『ゼルダの伝説 トワイライトプリンセス』

kodamatsukimi2006-12-21



 公式 http://www.nintendo.co.jp/wii/rzdj/index.html


・まだWiiを買っていないので、買えなかったのではないですよ買っていないのですよええ、
 GC版です。入手は公式サイトからの通販のみ。


・『ゼルダ』は昔からあるゲームです。
 昔からゲーム遊んでいるひとにとっては聞き慣れた名前。
 アクションゲームの『マリオ』と並び、その製作元である任天堂
 ゲーム機製造販売会社としてのうんぬんは置いて、
 ゲームソフト開発性能の高さを顕示するシリーズ。どれも同時代の他を突き放す出来。
 『ゼルダ』となれば公式サイトからの通販のみという壁すら障害と感じられない出来。


・『ゼルダ』を遊んでいると、どれもどこもとても出来過ぎであるのに
 偶然ではなく、わかっていて狙い通りに作っているように見えます。
 何もないところからデジタルデータで何でも作りだすゲームソフトは
 何がどうであれば良い、と言えるものは殆どない。しいて言うならロード時間くらい。
 何でも出来るから、といって好きなように作っても
 遊ばなければ楽しめないから誰も褒めてはくれないものであるのだ。
 質という基準で良し悪しの評価軸が曖昧。
 誰にも良いゲームとはどういうものか見たことない。


・しかしここでは、過去の蓄積はあるけれど、ここをどういうルールのゲームにすれば
 遊んで楽しくなるかが、皆正解であるように、遊んでいて感じられる。
 つまりどういうようにゲームを作れば良くなるのか
 わかっていて作られているように見える。
 私にはどういうゲームが良いのかはわからないから、見えるだけであるけれど。

・これを、狙って作れるように見えるところ。
 そこが『ゼルダ』を遊ぶと感じる、任天堂と『ゼルダの伝説』というゲームの
 本当に凄いところです。




・どういうゲームであるかと眺めると、ジャンルでいうならばアクションアドベンチャー
 謎解きをアクションで行うゲーム。
 舞台の上にお話が進行するとき発生する課題を、用意された仕掛けを解いていくことで
 クリアへ向かうアドベンチャーゲーム。頭を使います。
 解く過程は答えを幾つかの中から選ぶのではなく
 敵を剣振って倒したり、剣が効かないのならば弓打ったり、迷宮に施された仕掛けを
 爆破したり焼いたり破壊したりと腕を振るうアクションゲーム。連打連打。


・解くべく用意された仕掛け、問題は
 本当に遊び手によって解かれるべく用意された問題です。
 この仕掛けを作ったひとは何のためにどうやってこれを、とか
 なぜ必ず今この時だけ解けるようになっているのかは、問題ではない。
 良くも悪くも、とてもゲームらしい仕掛けの仕組み。
 ゲームは製作者によって、より良く遊ばれるため作られたものなのだという割り切り。
 もしこれがこうであったら、という仮想の現実というような方法とは違う、ゲームです。


・謎が解けずに行き詰る。仕掛けが解けない。奥へ進めない。アイテムが取れない。
 しかしここで、『メトロイド』とかでもそうなのですが
 任天堂に失策はない、とつぶやき
 間違っているのは答えにたどり着くべくほのめかされているヒントにも気付けない
 自分であり、このコントローラーを叩きつけたくなる苛立ちは己が愚かさゆえなのだ。
 という態度をとって取り繕う。

・なぜなら答えを見つけてみれば、それは確かに明らかに正しく、用意されているし
 他のゲームと違い、偶然そうなったのではなく
 作り手の想定通りにそうなっていた自分を必ず見ることが出来るからである。
 これが任天堂アドベンチャーゲーム、謎解きゲームの遊ばせ方として用意された
 正解であるのだとわかるから。


アドベンチャーゲームを好きではない、というのは
 この行き詰ったときの敗北感、お金を払って時間を割いて
 楽しむために遊んであげているのに苦しませる理不尽な娯楽道具への苛立ちにある。
 と想像するのですが、その際の理論武装として、
 とか普通はこういう理屈を浮かべる前にゲームを放り出しますけれども、
 答えが作り手の認めたものしか許されないのが納得いかない、という点が着目されます。
 なぜ選ばれし勇者である自分がこんなことも出来ないのか許されないのか
 なぜ目の前にいる相手に事件の犯人を聞かないのか聞いてはいけないのか、と。

・つまりゲームだから許せない。ゲームだから嫌だ。ゲームであることが邪魔だ。
 お話を没入して楽しむための阻害条件でしかないゲーム要素は不要であり
 つまりアドベンチャーゲームの選択肢など不要であり、ノベルゲームで良く
 いやノベルゲームですらなくノベルで良いのだ、というように。


・『ゼルダ』で模範的に用意されているアドベンチャーゲームという仕組み自体が
 あまりにもゲームでありすぎて、
 そうするとゲームという単語の意味はこの場合何か、となりますがそれは置いて、
 だからゲームであることは、この場合嫌で、アドベンチャーゲームは好きでないのだ、
 解けた時は楽しいけれど。解く前はわからないから苦しいのがわかっているし。

・ゲームとは、そういうのだけでなくSTGのように、頭を使うことなく
 来た敵倒すだけで、充分に楽しいものがあるのだからそれで良いのである。
 『ゼルダ』の出来がアドベンチャーゲームとして良く出来ていても、
 この際の良し悪しは、より多くのひとがほど良く頭を使うこと、ですが
 それでも遊ぶ気は起きないと。



