初音ミク Project DIVA Future Tone


2016年6月23日にPS4ダウンロード専用で発売された本作。
3ヵ月で80時間くらい遊んでいるのに、
いやそれだけしか遊んでないのかよといわれるとそうですけれど
このゲームだけ遊んでいるわけでないので許していただきたいのですが、
まだまださっぱり遊び終えた感が湧かないほど大容量。
もう次回作が出てしまっているけれどそちらに手を出す暇もない。




シリーズ中でこの作品の位置付けを説明すると次の通り。
なお曲数重複数とかは今てきとうに数えたのでだいたいそんな感じで。


まず2009年、2010年、2011年と1年置きにPSP向けに3作が出ている。
1作目は36曲(ボーカル違いの同曲をひとつとすると34)、
2作目は47曲(チュートリアルを含む 1作目と1重複は14)、
3作目が37曲(チュートリアルを含む 1、2作目と重複は9)。
これらはそれぞれ1年後後にPS3向けダウンロード専売で移植されている。
なおPS3版の「2」は「1」の収録曲が全て含まれている。


次にPSVitaPS3向けに2012年から2014年にかけて2作。
1作目は38曲(PSPでの3作とチュートリアル曲を除き重複なし)、
2作目は40曲(1作目との重複はないがPSP版とは20曲)。
同時期に3DS向けに3バージョン発売されている。
バージョンというのは、2番目のに1番目の曲が全て入っており、
最後の「でらっくす」に2番目+1曲の全48曲が全て入っているという
ゲームシステムや演出の試行錯誤過程を楽しむ仕様だからして。
ベータ版販売商法ともいう。
試行錯誤は良い意味でも使うけれど「錯誤」って良い意味ではないなあ。
そして今年VitaとPS4向けに最新版が発売済み。まだ遊んでいないけど。


さて、このように作成途中版発売を3回もやらかしているのに
定期的に続編が出ており、
いわゆる「音ゲー」のなかで
専用入力機器を要しないうちではもっとも定番と言えるシリーズである。
まわりが酷いからね許されちゃうんだよね遊べちまえるからね。
実際のところ制作するセガの良い所を上手く出すことに成功しており、
PV(プロモーションビデオ)と称する曲の演出が
凝っているものは実に凝っていて感心させられる。
好きな曲に、この力の入りまっくた演出のついたものがひとつあるだけで
全てが許せる出来ばえ、と言って良い。
凝っていないのは汎用使いまわし演出なんだけどまあともかく。
ゲームとしても、以前も書いたけれど、ちゃんと新しいものを出すたびに
細かいところで改善が見られて
遊びやすく、ゲームを楽しむのに集中できるよう洗練を続けているのは
セガらしくなく評価に値する。
もっとも3DSの最初ののようにやらかすこともあるのだが。セガだし。
新しいものに挑戦することは必要だしそれこそでこそセガだけど、
ベータ版で金を取るのは止めよう。


話を戻して今回のPS4版『Future Tone』。
2010年、PSPの2作目と同じころから稼働しているArcade版の移植である。
6年に渡って稼働し続けているが、当然常にバージョンアップが続けられて
収録曲も最初の40曲から現在は220曲超に達している。
それがほぼそのままPS4で遊べるようになったもの。
最初は別に数えていたボーカル違いを同じ曲に数え
演出違いを同じと数えると221曲。
それでいて値段はこれまでとほぼ同じ\7800。
また今月追加ダウンロード曲が4曲(内2曲はボーカル演出違いだが)追加。
今後もとりあえずあと2回、同値段程度の追加が決定しており、
ほぼArcadeに追随しての追加が当面は見込まれる。


