今回の主旨
今回はゲームでなく以下の本の感想です。
岩崎啓眞 (著) 本当にためになる ゲームの歴史
https://www.amazon.co.jp/dp/B0FGZQQZ98
著者はゲームライターとしても古くから活動されているので
ご存じのひとも多いかと思います。
本書の内容も著者のいつもの記事と同じ感じに学術的な堅いものではなく
ゲームに関する読み物雑学コラムの語り口なので
ある程度ビデオゲームの歴史に興味があるならば広く楽しめると思われます。
ゲームライターである前に30年ほど前から
ゲーム制作側であった著者の経験を踏まえ
制作側からみたゲームデザインとビジネスモデルの関係について
ビデオゲームのはじまりから22世紀最初の四半世紀現在までの通史です。
書かれているいろいろなことに、そうそうそうだった、
自分の体験ではこうだった、と書きたくなるような内容であるので
以下そういうことを書いてまいります。
つまりいつもと同じく論評とかでなく感想です。
繰り返しになりますが、本書は網羅的にゲームの歴史を解説する本ではなく
後段にある著者による内容紹介からわかるように
各時代ごとの商売になるゲームはどうだったか、どのように変遷してきたか、
それはなぜだったか、という主題の解説のみに注力したものです。
例えば「スプライト」という単語のビデオゲームとしての解説では
スプライト機能がゲームにおいてどのような役割をもち
具体的にどのように活用をされてきたか、ということを
著者の経験からいくらでも書くことが可能であると思いますが
書かれているのは「なぜスプライトと呼ばれているのか」ということだけ。
そういうこともあって
要点を引用しそれについて都度自分の経験ではああだった云々と書いていくと
解説されているほとんどについて引用することになりかねない。
本書の価値を毀損する意図は毛頭ないので、
わかりづらくなることを承知で引用は一切いたしません。
御覧の通りありがたくもここはページビューを積み上げることに
汲々としている場所ではまったくございませんので不便なのは仕様。
あと一応書いておくと以下偉そうにいろいろ書いているけれど
私にはゲーム制作の知識とかゲーム制作や運営の場に立ち会った経験とか
まったくございません。単に市井のいち読者の感想です。
この記事を読んで興味を持ったひとは是非購入し
この記事の感想を併せて「自分はどうだった」と
楽しむ一助としていただければよいと思います。
「これに勝る喜びはない」というほど力は入っておりません。
著者について
Amazonの「商品の説明 著者について」を読もう。引用しない。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0FGZQQZ98
ゲーム雑誌やネットの情報で様々なゲーム制作者が登場するなかで
なぜこの記事を書いているひとが著者の本を買うほど注目しているかというと
『天外魔境2』の制作者だからである。
このサイトでも過去に何度も書いているが
『天外魔境2』は1992年に発売されたRPGとして素晴らしくよくできた傑作だった。
1992年は『ドラクエ5』『FF5』と同じ発売年なのだが
この3作を遊んで、好みによる影響はあるにせよ
出来栄えという点で『天外魔境2』が傑出しているといえる。
演出上の見た目の良さとか読み込みの短さとか
それによる戦闘のテンポのよさとかたんにフィールド上や街中での移動速さとか
お使いイベントをこなしていくひとつひとつの作業の快適さが隔絶している。
技術的に言うとロムカセットに対しCD媒体の方が
ゲームテンポが優れていると感じられるのは驚くべきことだが
そんなこと関係なく、遊んでいて気持ちよい。快適。
しかしながら『天外魔境2』は主流ハードではないPCエンジン向け作品であり
触れる機会をもてなかったひとが大勢いたために
「ドラクエ」「FF」に敗北してしまった。まことに残念無念である。
もちろん敗北したのはPCエンジンで『天外魔境2』が発売されたからだけではなく
「天外魔境シリーズ」で同時代の他ゲームに対して優れていたのが
PCエンジン版『天外魔境2』だけだったからなのだが。
私は「天外魔境シリーズ」の信者なのではなく
PCエンジン版『天外魔境2』の信者なのである。PS2版GC版ではなく。
なんで後から同じゲーム機で出して劣化してるんだよおかしいだろ
同じ仕組みを使いまわしてキャラとお話だけ変えればいいだろ
なんでそんな子供でも考えられることすらできないんだよ、
