく
 国語の授業で指されて答え、それが正解だった時に感じる安堵でなく
 正しい選択肢を選ぶことで話が思わぬ方向に展開される、その時である。


・もうひとつ。感じられるのは、無駄のない構造の完成された美しさ。
 機構が機能を果たしている構造。正しく簡潔に強く作られた仕組み。
 過去と現在の全てを知れない以上は、本当に新しいものもないといえるから
 絶対の完璧な完成度などありえない。
 しかしそういうようにあろうとすべくあることはできる。
 そこに美しさを感じられる。


・シリーズ4作目のアドベンチャーゲームである『逆転裁判4』に
 新しさを見ることはできないけれど、後者2点を楽しむことはできる。
 すなわち、それは新しくないことがわかっていても楽しむことができて
 かつ価値ある名作である、と感じる次第であります。