三國志14

シミュレーションゲームは時間泥棒である。


もう止める時間だと思いながらもあと1ターンもう1ターン、
セーブしたけどあともう少し領内見回ってから電源切る、
あ、これこうしとこうよしセーブしよういやそういえばあれがねこれがね
そうして気が付いたらもうこんな時間。明日がやばい。


そういうずるずるだらだら際限なく遊び続けてしまう面白さが確かにあるのだが
振り返ってみるとなんと無駄に時間を掛けていたことかと棚に上げて思う。
本作もとても危険なゲームだった。
正気に戻れたのは僥倖。地形をいじれたら危険だった。

 

 

さてこの三国志でなく『三國志』シリーズは、おそらくご存じの通り
信長の野望』と並んで旧光栄前コーエーコーエーテクモの看板作品。
最近記憶が怪しく、シリーズ中のどれを遊んだことがあり
どれがどういう感じのつくりで特徴はこうでというのがごちゃ混ぜであり
この部分はなになにのようなみたいな、あれとこれが比較してどうこう、
ここの仕組みがあたらしみあって評価できる点ですなあ、というのが
まったくもって覚束ない。
昔のことは覚えているのだけれども。
最初に遊んだPC版『三國志3』は3.5インチFDで
攻略本で完全軍師の概念を知ってほうほうほうと感心し
その本がその何年か後に中古ゲーム市場は違法、
なぜならゲームは映画だから裁判になったと知って感心した覚えまである。
実際、三国志が日本で妙に人気があるのは
吉川英治横山光輝のおかげだけでなく
「武将FILE」シリーズもあなどれない影響あるのではと思う。
世界で一番良くできた水滸伝の副読本は「水滸伝好漢FILE」に違いない。
ゲームは映画扱いではなかったらしいけど光栄の仕事は評価しています。
などと思いつつ早幾年。

 

そういうわけで今回も「今回のここが良いと思うよ『三國志14』」は
これまでのシリーズのこれらと比べてどうこうでなく
だらだら遊んだ時間分にふさわしくだらだら思ったことを書いていきたい。
でどこが良かったかというと、領地をマス目単位で争えるところ。

 

『信長』も『三國』も国取りゲーム。
富国強兵して戦争して城を攻め落とすことでひとつ国を取れるのだが
やはり戦争部分が攻城戦ばかりでは面白くない。
開けた平野で万を超える軍勢同士が大激突。これが燃えである。
しかしながら城や陣地や要塞に籠っていたほうが
当然防御力高く損害少なくて済むので
敵が攻めてきても城から出て迎撃しないのは当然ではある。
だれだってそうする。だからCPUもそうする。
城に籠っていても援軍は来ない、だから一発逆転に賭け
夜間雨中に敵本陣に突撃だ、というのはありなのだろうが
プレイヤーが成功させられるのは良いが、
コンピューターにこれを確率5割で成功されても困る。
対人対戦ゲームでも運ゲーだと非難轟々だろう。
運要素は時として必要だが、勝敗が運だけで決まるゲームはゲームでなく賭博。
内政し兵士揃え有能な武将揃えて
敵軍が別勢力にちょっかい掛けたこの好機に賭けるのだ、とは言うけれど
実際は賭けているわけではない。
このゲームの仕組みなら、この状況で勝利が成立するかを確認しているのが
1人用シミュレーションゲームのつくりというものなのだ。


したがって、いかに城に籠もらず会戦に挑む理由づけをするかが
旧来から『信長』『三國志』の重要な課題であったと思う。
今現在でもそうであるのは最新この『三國14』でもわかる。
三國志14 地図」で画像検索してみて欲しい。
めんどいからリンクは貼らないが一目瞭然。
黄河と長江、幅広すぎ。アマゾン川セントローレンス川もびっくりである。
なんとしても呉というか周瑜が戦争で光るには
火付けだけでなく水上戦がなければと思ったのだろう、


大人数の兵士を先に揃えた方が勝ち、では大味過ぎる。
大勢力に寡兵から奮闘して打倒する楽しさもシミュレートしなければならない。
昔の光栄作品にもひどいものは少なくなかった。
当時はどこも同じだからそういうものと思っていたが
今のゲームは経験ふまえて随分ましになった。
戦争が面白くない。面白いのは最初期だけで軌道に乗ったらあとは作業。
最初の最初から全ての1人用国取りゲームに言われているこの命題は
今も決して否定できるほど改善されたとは言えないが
それでも良くはなっている。ゲームとして面白くなっている。

 

 