というようなことを当時『カブキ伝』へ真剣に思っていた。子供だったので。
大人になったのでゲームはひとりで作るのでなく仕事として作業するのだから
まあそういうこともあるよねと諦められるようになった。
コナミに吸収されて残念でもなく当然と思える程度に。
で、PCエンジン版『天外魔境2』だけがなぜ優れているのか、
これはハドソンではなく個別の制作者の力量によるものに違いないと思って
本書の著者である岩崎啓眞氏と『俺屍』で知られる桝田省治氏の
おふたりに注目することになったわけである。
なぜこのおふたりかというと以下の公式ガイドブックで
このおふたりが制作陣を代表して前面に出て解説されていたからである。
公式ガイドブック https://www.amazon.co.jp/dp/4047145076
この本は34年経ってもいまだに手元にあるので
桝田氏が船海宮義経に触れた文章を読んでにやにやしたりできたりできる。
岩崎氏の戦闘解説を全面的に採用して短時間クリアを何周もしておりました。
もとい、そういうわけでこのおふたりがかかわっている作品を
後年まで幅広くいろいろ遊んでみたのだが
『天外魔境2』は奇跡の作品だったのだな、というのが現在の正直な感想である。
まぐれではない。
このおふたりの力量が遺憾なく発揮された必然の結果であって
それを成す開発環境がそのときハドソンにたまさかに在ったことは
事実なのだろう。
そうしたわけで著者の以降のゲームライターとしての活動にも
名前を意識して注目してきたわけなのである。
著者自身による本書の紹介
著者のサイト「Colorful Pieces of Game」で本書について紹介されている。
なんとISBNのついた自著が出版されます http://www.highriskrevolution.com/wp/gamelife/2025/07/10
本書は「Colorful Pieces of Game」での
「書籍「ゲームの歴史について」」として書かれたテキストが
もとになっているのだろうなあと思われる箇所もあちこちで見られるので
併せて読んでも良いと思う。
紹介はまさに本書の要約なので
当サイトのこの記事が要約ではなく
単に個々の内容についてのばらばらな感想になるのは
だいたいこういう内容だから、で済むからである。
もっとしっかり知りたいひとは購入して読もう。
あと書名については、たま出版の編集に対する評価がひとつさがった、
といいたいところだが
そもそも他の刊行書籍をみれば
刊行しようと思いついただけで評価できると思いなおしたということを
正直に書いておく。逆に言えば他の出版社は何をしているんだという話だが。
ありがとうたま出版。たぶん今後もあまり縁ないけれど。
第1章 都度課金の時代
本書はゲームシステムとビジネスモデルの話なので
1章では「都度課金の時代」とありながらも家庭用ゲーム機登場までではなく
1991年の『スト2』登場までの
アーケードゲームにおけるビジネスモデルのお話。
風営法施行以降の当時のゲームセンター、という記述があるが
風営法によるゲームセンターへのしばりはいつごろはじまったのか。
法律の専門家ではないので詳しく調べる気はまったくないが
ゲームセンターという名のものができたのはビデオゲーム以降ではあるが
パチンコやピンボールやメダルゲームとそれに類似するもの、
そして雀荘などは古くからあり
新しく出現したビデオゲームが当時、それらと重なっていた部分も少なくなく
法の網をかぶせなければいけない側としては、現在の違法カジノまで
続々と法の目を搔い潜ろうとしているように見えるモノが出てくる
とてもやっかいな分野だろうなあと思う。
喫茶店に『スペースインベーダー』と
その類似品のテーブル筐体が置かれている風景は
初期の『こち亀』でしかみたことがないが
当初は筐体に積まれた100円玉を狙う柄の悪い学生層と
手癖の悪い落伍者のみなさんを警戒する程度で良かったのに
今やオンライン上データの現金換金価値まで監視せねばならない。
まことにめんどい。
ブロックチェーンゲーム周辺のうさんくささも
面白いゲームを楽しみたいだけの我々にとっては害毒にしか見えない現状である。
第2章 売り切りハードウェアの時代
ファミコンの前にLSIゲーム、現在のキーチェーンゲームがあったというお話。
「ゲーム&ウォッチ」は天下の任天堂謹製がためになんども復刻されているため
かつてそのようなものがあったことを知っているひとも意外に多いかもしれない。
