小説のように良くできた正しいゲームについて


・『デルフィニア戦記』(ISBN:4122041473)をゲームで表現すると
 『ロマサガ』のような老若男女皆おめめキラキラ8頭身の美形キャラクター陣が
 さわやかに『ファイアーエムブレム』をするようなお話。
 文章や全体構成は、ライトノベルだから、といっても優れている方ではないけれど
 キャラクターの魅力や、筋立ての運びは一流の出来。
 マンガでいうなら『ドラゴンボール』のような名作です。


・これ本当に『エムブレム』のようなお話なのである。
 全過程のそれぞれを、頭の中で『エムブレム』の戦場画面や
 あの任天堂らしくないキャラクターの会話シーンで完全再現即できます。
 本格ファンタジーでは決してない、中世ヨーロッパ風。
 国を追われた流浪の王様を助け、協力してくれる仲間を順次集めて政権を取り戻す。

・著者は先の展開を決めないで書いており、その場の勢いで理想的にお話が進む。
 しかし、とても良くできているので
 だからこそ、全18巻を1度読み出したら止まらない勢いであり
 大勝利で美しく終わる結末を見て実に深く満足して
 すぐに気持ち良く全て忘れられるようなお話であるのですが
 この感じは、『エムブレム』シリーズのどれかひとつ遊び終えるのと
 どちらが面白いだろうか。


・今回は、小説『デルフィニア戦記』とゲーム『ファイアーエムブレム』の
 どちらが面白いか、という比べようがなく結論がないことについて
 思ったことを書くのであります。
 Wiiでこのほど出た『エムブレム』新作は遊んでいないのですけれど。
 ゲーマーなら小説読んでないでゲームをするべきだ、とは言わない方向でひとつ。

 



・『エムブレム』の、他のSRPGと隔する特徴は
 戦闘中に倒された仲間を復活させる手段が限られていて
 ゆえに全員生存、敵全滅という際立った結果を全ての戦いで残さなければならない、
 という仕組みであります。

・これは『デルフィニア』に比べて嫌。面倒。

GBA版辺りからの近作において
 パーティー経験値導入や、成長させたのに使いづらいキャラクターを減らすことで
 必要さよりも手間が大き過ぎた経験値稼ぎを
 従来より軽減しているのは評価できますけれども
 それでもやはり、前衛が壁、後衛が補助、という形ではなく
 敵味方がごちゃ混ぜに入り乱れた危険と紙一重の戦場でありながら
 圧倒的勝利かつ全員均等効率の敵処理、という
 不自然というと自然さが必要なわけではないので面倒な、
 無駄な作業が残っているのが嫌。


・なぜキャラクターを全員生存させなければならないのか、といいますと
 それはこれが「マルチエンディング、マルチストーリー」のゲームだから。横文字。
 遊んだ過程の結果で、先行きの過程やお話の結末が異なるゲーム。
 最高の結末を見るためには、小説のように美しい完璧な勝利をしなければならない。

・そしてゲームでは、自ら奇跡の実現ができるのである。
 失敗したらリセット。未来見た上で知識を残したまま過去に戻ってやり直し可能。
 それがゲームというものなのである。 


・それはそれで良いのです。
 けれどそのために、正解選択肢を選ぶためには
 ゲームの上手さとか知識ではなく、手間暇時間を求められるのが嫌なのです。

・私が『エムブレム』を遊ぶときは、最初からベストエンドなど目指さず
 弱いキャラクターにさっさとご退場いただき
 初めから強い人達だけで損害を出しつつも勝ち進む。
 次がどうなるか、どのキャラクターがどれだけ強くなるかは
 ゲームの中にいる方々は知らないはずなのだからこれで良いのである。
 と理屈を立てるのである。

・そしてゲームではそれも許される。
 最上でなくともエンディングにはたどり着ける。クリアできる。
 そこがゲームの良いところだ。
 というのがいつもの結論なのですが、今回はあえてひねる。