つまり今回は同じお値段でほぼ6作分の曲があるのである。
これまで(PSP:3+PS3/Vita:2+3DS:1として)6作しか出ていないのに。
実際3DS版の48曲中20曲が含まれていないのだが、
PSPPS3/Vita版は1曲を除き全て含まれている。
難度もPSPの最初のは3段階しかなかったが
現在は5段階(ただし低難度や高難度版がない曲もある)、
全曲を全難度、順に遊ぶだけでもものすごい時間がかかる。
なお小声でいうとクリアできるとは言っていない。
端から端まで遊んでいるうちに最初の方の印象がうすれ、
さらに200回も遊んでいれば自然に操作に慣れて上手になるので
なお新鮮に遊べてしまう。
果てしなくいつまでもエンドレス。
3ヵ月たってもまったく遊び代の終端が見えない。


ゲームの中身はPSP、Vita路線とほぼ同じ。
曲の演出はそうなのだが操作体系をArcadeに準拠させているのが特徴。
Arcade版はボタンが4つしかなく、その分ボタンが大きく連打しやすい。
そのため、これまでのように左手と右手での
同方向への同時押しがなくなった変わりに、別方向への同時押しが加わり、
また連打が必要な場面も増えているため
右手と左手の交互押しは必須と言える譜面になっている。
譜面という言葉が適当が難しいが。
このように実際的なことを書くと難しそうだが、まったく難しくはない。
いや、操作の難しさを感じる程度は
個々人毎千差万別なので一口には言えないが、
少なくともピアノを弾くのよりは確実に簡単である。指2本動かすだけだし。
何の説明にもなってないか。
楽器をひとつもまともに弾けない自分に説明は難しいが
人間の身体は10本の指と1本の足でピアノを弾けるようにできているのだから
指2本だけのこのゲームの操作が出来ないことはない。ということで。




このごろ私のなかでのゲーム需要は、
頭をつかう程度によって区分されている。
すごく使うのが対人対戦。まったく使わないのがこういう操作だけのゲーム。
その中間の例はだらりと遊ぶひとが多いだろうRPGである。
RPGは操作にまったく容量を使わないし、
効率のために工夫はしても、あたまをつかうというほど使うか、
疑問に思われるだろうけれど、
お話を掛けた時間相応に楽しむには
提供されている舞台設定や登場人物演出とみためや劇伴がつくる「世界観」へ
こちらから積極的についていこうとしなければならない。
でなければただの作業である。お使いである。
入りこめず楽しめなければ唯々苦痛。
言ってみれば、マンガと同じ程度に入りやすいが
映画より能動的に、小説のように主体的に意識を持たなければならない。
そんなのお仕事でつかれたあたまではついてけないんである。


よってこういう操作だけのゲームばかり毎日遊ぶようになり、
頭を本当に使うゲームは充分に余裕がないとめろめろになるし、
ある程度に暇を感じている状態でないと
ひとのつくった物語に入っていくのは難しいのである。
以前はCAVE弾幕を浴びたり
ミスタードリラー』がこの枠を担当していたが
ご存じのようにかのものたちは無くなった。ナムコはもはや存在しない。
どんなに優れて好きな作品だろうが同じもので楽しみ続けるのは困難。
もちろんこういうゲーム、良作アクションゲームが
他にまったくないわけではない。
しかし、頭を使わない、
短時間、おおむね長くても1時間程度である程度の達成感が得られ、
操作入力に対して的確な対応があり、対人競争要素が希薄で、
余計なお話とか謎ときとかパターン化とか積み重ね要素とかがないもの、
というのはなかなかないのである。
特に最後。積み重ね要素とかパターン化である。
弾幕STG落ち物パズルゲームにだって
解法や積み重ねて上手くなる要素はある。
しかしそれはゲームを離れて資料と記憶と図上演習で上達するものでなく、
ボタンをポチポチやっているうちに血肉となって身に付くもの。
弾は見て、避けようと思って避けるのではない。
ぷよの重ね方もドリラーの落ちルートも頭で判断するものじゃない。
勝手に指が動くようでなければ間に合わないのだ。
その方が効率良いのだ。
そういう意味で頭が要らないゲームが良いのである。


