『カルドセプト』と『アヴァロンの鍵』


・前回の続きでございます。
 今回は理屈こねくりまわし。いや今回も、か。



・『カルドセプト』がボードゲームであるのにテレビゲームであるのは
 細かい計算が必要なゲームルールの管理をゲーム機に代行させることで
 より複雑な決まりによるゲームが出来るからであります。


・テレビゲームがゲームであることの条件として、操作できること、があります。
 映画や小説の一場面、もしこうだったらどうなるのか、というシミュレートとか
 高級車で外国の街を走り回るシミュレーターとしてとか。
 その舞台に用意された登場人物が演じるお話に、介入するだけでなく
 一員となって楽しめるゲーム内世界シミュレート。仮想現実。

・そうでなく、もちろんそうであっても良いのだけれど
 この条件下でどういう対応を取るか、どう操作するか、を比べ競い合うだけも
 操作できることによるゲームの楽しさです。
 シミュレーションゲームと呼ばれるジャンルでも
 好きに対象をいじることで、どうなるかの結果とそうする過程を楽しむことと同時に
 より効率良く、を突き詰める手段の過程を比べて勝利敗北の結果を楽しむこともある。


ボードゲームにおけるゲームも、前者をもちろんとりいれつつ後者が主体となる。
 とはいえ一概には言えません。
 テーブルトークRPGも競い合う要素による勝者敗者を作りだす。

テレビゲーム機にできることは、面倒な数値計算を公平に行う管理者の他に
 競い合う相手も勤められるということも言えましょう。
 なるほど確かにルールが複雑になるほど
 一本調子で融通利かないゲーム機のあやつりは、個性に欠けますが
 しかしテレビゲームの最初から多く、現在でも残っている1人用ゲームモードに
 楽しさが減じているわけではない。

・アクションやSTGなど、操作を競い合う相手がゲームルール管理者でも
 楽しいゲームに比べ、ひるがえって対人対戦と比較するときその魅力は
 その場の雰囲気や会話にだけ負うのでなく、個性の違いであると言えるのです。
 ボードゲームは対人対戦をした方が楽しい、というのは
 相手を務めるゲーム機が強いからでも弱いからでもなく
 いつも同じ強さで、また常に効率良くを突き詰める方にあやつられるから。
 もしこうだったらどうなるか、の答えは常に同じ。
 だから対人対戦の方が楽しく、そして同時に
 だからこそ、そうでないものもまた楽しくあると言えます。



・『カルドセプト』が良く出来ている、と前回書いたのを再度並べますと
 トレーディングカードの要素で1人用でも楽しめるゲームルールとなっている、
 ということです。

・誰かと競い合う楽しさは、最善手を積み上げて勝利にいたる過程にあります。
 相手の手に合わせ変わる状況で。ゲーム機相手ならそれがいつも同じになるだけで同じ。
 競った結果勝つことに誰もが喜びを感じるとするならば、正解はひとつしかない。

・しかし、では、神のものではないサイコロを用い
 カードゲームでも、次に何が引かれるかわからないようにするのはなぜか。
 運の要素を公正な競争ルールに含ませる場合もあるのはなぜか。
 それは正解がひとつしかないから。
 効率が追求できるゲームはそういうものだからを、逆から示している。
 別の言い方ならば
 正解を知っているひとに知らないひとが常に負けるのは面白くないから。

・それがゲーム機、常に正しい答えしか導けないよう作られている計算機相手のゲーム。
 カードを集めることによる成長育成戦力強化という要素は
 そのゲーム世界に楽しむことの内で
 その世界ではデータの数値として表現されているものを
 会話とか戦闘による経験値取得ではない婉曲な手段の、その世界での遊び。
 ゲーム機でない、その外に実際あるトレーディングカードゲームという仕組みは
 ゲーム機の中に数値のあるなし高い低いでも、表現されて楽しめるということだ。