ファミコン最初期のどんなにダメな作品も
明らかにゲームウォッチで遊べる作品よりは高度なことをしていた。
それだけプログラムソフトウェアということがさっぱりわからない素人にも
LSIゲームにとてもおおきな制限があったことが察せられるわけだが
『たまごっち』が1996年でドリームキャストのビジュアルメモリが1998年。
スマホがある現在でもなお、もちろんゲームというくくりではなく
手慰みのおもちゃというくくりではあるけれども
同様のものが存在し続けるとは予想もできないことであった。
個人的なこというと、ファミコンミニをはじめとするこういう復刻というか
そもそもの復刻リマスターというジャンル全体にあまり価値を感じられないのは
自身がゲームを面白いと思う多くの部分が
いままでにない新しさに、理性を越えて力点を置いているからだろうと思う。
懐かしいけれどまた遊びたいわけではない。
たぶん遊ぶと現在の他と比べて
さまざまな細かい工夫が不足している劣った作品に見えて
その印象で上書きされるだろうから。
そういう意味でも本書もゲームの歴史をビジネスモデルの観点でみるという点が
これまでの実直にゲームでできることが拡大してきた歴史を追う記録に比して
新しさがあり面白く感じる次第である。
あとここ20年くらいのゲームを総括するような文章自体が
まだあまり存在していないというのもあるかもしれないが。
あと著者がファミコンの開発責任者として知られる上村雅之氏に対してのみ
「先生」づけをしているのも楽しいところである。
第3章 B2Bの買い切りの時代
LSIゲームの次は
「ゲームソフト」を追加で購入することで新しいゲームが遊べるという仕組みが
導入された時代。
「ゲームウォッチ」も『たまごっち』もできなかったことができるようになった。
「ATARI VCS」が「アタリショック」で壊滅し
その焼野原に「ファミリーコンピューター」が颯爽と現れ
世界中をニンテンドーで埋め尽くした、というのは本書の本題ではなく、
「アーケードゲーム」と「テレビゲーム」の求められるゲーム種類の違いと
そして「ゲームソフト」をまず購入していたのはゲーム少年ではなく
問屋のおじさんであった、というのが主題。
特に後者はなるほどと膝を叩かせるという点で本書の白眉といえる。
ので購入して読んでほしいのでそこには触れない。
著者としては5章6章あたりが一番力が入っているのかもしれないが
一読者の個人的感想として。
前者のアーケードゲームはテレビゲームに求められているものとずれていた、
というのは本書だけでなく様々に語られているところ。
初代『ドンキーコング』が『マリオブラザーズ』になり
『スーパーマリオブラザーズ』になる過程をみるだけでも明らかだ。
しかし同時代の現場すなわちゲーム制作者もゲームセンターもゲーム少年少女も
もちろんそういうことを意識していたわけではないので
駄菓子屋に置かれたゲームには、100円で3分遊べる形式で
アーケード向けにつくられたのではない
ファミコンで初めて発売された作品がそのまま入ったものも存在した。
『スーパーマリオ』もあったしサンソフトの『水戸黄門』もあった。
明らかに3分で遊ぶ向きのゲームではないものが
3分100円で商売になると考えられて設置されていて
それになけなしの小遣いから貴重な100円を入れてしまうおこさまも
少数ながら現にここにも1人確実に存在したわけで
当時のゲームで商売していた側のつたなさも懐かしく思い出される。
今もショッピングセンターのゲームコーナーの現場感覚は
たいして変わっていないかもしれないけれど。
という経験をしたひとも多かろうと思われるので
ゲームセンターのゲームとファミコンのゲームは
ある程度わけて考える必要があるのだなという知見は
うすくひろく広がっていると思われる。
また当時の「裏技」という概念の流行も興味深いところ。
「スーマリ」の無限増殖や「上上下下左右左右BA」など
意図してにせよミスにせよそれぞれに様々な起因があるのだろうが
テレビゲームだから許されたのであってアーケードでは許されなかったはず。
オンラインアップデートができずリコールにすらなり得る
重大問題のように素人には思えるのだが
なぜ制作側がそこを強く意識していなかったのか、
裏技として仕込むのでなく仕様としてどちらが売れるかを
検討しなかったのかは現在からみると不思議に思える。
結果論でたまたまアーケードでは
無限に遊ばれてしまうようなミスが発生しなかったということなのだろうか。