・眺めると、謎解きの連なりで出来ているこのゲームの構成ですが
 見せ場においての剣を振るうアクションゲームである部分もまた、良い出来です。
 アクションゲームとして良いのではなく
 アクションアドベンチャーゲームのアクション要素として良い。

・例えば迷宮最深部に用意されたボス敵との一戦。
 単純に剣を振っているだけではなくて、そのダンジョンで用意されていた仕掛け、
 弓での攻撃とか爆弾での撹乱などを利用した倒し方を用いる必要がある仕組み。
 それは置かれた位置からは、問題集における達成度判定テストでありますが
 同時に達成度発揮舞台でもあります。ちまちま仕掛けをとくのでなく
 巨大な敵を、仕掛けを用いて豪快に倒す。


・アクションゲームというのは、操作が上手に出来るほど
 それがより良い結果に結びつくだけでなく
 そう出来るほど楽しく感じられるように出来ているのが良いものである、
 というように多くから見て取れますが
 そういう観点で行けば『ゼルダ』のアクションはアクションゲームのそれではない。
 やはり謎解きの連なりのひとつ、この敵の倒し方を見つけて実践しましょう、を
 アクションゲームのように、上手く操作できて楽しく見える思える効果設定の仕組みを
 そこに用いているものであるのです。


・なぜアクションアドベンチャーであるのか。製作動機どかそういう根源のところでなく
 できたもの遊んでさわった範囲から見えるところでは
 アクション要素、そういう見せ方のないアドベンチャーゲームよりも
 答えを正しく答え示す手段として、正しく操作することを
 アクションゲームのそれで見せているのだ、というように言えるのが
 『ゼルダ』のそれなのだ。と見える。

・『ゼルダ』が唯一にしてでも最初でもないアクションアドベンチャーゲームでありますが
 その発売時期における、見栄えという画面の見せかたが一級品であるという質ではなく
 それを、そう見えるものを、わかっていて置いているかどうか
 そうあるべきものだからそうして置かれているかどうかで、違う。

・もっともこれは結果から見た場合であるので
 アクションゲームにおけるお話の誘導性能に見られる結果と
 同じこととも言えますけれども。
 そのあたりは次回。




・本作『トワイライトプリンセス』、黄昏の姫君。黄昏ゼルダと呼びならすと違うのですが
 これは『ゼルダ』らしい『ゼルダ』であり
 『時のオカリナ』からの3Dダンジョンゼルダを正しく受け継いで欠点のない一品。
 を終えて一息ついてみますと
 『大神』がむしろ、いかに良く出来ていたのかが今更ながらわかります。
 以前書いた感想で(http://d.hatena.ne.jp/kodamatsukimi/20060607
 『ゼルダ』みたいなゲームだ、と繰り返しておりますけれども
 そう感じられただけ良い出来であったのだ、に今更ながらに気付くのです。


・では『トワイライトプリンセス』は同年に発売された『大神』に対し
 どこがどれほど抜きん出ていたのか、また逆に
 『大神』はどこが『ゼルダ』みたいといわれるだけ劣っていたのか。

・それは結局、ゲームに対する割り切りの差が現れているところにあります。
 『ゼルダ』はあまりにもゲームである。
 『大神』は『ゼルダ』ではなく、大神を操ることが楽しいゲームである、という差。
 『ゼルダ』が体現している正しく良く出来たアクションアドベンチャーの仕組みを
 それを表現製作するのではなく、それを使ってゲームを作った差であって
 その結果の出来不出来にはない。
 劣っているのは、ゲームであることに躊躇ためらいない『ゼルダ』の
 思い切り良すぎる割り切りを、『大神』は持てなかったところです。



・面白いゲームを求めてゲームを遊ぶのではなく
 この楽しいゲームよりもっと良いゲームを遊びたいから求めるのですが
 では面白いとは何か。
 好みというものがあってそれには差があり
 それで同じものに誰もが同じ楽しさを得られるわけではないから
 好みの差により面白さはそれぞれ違うのだ、とまず言える。
 では好みを排除して、なるべく多くのひとがより多く楽しめるものを良い、
 とする基準を置くとき、それはどのような傾向を示しているか。
 すなわちゲームの良し悪しとは何か。

・『大神』と『トワイライトプリンセス』のどちらがより良いか。
 どちらが良いと判断して、では自分以外にそれを求めるのに迷いないのはどちらか。


・優れたもの、より良いもの、好きなものが多くあることが
 自分を含めた誰にとっても良いことである、という理屈を並べるまでもなく
 自分が面白く感じられるゲームがより多くあるほうが良い。
 『大神』は『ゼルダ』みたいである。そう思います。
 けれど『ゼルダ』が素晴らしく正しく良く出来ていて、遊んでいて楽しく
 面白いゲームであると確信すると同時に
 『大神』もまた、『ゼルダ』を遊んでこそなお面白いゲームであるのだ。
 そう思うのであります。


・『トワイライトプリンセス』はGCの末尾にしてWiiの先頭を飾ることになったのですが
 GC版を遊んだ限りでは、『ゼルダ』らしい『ゼルダ』であるゲームです。
 40時間楽しめた。とても面白かった。
 さて次の『ゼルダ』はどうだ。次のゲームはどうだ。

任天堂に失策はない、かどうか未来はわかりませんけれども
 すくなくとも今回も、次の『ゼルダ』に多大の期待を持てる本作であった。
 というのが、今回の感想でございます。