・『デルフィニア』はどうしたって
 最期まで味方は全員生存したまま美しく勝利を飾れるのであり
 その過程、その途中のどこをとってもきちんと楽しく読めるよう書かれている。
 『エムブレム』のように「無駄な作業」をしなくとも
 最高のエンディングを見てクリアできる。

・もしかすると、これで良いのでは。この方が良いのではないだろうか。
 手間隙かけず、攻略に悩むことなく楽しく敵を蹴散らして
 それで最上の結末を見られるのが1番良いのではなかろうか。
 工夫して正解を選ばなければ正しくないのは、正しいのだろうか。





・さて、ここでまったく別の話へ飛びます。

・アーケード『三国志大戦』に対して「赤ボタンゲー」という言い方があります。
 「赤ボタン」とは、筐体についている計略発動ボタンのこと。
 ガンSTGバレットタイムとかRCGのニトロとかSTGのボムとかに類するそれで
 ボタンを押したら即時発動の、1ゲームに5回程度使える必殺技であります。
 この効果が強力すぎる。対戦の戦況帰趨に対し影響が強すぎる。
 その批判の言葉が「赤ボタンゲー」という揶揄する言いかた。

・それに対する言葉が「白兵」。
 計略を使わず赤ボタンに頼らずに、カードを操作する技術の高低を指して
 アクションゲームなのだから、操作の上手さこそが
 対戦の勝利を決める要素の割合に対し、より重きを置くようにあるべし。
 としてある対の言葉。

・もちろん総論賛成意見を採れば
 どちらも対戦者お互いに対して平等に用意されている仕組みなのだから
 両方を十全に使いこなすことこそが優れている、に帰着すること間違いない。
 「赤ボタン」をより優位な状況で押せるように持っていくのが
 「白兵」の技術なのだし
 それをさせない総合的な立ち回りこそもっとも重要であるのだと。


・ただ、カードを組み合わせ、デッキを組んで対戦するアクションゲームであるため
 対戦格闘のようにどのキャラクターを選んでも有利不利が均されてある状況ではなく
 デッキ相性に差があって、操作技術を持ってしても覆しがたい相手とも
 戦わなけらばならない、といった状況もありえます。

・ゆえにアクションゲームであるのに、操作が下手な、
 赤ボタンを叩いているだけの相手に負けてしまうことも起こりうる。
 これはおかしい。平等ではない。バランスが悪い。
 操作の巧遅が強くでるゲーム、「白兵」重視、上手い方が勝つゲームであるべきだ。

・いやそうではない。
 これはアクションゲームであるけれどトレーディングカードゲームでもある。
 対戦格闘でいうならばその通り、
 キャラクターの性能差で勝ち負けが着くようではいけないが
 けれど、自分でカードを組み合わせてデッキを組む自由が用意されているのだから
 どんな組み合わせのデッキにも対処できるよう
 自身のデッキを構築、機能させることが
 より広くこのゲームを見たときの性能差に対する見方であるべきだ。


・しかしそれでも「赤ボタンゲーム」という呼び名は発生するのです。
 なぜなら、ゲームとしてバランスが取れているならば、
 どんなデッキにも勝てるデッキが存在してはならないのだから。
 白兵技術を押し流すデッキ間の有利不利がわずかでもあれば
 それが赤ボタンゲームである、という論拠として浮かび上がってくる。
 技術の巧遅よりも目に明らかであるために。

・アーケードの現行可動ver.は、可動開始から2年を経ただけあってか
 多数の新規カードを追加したにもかかわらず
 過去に比べても、バランスが取れたものとなっています。
 それでも計略の性能、カード性能の差が、アクションゲームであるのに
 負けた理由、ゲームバランスの悪さを責める声となることに
 なくなることはない。



・遡って言うならば、なぜ「赤ボタンゲーム」ではいけないのだろうか。
 逆に言えば、なぜトレーディングカードの要素を加えて
 使用キャラクター間に性能差を持たせなければならないのだろうか。

・それに関して以下の例をひとつ。
 ぶらっくぼっくす メタスラスレでのやり取り http://kuroihako.blog6.fc2.com/blog-entry-421.html