そもそも『ゼビウス』で6時間以上遊べてしまえる時点で
制作側もあくまで例外中の例外だから、
本書に書かれているようにそれが可能だったとしても
大多数にはそれが実行し続けることに面白さを感じられないから
全体に網をかぶせる必要はないと判断したのだろうか。
あとファミコン版初代『ボンバーマン』が
パスワードコンティニューの開祖だというのは
当時それを遊んでいて全然意識していなかった、
何しろコンティニューを必要とするほど先の面まで到達できなかった身としては
まこと味わい深い。
いいわけしておくとファミコン版初代『ボンバーマン』は
『グラディウス』同様のノーパワーアップスタートで
パワーアップアイテムはなんと一面にひとつしか出ないのである。
低移動速度で爆風1マスリモコンなしで敵を全部つぶして
アイテムさがして時間内にクリアしなければならない難度は
最初ほど厳しい仕様だったのだ。
その後のある程度パワーアップして対人対戦を楽しむという入口にまですら
何十分ものプレイ時間が必要で、根気がなければ到達困難なつくりであった。
なので正直いって当時はそういう面白さがあることに気付く段階まで
到達自体できなかった。単に下手だけだったとも言う。
ゲームの基本的な仕組み自体はすでに存在していたのに
制作側がその仕組みが生成する面白さに気付いていなかった例ではあり
ちゃんと気付けるひとは気づき、制作側にも気づいたひとがいて
そこに修正できた幸運な作品だったと言える。
でなければ『ロードランナー』同様に埋もれていただろう。
『ロードランナー』より『チャンピオンシップロードランナー』のほうが
なんかすごいゲームな気がするじゃん。
ゲーム雑誌すら黎明期の当時のおこさまにわかるわけないじゃん。
最後に最初に触れないといった
当時の流通形式がゲーム自体を決めてしまうことについても
些末なところに触れておきたい。
それはパソコン向けのゲームがテレビゲームに飲み込まれず
なぜ存在し続けられたかという点。
PC向け作品は中古だけでなくコピーとも戦わなければならず
大手テレビゲームメーカーはまともに相手をしていない、
するだけ損だから、という判断が働いていたのではないかと勝手に想像する。
よって小規模なゲームメーカしか残らないのでインディーズてきな、
ちがいのわかるおれというちがったいみでの差別意識が
その存在を助けたのだと思う。当時PCゲームも遊んでいた身としては。
アダルト向けは購入意欲の源泉がまったく異なるので異次元の存在だろうけれど。
そして、同じ意味で日陰ものであるゆえに小規模の実験的な作品でも
その美点のみを強く評価する一般向け市場と異なる原理が働いたのではないか。
まあ自分でも書いていて当たり前のことを言っているなと思うが
「三国志3事件」で知られる技術評論社の非公式ガイドブックを当時立ち読みして
知力100の軍師の助言は100%的中するという完全軍師の概念を知り
最新作の『三国志14』にも完全軍師の仕様が受け継がれている事例などをみると
メジャーあれば日陰あるのもまた必然であり、その役割も様々に在って
その歴史を俯瞰するうえで見落としてはならないものだと当たり前に思う。
あと購入せず立ち読みですませてしまって申し訳ありませんでした。
第4章 対戦の時代、音ゲーの時代
1991年『ストリートファイター2』からの対戦格闘ゲームと
1997年『ビートマニア』からの音ゲーの
ゲームセンターにおけるビジネスモデルにおける革新のお話。
また章題にはないが2002年『WORLD CLUB Champion Football』からの
カードゲームについても記述あり。
ここについてはやや誤解を招く表記があるのでそこに触れたい。
『三国志大戦』がプリペイドカードの仕組みにより
1プレイ100円の壁を突破しようとしたというような記述があるが
そして必ずしも間違いではないが
三国志大戦のプレイ料金を支払う仕組みとして現金が排除されたことはなく
三国志大戦を含む一部の大型筐体でプリペイドカードによる
1クレジット=100円の制限を脱した作品があったというほうが正確である。
アーケードゲームではプレイするためにxxx円入れてくださいとは表記されず
「クレジット」や「コイン」の単位が使われる。
これはゲーム機のほうで「1コイン」が100円か50円かを
内部的に、つまり運営店舗の判断により切り替えられるようにして
1プレイ100円(100円玉を1回)だけでなく
3プレイで250円(50円玉を5回投入)というような