戦争を面白くするためにはどうすれば良いか。
工夫の一つは、戦争部分とそれ以外の部分を切り離さないで
同時進行させることである。
旧来は攻め込むと決着がつくまで戦争ゲームがつづいたが
自領を出て隣国お城まで攻め込んで決着つくのが
かならず1ターン内でなければならない理由も、思えばないのだ。
もちろん初期はゲーム機の能力上、多数の勢力が複数の部隊を行軍させつつ
兵站を機能させつつ普段の内政もするさまを表現するのは不可能だった。
しかしいつしかそれが可能になった。
戦場でのぶつかりありを描写する部分自体は
たいして目新しくも面白くもなったわけではないのだが、
それ以外のことも一緒にしているので気が逸れるのである。
個々それぞれは単純繰り返しの結果がわかりきった「作業」であっても
複数を同時に両立並立効率良く動かそうとすると、そこにゲームみが生じる。
戦争を仕掛けた時点では彼我の勝敗が決していたとしても
その後の第三国の動向次第でそれがひっくり返ることもある。
守勢に徹することで予想を超えて国力損耗し結果が覆されることもある。
戦場をシミュレートするゲームとしては変わらなくとも
戦争をシミュレートするゲームとして各段に拡がり深く面白くなったといえる。

 


もうひとつは戦場の表現にある。
国取りであるから成果と栄誉を顕彰し強調するためか
いつしか個々の国土の個性やありようを絵にして表現するようになったが
そこへ自軍部隊が長躯侵入していくに際し
必ずしも敵首魁たる首都を落城せしめずとも
征途にある都市群を軍門下らしめるだけでも
戦争意図の十中五分までは達成叶ったと言えるのではないか。
よしんば敵軍が傘下都市を見捨て首都に籠ったとしても
必ずしも大祖国のように農奴は焦土より生えいずるのではないのだから
カンナエを再現し決戦持ち込むことも可能ではないか、という発想である。


これをゲームとして表現すると、
すべての国をひとつの戦場に表現しなければならない困難がある。
国取りゲームは1対1では面白くなく
1対1対1以上に複数勢力でなければならない。
1対1では、どちらかが決戦で勝利した以降は結果の知れた作業で
魅力に欠けると見えてしまうからだ。
全てが同じ戦場に存在し互いの領土へ常に侵入し撃退しての
首都でなく国土を守る戦争ゲーム。国取りでなく泥縄の領土拡張戦争。
三國志14』のゲームの仕組みをもし対人戦で遊ぶならば、
この段階にあるといえるだろう。


三國志14』において、それぞれの国は
ゲームの「城」である都市の周囲に、複数の「府」を持つ。
「府」に戦闘部隊を収容することはできないが、
内政担当官を配置するとターン経過ごとに
周囲へ自軍占領範囲をマス目単位で塗りつぶして拡大させていくことができる。
この自軍範囲は2つの意味がある。
ひとつは収入量。
自軍範囲量と各「府」の内政開発度合に応じ毎月の収入が決まる。
政治力100が開発するより自軍占領範囲を増やす方が短期的には収入が増える。
もうひとつは部隊の兵站
敵国に攻め込んだとき、当然その領地は敵国の色に塗りつぶされている。
部隊が行軍した部分が自軍範囲となっていくのだが
この塗りつぶしていった線が切れると、兵站が切れ、
本国に食料が有り余っていても戦場の部隊に兵糧が届かなくなってしまう。
兵站が切れると部隊は混乱し士気が下がり、
士気が零になると統率100だろうが知力100が率いていようとも壊滅する。
「府」を占領すると敵国は内政官を派遣できなくなり、
逆にこちらはまだ敵城を落としていなくとも
担当官を派遣し周囲を占領して収入を得ることが可能になる。
「府」による範囲拡大は、もちろん戦争中も有効なので、
大軍勢が攻め込んできても、その後方で内政官が上手く塗りつぶし返し
兵站経路を切ってやれば戦わずして勝利が可能となる。


単純に、マス目で区切って線が切れたら兵站切れる、というだけでなく
「府」という点をつくり、内政官をからめたところが良い工夫。
自領と敵国領では部隊行軍速度もまったく違うので
線で攻め込むと敵部隊が後方に回って線を切ってくるが
府を占領しながら進軍することで、占領面積を線から面に変え、
武官だけでなく文官も戦争に協力できるのだ。


防御力の高い城を高い対価払って無理やりでも落とさなければならない、
というわけではなくなったことの意味も少なくない。
極論、敵城落としてその国を自軍のものとする栄誉より
「府」だけを自軍のものにした方が効率良いのある。
収入は「府」ではなく、その国の「城」へ自動で輸送集積される。
他国だろうか隣の隣の隣の遠国だろうとも、自軍マスであれば収入得られる。
しかし「城」から「城」へは輸送部隊で時間を掛けて輸送しなければならない。
敵国を落とす利益は、ひとつにはその国から得られる収入も
自軍のものとするためだが
周囲の国の「城」は落とさず「府」だけ落として領土を拡げれば
数国分の領地収入が輸送する労掛けることなく自国一城に集積できるのだ。
野戦で同程度の兵士数とは戦えても
攻城戦で同程度の兵士が籠る城を落とすのは容易ではない。
しかし、今や城を無理に落とす必要は少なくなったのである。
敵国の全ての「府」をとってしまえば
収入が減じ、部隊を保ち部下に給金を払うこともできなくなって
攻城戦を経ずとも自壊する。
城に籠っていれば被害は少なくなるけれど、収入もなくなる。
だから仕方なく、敵が進軍してきたら城から出て迎え撃つようになるのである。