・ここで『カルドセプト』に『アヴァロンの鍵』を置いて比較です。

 公式 http://www.a-key.jp/

・このゲームはアーケードゲーム、3分\100で遊ばせる仕組みの
 ゲームセンターに置かれる用のゲームであります。
 ボードゲームです。

・『桃鉄』ことハドソンの『桃太郎電鉄』のように
 マップ上に決められた目的値をぐるぐるまわり
 合わせて先に3回目的地にたどり着いたひとの勝ち。
 デッキを組んで、山から手番ごとに手札を1枚引くのは『カルドセプト』と同じ。
 違うのは、サイコロがなく、移動もカードによって行うこと。
 手札に移動用のカードがなければ手番がまわってきても1歩も動けない。
 4人同時に遊べて、前回の目的地へ最初にたどり着いたひとを残りの3人が妨害。
 止まったマス目にカードを配置して、戦い負けたほうは目的地から遠くへ飛ばされる。

・1回\300、2回連続\500、コンティニュー\200。
 勝利した場合、戦闘に負け続けた場合、いつまでも目的値にたどり着けない場合などに
 ゲームオーバー。3分\100、1ゲーム10分遊べる場合もありない場合もあり。

・長くても10分でゲームを終了させなければならないボードゲーム
 そうして見ると、そのわかりにくい仕組みもいろいろ面白いです。
 欠点はオンライン対戦がなく店内対戦しかできないこと。
 『DOC』や『WCCF』は育成シミュレーションゲームだからそれでも良いのだけれども。


・『アヴァロンの鍵』は『カルドセプト』に良く似ています。
 テレビゲームであるボードゲームトレーディングカードゲームであるビデオゲーム
 『カルドセプト』ではデータでしかない、ギャラリーモードで画面越しに眺めるしか
 長きに渡って使用した道具であるカードへの愛着を示せなかったものが、手元にある。
 1戦ごとに勝っても負けても1枚得られるカードでデッキを組み
 自身の戦力を強化していくというトレーディングカードゲーム
 そう何しろゲーム内データではトレードできませんから。
 もちろん『ポケモン』のように交換は出来ますが。
 
・なぜそういう要素を入れる必要があるのか。
 育成要素は1人用の楽しさです。『カルドセプト』でも『アヴァロンの鍵』でも。
 そうすると楽しい。いろいろのカードを持っていて使い分けると楽しいから、
 だけではなく、対戦で勝つために強くなることが必要だからでもある。

・なぜ必要なのか。
 最初からデッキを自由に組めるようにしてなぜいけないのか。
 なぜ対戦するためにカードを収集しなけらばならないのか。
 囲碁将棋のようにまったく同じ条件から始めて競えばよいのではないか。
 いやそうすると理屈を突き詰めれば3目並べと同じく先手必勝となるから駄目だ、
 というのではもちろんない。トランプも麻雀も、まったく同じ条件。
 なぜトレーディングカードゲームでは最初の戦力が異なっているのか。

・それに疑問を感じることは多くはないです。
 多くのゲームで、相手と能力値が露骨に数値の大小で違っていることは少なくとも
 違うことは当たり前だから。ではそれはなぜか。


・『アヴァロンの鍵』はサイコロがなく、デッキからターンごとに引かれる手札の中で
 最善の手を打つだけのゲーム。けれど次に引かれるカードが何かは予想できない。
 まわるマップは『カルドセプト』と同じく事前にわかっているけれど
 先の想定をしても、行動する手段が限られていてはどうしようもない。
 その場その場で、先々が少しでも自分に有利になるよう転がってくれることを願って
 手を打っておく事しか出来ない。