値段設定を行えるようにするため。
10円玉や500円玉に対応することも理屈ではもちろん可能だろうが
10円では40年前でも安すぎ500円は現在でも高すぎるので
50円と100円玉のみの対応であろうと思われる。
ゲームセンターとしてはもっと細かく稼働状況によって
1プレイごとに必要な料金を変えたいと思うのは当然だろう。
そこで生み出されたのがプリペイドカードによる支払い。
つまり電車やバスや自販機でおなじみの
現金でなく電子決済だと割引されるあれである。
ゲーセンでは硬貨を扱う手間が問題なのではないところは違うところだが。
(補足:ゲーム筐体を製作したことはないし
ゲームセンターで働いたこともないので
料金の仕組みはユーザーからの勝手な想像で
事実関係が誤っているところもあると思うので先にお詫びしておきます。
『戦国大戦』が稼働当初3プレイ700円だったが1か月で600円に代わったときに
筐体側でどういう表示だったか、正直覚えていない)
しかしながらこの仕組みはまったく普及しなかった。
ゲーム側でプリペイドカード支払いに対応していなければならない、
という当たり前なというところで盛大につまずいたのだろうと思われる。
当時稼働開始当初には劣るとはいえ
まだまだ熱心な顧客がついていた『三国志大戦』ですら
一部のメーカー直営ゲームセンターのみでしか対応されなかったから
それがゲームセンター全体に広がるはずもなかった。
長期的にみればプリペイドカードによる自由料金変動制の魅力は
どのゲームセンターだってわかっていただろう。
同じゲームなのだからとなりのゲーセンより1円でも安ければ
客が付くだろうとは容易に想像されるところ。しかしそれでも導入されなかった。
ゲームセンターを運営していた経験もまったくないのでなぜだかしらないが
ゲームセンターに置かれているゲーム機台の更新が
そうそう行われるわけではないことを見れば
おそらく導入費用が予想される利益に見合わなかったからだろうと想像される。
なぜなら安いなら客が来るという単純な問題でもないからである。
『三国志大戦』が1クレ100円から1クレ50円になったからといって
遊ぶ人の総数が2倍に増えるわけがない。
実際に多少は回復しただけだったし、
クレサ(クレジットサービス)をしなかった店舗では
稼働停止する判断を速めただろう。
多くのひとはとなりの1クレ100円の新規作品を遊ぶのだ。
だってみんなはそっちで遊んでいるのだから。
ゲーセンとしてはとにかく導入費に見合うくらい客がたくさんついてくれて、
そして運営費に見合うくらいその状態ができるだけ長期間続くゲームこそが
良いゲームなのである。
もうひとつ、本書の主題から外れるので書かなかったのだろうが
アーケードゲームという世界が現在のビジネスモデルに収まったのは
コインという物理的問題だけでなく
場所と騒音という別の物理的問題があることは想像に難くない。
このサイトでも何度か書いてきたことの繰り返しだが
『三国志大戦』は稼働開始から21年経った今でも史上最高によくできたゲームで
「大戦」シリーズを一度も遊んだことがないひとが
ビデオゲームについて語るとか片腹痛いと堂々と書いてしまって
全く問題無い傑作だと今現在も思っているが(個人の感想です)
大きな欠点は料金の高さでなく、ゲームセンターでしか遊べないことである。
なぜか。8枚のカードの位置と向きと種類を
アクションゲームとして成り立つ精度で読み取れる専用筐体でしか遊べず
それを汎用家庭用ゲーム機の周辺機器として販売するには
場所を取りすぎるからだ。費用の問題でなく大きさの問題だ。
同様にゲーセンに置いてあるのが音ゲーとカーレースとガンSTGなのも
音と場所の問題と断言できる。
ゲーセンの価値は、各家庭で格ゲーをゲーセンと同等の通信品質で
オンライン対戦が可能になった時点以降は
ごくまれにある集まる場としての価値を除き、他に存在しないのだ。
と書いてしまうと誤解を招くので追記すると
騒音と大きさが問題となるゲームのほかにも
UFOキャッチャーのプライズ系やプリクラのプリ機とメダルゲームが存在する。
プライズ系がゲームセンターでしか成り立たないのは言うまでもない。
プリ機は機能の問題でなく繁華街にあるからこそ意味がある。
問題はメダルゲームで、その性格とビデオゲームとしてどうかは幅広く
またカードゲームもカードの価値が
メダルゲーム以上にゲームセンター外にも通用するという意味で
ブロックチェーンゲーム界隈を含めていろいろあるといえるが