城ではなく、領土を奪い合うことに意味を持たせたのは、
もちろん『三國志14』が初めてではない。
しかし、自城の防御力を内政で高めることが容易にできないようにしたりと
自覚的に攻城戦を避け戦争を面白くしようとする工夫は、大いに評価される。
プレイヤーは10日ごとに1ターンなのに
コンピューターは常に部隊移動を細かく指示出せるのも
ガンパレードマーチ』を思い出すほどではないが、
オートセーブの便利さも含めて、遊ぶこちら側を上手く悔しがらせる塩梅だ。

 


たくさん沢山いる武将グラフィックも感心させられる。
よくぞこれだけの人数を質と絵的な統一感持たせ描き揃えられるものだ。
この何百枚の絵を見比べていくだけにも価値がある。
ひとつにつながった中華大陸に点在する各勢力。うごめく各部隊。
そこにこの絵と史実と物語に基づく能力値を持つ武将たちが載り
自軍が徐々に強くなって塗りつぶす範囲を拡げていく過程だけで
妄想するには充分。想像力が豊かなら尽きることなく遊べるのだろうと思う。


問題はやはり、これが1人用国取りゲームであること自体にある。
1人でコンピューター相手に遊ぶことに合わせて作られているからこそ
武将の配置や外交や内政でできることの幅を持たせて
現実味風を味わいつつ、妄想に応えられる柔軟さを実現させている。
しかし、誰でも丁寧に遊べば徐々に強くなれる、
すなわち負けようとしないかぎり勝てるゲームである以上、
ある時点で勝ちが確定して以降は作業感が重くなる。


ほとんどどうしようもないだろう。まったくどうしたら良いかわからない。
赤壁の戦いは、史実の曹操にとってみれば現実だから仕方がないが
三國志14』で曹操軍を遊んでいて、同場面で不可避な敗北を喫せられたら
ゲームとして成り立たないと感じるだろう。
戦国ランス』のように、「国取りゲーム」のようでいて
全土占領がゲームのクリアではないというように妄想できたとしても
それは『三國志14』というシミュレーションゲーム上のものではない。


では対人対戦ゲームであるべきなのか。
昔のように、複数人で交互に別々の国を担当できる
戦争シミュレーションゲームとして遊べるようにするべきか。
しかし現在の『信長』『三國志』は1人用専用、
対人対戦ができない仕組みだからこその面白さで成り立っている。
複数の単純作業を同時並行する効率を競う楽しさで出来ている。
例えれば、ヨーイドンでのリアルタイムアタックに合う面白さ。
公平機会数の下で同程度資源をより効率よく戦力に転換し
機を見た攻守駆け引きを行うような対人対戦の面白さとまったく折り合わない。
国家運営の効率を競う戦争シミュレーションではなく
歴史物語の舞台を体験して妄想する歴史シミュレーション。
ターン制にし、交代しながら
「国」という資源を取りあうゲームに最適化するなら
それはもう『三國志』ではないし、
リアルタイムストラテジーにして戦争シミュレーションをするなら
それもやはり『三國志』ではない。
大規模オンラインRPGにしてみたり、題材を流用して対戦アプリにしてみたり
コーエーテクモもいろいろ頑張っているが、それはもう別のゲームなのである。
三國志』がより面白くなったもの、ではないのだ。

 

三國志14』はこれといって目新しい要素があるわけではないが
従来からみられた要素を現代の技術で過不足なく丁寧に表現した良作である。
提案でしかできない謀略や内政事項が多数あるのも
出来ることを何でも選択可能にするのではなく、あえて簡潔にすることで
それぞれの行動により重みをもたせている工夫。
歴史シミュレーションゲームとしてどうできるようにあることが
ゲームを楽しむうえで重要とするべきかに
製作者が自覚的であるからこそできることだ。


面白いのは最初だけで中盤以降はだれる。
がんばっていろいろ妄想することでそれなりに補えるが
狙って史実のような劇的な展開を作りだせるわけではない。
武将絵は大変すばらしいが一騎打ちはしょぼい。
有名武将はボイス付きで頑張っているのかもしれないがソシャゲごとき以下。
演出は貧相だが、絵と能力値をみ、国を育て妄想するその目的には適うつくり。


いろいろな時代でいろいろな勢力があそべるのだが
地形は同じなのでどこの国からどこの国へ攻め込めるかは変わらないし
「府」の配置も同じなのでやはり戦争も同じような展開になる。
地形も自分でいじれたら危険だった。
まあそれもまた三国志ではないのだろうけれども。