・『カルドセプト』では、総資産の大小で勝敗が決まるから、極端に言えば
 競い合う相手とまったくお金のやり取りをしなくとも
 投資と周回ごとの収入だけで勝利することができる。自身の計画内だけで勝てる。
 目的地に対し一番早くたどり着くだけが目的である『アヴァロンの鍵』は
 麻雀のように相手の手札を読むことが重要で、そこから移動できる範囲を想定して
 追っては待ち伏せて邪魔をする。1対3であることもあり逃げ続けるのは難しい。
 が、自身が最良のカードを引き続け、できる最善の手を打ち続けても
 どうにもならないこともありえる。



・ゲームにおける運の要素は、技術の巧遅を眺めるだけではないゲームも見たいから
 あるのですけれども 
 その割合、遊び手全員総計におけるゲームの楽しさを最大に得るためには
 どのくらいが適正だろうか、は、そのゲームルールによりけりであるという以上に
 容易に言えるものではない。
 なぜなら「運」とは、場合によって異なることを言うからであります。

・場合によって違う方が面白いのだろうか。遊んでいて楽しいだろうか。
 どちらでもありどちらでもあったほうが楽しい、と確かに言える。
 しかしゲームのルールはひとつでなければいけない。
 そして正解がなければいけない。

・操作できることがゲームの楽しさであり、それはすなわち
 上手く操作できるようになることがゲームの楽しさであるようにあるから
 そうする過程の結果がより良くなるような決まりでなければならない。
 しかしそれは絶対ではなく、なるべきなるべくなのであるとも言える。


・移動も兼ねるだけ『アヴァロンの鍵』のデッキ構成は
 『カルドセプト』よりも勝利するために、より重要であるように見えます。
 カードを全て使いっても勝負が付かず、デッキが一周してしまった場合でなければ
 相手の戦力全貌はわからないのは両者共通であるけれど
 『カルドセプト』で相手手札はおりおり見ることができる。
 『アヴァロンの鍵』では大まかな種類しかわからない。
 だからこそ麻雀により近いゲームルールは『アヴァロンの鍵』であると言えて
 『カルドセプト』はサイコロ次第の分、相手の手を読む要素が薄い分だけ
 運の要素が大きいように見える。
 次に引かれるカードの種類は共通して不確定。サイコロの不確定さは一方のみ。

・けれど、運頼りが明らかに他方より大きい分だけ駄目である仕組みなのではない。
 『アヴァロンの鍵』は相手の邪魔をすることしかできないのに対して
 『カルドセプト』は自身への投資という手段で
 勝利へ近づくためのもうひとつの手段が用意されているからです。
 いつどこにどれだけの投資をしてどのカードにその土地を守らせるか。
 そしてそれは自身への助けだけではなく相手への邪魔にもなる。
 移動には用いないからといって、カードにかかる比重デッキ構成の重要さは
 『アヴァロンの鍵』に劣ることはない。



・ひとつの決まりの元で競い合うゲームにおいて
 自身は決められた中で自由に操作することができるゲームにおいて
 その優劣をつけ、勝ち負けを決めるのは
 公正公平でなければならないように思えるけれど
 そうではなく、運という不確定な要素を含ませるゲームは多い。

・しかし良く出来たゲームは、それだけで勝敗が決まるようにはしない。
 相手の勝つための手段を予想する手段を様々に持たせることや
 事前にあるていどわかる状況に合わせて戦力を調整する手段などの
 比重を調整することで
 いつも違う様相を見せていつまでも楽しませつつ
 正解を用意し、それに近づけば勝利を得られることも確約していつまでも楽しませる。

・それは矛盾していない。
 遊び手は完璧でなく、ゲームルールも完璧でないから。
 そしてそこに運も絡ませることもできる。しかし、
 ゲームの構造は正解に近づきがたいようにだけでなく
 運を含むからこそ完璧でなく、無駄が生じて同じルールでも質の高低ができる。

・それがなぜか。何が正しいのかを、いろいろに比べて楽しむこと、
 それもゲームの面白さであるけれど
 作る方は大変であります。遊ぶ方はただ楽しいものを楽しめば良いのに対し。
 だからゲームは娯楽であり、楽しいほうが正しく優れているのである。