よく考えたらこの記事はそういうことを書く場所ではなかった。ので
このサイトの過去のどこかに書いたことを参照してください。
第5章 オンラインゲームの時代
表題から想定される『ウルティマオンライン』以降の系譜だけでなく
その前の非商用オンラインゲームや
「XBAND」というそういえばそんなのあったなな話題にも触れるお話。
このサイトを見てわかるひとはわかる通り
オンラインゲームとかほとんど遊んでいないので
「クライアント購入の意味がわからない読者も多いと思うが」の記述で
逆に混乱する。
クライアント購入しないオンラインゲームとかあるの、と。
そういう見識の狭さである。
説明されてみればなるほどオンラインゲームとは
あのオンラインゲームだけでなくこれもあれもオンラインゲームなのだね、
なるほどねいわれてみればね。
オンラインゲームはいわゆるオンラインゲームの『DQ10』を100時間くらい、
『FF14』を3000時間くらいしか遊んだことないのでまったく知らないが、
自慢ではなくこれ以外はソシャゲをちょっとさわったくらいしか
本当に遊んでいないのであるが、
それでも言えることは、オンラインゲームだから面白いのだ、ということである。
『FF14』がオフラインゲームだったら、
正確にい言えば1人用RPGであったならばまったく面白くはない。
もちろんオンラインゲームとして作ってあるのだからそれで当然なのだが、
ネットの向こうの誰かと協力してダンジョンを進み
敵を倒すということ自体が大変に面白すぎて
それ以外のゲームとしてどうかの評価が
同種との比較以外ではでなかなか難しいところだと思う。
これは『マリオブラザーズ』と『スーパーマリオブラザーズ』の違い、
『ボンバーマン』を1人で遊ぶのと複数人で遊ぶ違い、
『桃太郎電鉄』をCPU相手に遊んで面白いかということとまったく同じだ。
オンラインでもオフラインでも、対人で協力したり対戦するからこその
面白さがあるゲームというのはほかにもいくらでもある。
リアルタイムストラテジーも『三国志大戦』も将棋も麻雀もみなそうで
いわゆるオンラインゲーム、『ウルティマオンライン』のようなものだけが
オンラインなのではなく
オフラインを含めて一人用でないすべてがそこに含まれるといえるだろう。
で、本書に書かれているのはそういうことではなく
『ディアブロ』『スタークラフト』『リネージュ』それぞれが
どのように革新的だったかというような話なので
なるほどなるほどよく知らないけれどそうだったんだな、という感じ。
無知に恥じ入る次第です(いうほど恥じ入っているとは言っていない)。
例えば「スキン(アバター)にパラメータ(ゲーム内評価に影響する能力値)を
付けるか否かは
いわゆるオンラインゲームではつけるべきではないし
一般的な家庭用テレビゲームでもつけるべきではないが
基本無料ゲームでは重要な収益元であり必須要素である。
いわれてみれば確かにそうなのだが
なぜそう思うか、そうなるに至った経緯はどういうことか、と
説明されてみると納得である。なるほど。
『初音ミク プロジェクトディーバX』はあれだったよね
「良い子の諸君!
「誰もやらなかったことに挑戦する」と言うが
大抵それは「先人が思いついたけどやらなかった」ことだ
何故面白いか理解できない人間に面白いものは作れないぞ!」だね。
実際は「思いついたけどやらなかった」ではなく
「検証され否定されたことを知らなかった」という例が多いのだろうけれど。
とはいえ一度否定されたとしてもその時その場合はそうだっただけで
今後もいかなる場合もそうであるとは言えないこともあるだろうけれど。
第6章 Free to Playの時代
前章のオンラインゲームからソシャゲ、
全世界で圧倒的普及率のゲームを遊べる機器である
スマートフォンで遊べるゲームで商売にしていくときに
どのように基本無料ゲームが生まれ発展していったか、というお話。
でこの章もまったく遊んだことがないゲームばかり、
つまり本書でいうかくあれかしたる「信念の問題」によって
面白くなさそうに見えているゲームは手に取らないので
引き続きあまり関係ないことを書く。過去形ではないのがポイント。
何せ『スイカゲーム』系ゲームもいまだに遊んだことないぜなんだぜ。
前の続きだが、ゲーム内でのユニットとかアイテムとか装備とかに
当然ながら性能の優劣は存在するのだが
それをゲームメーカーおよび運営側が販売するというのは
よくよく考えてみると遊ぶこちら側からすれば面白くないことである。