音ゲー」はまさにそれである。
音に合わせてボタンを押す。画面の表示に合わせてボタンを押す。
それだけで面白いのか、文章では伝わらないが、
音楽に合わせて指揮棒を振っているだけで
人間は楽しめるように出来ている。
自分で自在に楽器を奏でて名曲を産み出せたらさぞや快感だろうが、
それは無理でも、既存の曲に合わせているだけで、それでも楽しい。
画面の表示は、慣れていないひとには滝のように嵐のように降ってきて
滅茶苦茶な高難度に見える。
音に合わせていないのならそうだが、
曲が押すべきときは教えてくれるのだ。あとはどのボタンをそこで押すか。
目で見て、頭が判断するまえに、指が動く。
それがだんだんできるようになり、
身体能力に問題がなければ誰もが歩き、走り、
運動能力に無関係に自転車に乗り
頭の出来に関わらず母国後で会話できるようになるように、
そう、頭を使わずども人間の身体は反応だけで
入力に的確な出力を返すそれが次第に自然にできるようになり、
それを的確にできたと頭が追認評価するだけで
気持ち良くなれるように出来ているのである。
良くできたアクションゲームには、そういう身体的快感を得られる。
単純にゲームを遊び上手くいったとき、なにか操作が良く嵌ったときの、
頭でなく身体で感ずる快感。それだ。




もう一つ、音楽に感じるのは、これらに対する好き嫌いの印象だ。
200曲のそれぞれに、何度聞いても心地良く感じるもの、
聞いていてあんまり良い出来ではないな、と感じる差がある。
音楽に関してはまったくわからない。
そこに出来の良し悪しがあるか、あるのだろうが、
どこにあるかはわからない。
好みが発生させているのであろう印象差を
出来良し悪しに投影させているのが、おそらく正しいのだろう。
というのは、この印象はときに変わるからである。
同じ曲でも演出が変わると変わる。
ボーカル、声がちがうのに変わると変わる。
曲を歌っているキャラクタのみためや作詞作曲者の名前や曲名すら
影響を与えているのがはっきり判断できる。
つまり曲の良し悪しとはまったく別のところで印象は上下している。


違うひとが歌うと良く聞こえる。
これは歌い手の技術とかその人の声がその曲に合っていたから、
そのように判断する。そうなのだろうか。
なんとなく、そのほうが自分にとって合っていたから、
良い印象を受ける何らかの要素を刺激したから、
悪い印象を与える要素が減じたからではないのか。
良く知っていると思える範囲、
例えばマンガの良し悪しとかゲームの良し悪しなら
わかった気になれている。それについて議論を戦わせられ、
あれはこういう理由で優れているのだ、と
自身と周囲に意見を貼りつけることができる。
確かに良し悪しはあるのだろう。
それについて知っているほど見えるものもあるだろう。
しかしそれが正しいと、いつから誰から見ても共通の物差しと、
いつの誰が正しく判断できるのか。それを正しいと何が認めるのか。
個々人の印象である。時に容易に上下するそれに依る。
個々人の印象を比べ合わせて同意を見出すことが
良し悪しをつけることであるとすればそうなのだろうけれど。
長きにわたり多くのひとに評価されることが
良いという理由ではない。
良いという評価を多くのひとに長い世代に
受けやすいものではあったろうというだけ。


的確にかくあるべしと評価されるように指が動いてくれると気持ち良い。
その時々でその曲は何度聴いても心をさまざまに揺り動かす。
これらは、絶対というものなど反証自在故絶対になさそうな、
真実という言葉に対して、少なくともその時に対して真実である。
あたまで判断したことでなく、身体が反射して対応した快楽。
そこに既にあった実感に、後から嘘を想像することはできても
その時は確かだった。
そういうことが簡単に、確実に得て、
一定に達し成し終えられるゲームというものは、まったく素晴らしい。