つまり基本無料なので、強いキャラを周囲よりいち早く手に入れるために
お金を払うこともやむを得ないというのが
現在の基本無料ゲーを遊ぶ皆さんの思考であるが
課金しなくても自分だけが手に入るならもちろんその方がいいわけである。
全員に配られるならどんなに性能が良くても意味ないのである。
だからといってすごく強いのを100万円で販売しだしたらどうだろうか。
そんなアコギなゲームやってられるかと思うだろうが
みんなか無視して続けるのなら続けるだろう。
100万円でなく「適正」な価格なら手持ちの予算と、
周囲みんなのもりあがりを考慮した上で課金するかを決めるだろう。
もちろんキャラのみためが気に入ったとか
性能が現在の手持ち的に好適だからとかの
自分への言い訳は必ず存在しているだろうが、つまりはそういうことである。
そのゲームに興味のないひとには1円の価値もなく
いずれはサービス停止してなんの資産として残ることがないとしても
今この時の体験を買っているのだ。常識的な範囲で。
つまりわれわれユーザーがまあ適正だとゆるしてやっている範囲で。
そしてこれは基本無料ではないゲームでも成立する。
運営がゲーム内価値を現金化して自分たちの利益にしようとすることには
嫌悪感を持つことはブロックチェーンゲームを見ても明らかだが
有償アイテムやダウンロードアイテムと何が違うだろうか。
どこまでが許せる可愛げある曲芸商法で
どこからが拝金主義の唾棄すべき詐欺同然の商売なのか。
もちろん自分と、ついでにまわりのみんなが
その課金でどれくらい楽しめているかである。
基本料金がいくらかとか、すでにいくら払っているからとかは
もちろん関係ないわけではないが、本質的には重要ではないといえる。
古いゲームにあきたら、いくらそのゲームが値下げしようとも
高い新しいゲームを遊ぶのだ。なぜか。それは自分がそうしたいからだし
まわりのみんながそうしているからだ。
ゲームの価値とはそういうものであり、そこで商売しようとするということは
必然そういう価値の商品であるということを踏まえなければならない。
これが現在の価値感であるが、考えてみればひと昔前は違った考えもあった。
課金アイテムでどうにかなるのは間違っており
プレイ時間の総量でゲーム内評価はなされるべきであると。
対人対戦ゲームでは確かにそれでは問題あるだろう。
時間総量でなく上手なほうが勝利の栄光に浴するべきだろう。
しかし対ひととで比較するところ以外ではそうでなくとも良いのではないか。
地味な毎日の努力が現在の偉大な成果につながっているのは必然ではないか。
長く遊んでいて詳しいひとのほうがゲーム内でえらいのは自然ではないか。
かつて一時期のいわゆるオンラインゲームにはそういう思想があって
レベルを上げるためにはものすごい時間が必要だったりした。
しかし長く運営を続けることで利益を上げる形態の商売に置いて
この考えは否定されざるを得ない。
先行者には利益がなければならない。それはそうだが
始めたひとがいつかは止めて遊ばなくなっていく以上は
常に新規参入者の関心を獲得し続けなければならない。であれば、
新規参入者が先行者に追いつくことが不可能であってはならないのだ。
しかもそれは先行者が現在位置にたどり着くより容易になされなければならない。
でなければ格差は永久に埋まらず
新規参入者のそのゲームへの参加意欲を損なうことは明らかだからである。
現在でもオンラインゲームを今から初めても
昔から遊んでいるひとに追いつけるわけがない、といった考えは
ソシャゲにせよいわゆる大規模オンラインRPGにせよ普通に見かけるので
いまだ現在もその価値観が当然に
全体隅々へ行き渡っていない転換期にあるのだろうろう。
ユーザーだけでなくそれを広く訴えてしかるべきの制作側にすら。
第7章 B2Cの時代、売り切れがない時代
ゲームのダウンロード販売が主流になったことによる売れ方との違いと
それをうけてのゲームの変化について。
ダウンロード販売が主流になったのは
ゲーム機側の保存容量も回線速度も足りていなかったからで
ゲームソフトの大きさがこの2つについに屈したからに他ならないが
当然その過程でさまざまなお話が発生した。
よく知られているのは本書にもある通り
プレイステーションで任天堂からソニーに主導が移行したときの流通改革で
おもちゃの売り方から音楽CDの売りかたに変えようとしたときのできごと。
結果として値付けや販売量に対するソニーの力加減が充分でなかったことで
必ずしもゲームの売られ方、
われわれ消費者からみたゲームの購入のしかたが変わることはそれほどなかった。
もちろんそこには中古販売の問題が大きくあった。
これがダウンロード販売で大きく変わろうとしている。
ゲームを長年遊んできたひとたちで
一切中古で購入したことがないというひとは相当少数だろう。
かつてはネット販売すらあやしいのしかなかったのだから
足で回れる近くのお店に新品が売ってない以上は中古で買うしかなかったのだ。
実際何十年か前に秋葉原が持っていた魅力にはそういう物理的要素もあって
地元には売っていないものが秋葉原なら入手できるかも、という価値が
そこには確かに存在したのである。
われわれは普通に法律上どうなのかとかなどと考えることなく
中古ゲームを購入していた。
本書では3章にて当然に制作側は中古に苦しんでいたことを書いている。
中古に売られてしまわないようゲーム自体を変える影響があったのだと。
踏み込んで当時のメーカ戦略にまで疑問を呈し
今だから言えることと断ったうえで
レンタルビデオのようなシステムが確立していれば、とまで書いている。
果たして当時ゲームがレンタル式だったらどうだったろうか。
実現可能性は置くとして単純にユーザーの立場からだけならどうだっただろう。
思い出されるのは我々はゲームを新品中古での購入による入手だけでなく
友人間で貸し借りを頻繁に行っていたということである。
マンガなどよりもはるかに頻繁に。思い出さなければ忘れていた時点で相当だが。
仮に中古販売が完全に禁止されていたとしても貸し借りは行われていただろう。
レンタルがあれば普通に利用しただろう。
所有欲のあるひとやお布施の意識から新品を購入するひとも
今と同じようにいただろう。
つまり現状と同じく、消費者の大多数はたいていの場合において
制作側にいくらお金が回るかをあまり考えないものなのだ。
もちろん考慮しないのではない。違法コピーはいけない。でも類似品はいいよね?
普通に販売されている以上は違法なものではないのだろうし。
ゲーム以外ではよく似た少し違う商品なんていくらでもあるしそういうものでは?
実際ゲームの中古販売が違法という判例が確定する過去があったとして
われわれがそこまでの行いに罪悪感を抱いただろうとは到底考えられない。
メーカーがゲームレンタル業を始めたら普通に利用しただろうし
そうでなかったから、そんなこといまのいままで考えもしなかった。
当時のメーカー戦略は誤っていたのかもしれないし、
今だから言えることなのかもしれないし、
考えた人がいたが実現困難だったのかもしれない。
そしてゲームソフトだけでなく本も映画パッケージも音楽も、
他の耐久消費財もまったく同じく中古販売と戦い、
あるいは苦々しくも共存してきたのだと思う。
デジタルメディアは違法コピーとも戦わなければならなかっただろうけれど。
ソニーがPS向けソフトのディスク版の生産を終了する、
というニュースがあったけれど
https://www.famitsu.com/article/202607/80090
ゲームを小売りすることに関わってきた人たちには印象深いだろうけれど
大多数のユーザーにはさほど影響がないのもまた現実である。
今後はプレイステーションのゲームを遊ぶには
ソニーにお金を払ってダウンロードするしかなくなったわけだが
PCではSteamから買うのだしスマホはグーグルかアップルだし
本はAmazonとかだしと何が違うのか、ということだろう。
本書にある通り、ビデオゲームは高速で見た目も中身も成長させてきた。
ファミコンが1983年、プレイステーションが1994年。
対してニンテンドーBDSが2004年でWiiが2006年。Switchが2017年。
ファミコンの発売当初からプレイステーションまでと
WiiからSwitchまでは大して変わらない。中身はどうだかはともかく
見た目の進化は止まってはいないものの速度が落ちていることは間違いないが
オンラインアップデートもあってひとつの作品が長く遊ばれるようになり
正しい評価を受けやすくなったとも言えるだろう。
この記事でもディスってきたブロックチェーンゲームだって所詮は技術だから
目の前のお金に惑わされたないまともな製作者により
正しく活用させるのもいずれは自然な成り行きだと思う。
ゲームの歴史の次の章でどんなゲームの面白さを楽しむことができるのか。
いち消費者として購入費用と課金額程度のうっすい責任感で
楽しみに見守っていきたいと思う次第である。