・アクションゲームは操作が上手いほど良い結果を残せる方が正しいが
 下手では楽しめないのであってもいけないから。
 何が正しい、正しくないという言い方では見えにくいですが
 意識してメーカー側に立ち、商売として見るのでなくとも
 遊び手として、この面白いゲームをひとに薦めようと思うときに
 感じられるそのままの事です。


・上手いひとも下手なひとも楽しめるゲームとはどのようなものなのだろうか。
 その答えのひとつには、上手い下手だけでは結果が決まらないゲームであること。
 知っているかどうかだけでは決まらないものであることだ。
 また逆に、操作が上手くなくとも知っていれば有利になるものもそうだ、と言える。
 時間をかけて、手間隙かければ有利になる要素を入れれば良い。
 それを敷衍するならば、それぞれ各人の得意とする分野を
 複合兼ね備えた複雑な仕組みのゲームであるほど多くのひとが楽しめることになる。

・さらにその逆が言えます。
 つまり、何でもできる仕組みから制限していくこと。
 自機性能を自由に変えることが出来るのならば
 上手いひとは相手に合わせて自身を弱くすれば良い。
 計算機相手でも、自身の取れる行動に制約をかけることで
 すなわち自身で仕組みを定めることで、知っていても楽しむことができる。


・ゲームは上手ければ上手いなりに、そうでなくともまた別に
 誰もが楽しめるものが、正しい良いものである。
 多くの、いや全てのゲームは、そこが小説に劣っているのである。
 牽強付会、このように言えます。

・アクションゲームは、操作の巧遅が楽しめるかどうかに強く関わってしまう。
 長所でも短所でもある特徴です。そういうものなのです。
 だからこそアクションゲームというだけではいけなくなっているのでありましょう。 



・少し本題に戻します。
 ではアクションゲームではなく『エムブレム』のようなSRPGにおいて
 誰もが楽しめる良いゲームバランス、良い仕組みとはどのようなものか。


・ここでSRPGの例として「不思議のダンジョン」を挙げましょう。
 この種、いわゆるローグライクゲームは、分類するとすればSRPGなのであります。 

・怪しい証明。
 まずその近似を挙げるならば、カードゲーム。
 任意に配られる札と自分の持っている札を見比べ
 その場面ごとにどの手段を取ることがもっとも最良か、の判断を繰り返すゲーム。
 それが「不思議のダンジョン」。そしてカードゲーム。

・次に「不思議のダンジョン」がカードゲームでないところは
 相手をする敵がコンピューターであり、勝敗を決める場数が長いこと。
 敵方が取りうる手段は、自分のそれに対してとても数限られている。
 これは、個体数や単体性能差を跳ね返してこちら有利に傾いていて
 また、取りうる手段の単調さゆえに
 多様さを持たせるため複数回積算の場を要するため
 それぞれの勝負は勝って当たり前の調整となっているものの
 何百何千回と勝ち続けていく内に生じる些細な誤り、そしてその積み重ねの負債が
 敵の仕掛けではなく自身を押しつぶして結果敗北していく、という仕組み。

・この負け方が特徴的であり、独特の魅力。
 対人戦では出せない、計算機が相手だからこその妙、であるといえましょう。


・そしてそれがSRPGである。
 対人体専用に整備されたルールでないボードゲームを、
 主としてテレビゲームではSRPGと呼ぶ。
 計算機は間抜けである。だから間違わなければ必ず勝てるようになっている。
 しかしそれでも必ず勝てるわけではない。
 ひとは間抜けである。計算機と違い必ずいつか間違えるようになっているのだ。
 
SRPGが正しく良くできている、誰もが遊ぶことができるところは
 常に勝ち続けているゆえに、負ける前に自分を止める事が
 唯一の結果として勝利を得る方法である所。
 誰もが楽しめる。負けているのではなく勝っているのだから。


・さて、では、対人対戦用に整備されたSRPGとはどのようなものでありましょうか。
 「不思議のダンジョン」を対戦用にしてみたらどうか。
 操作キャラクター間に性能差はないのだから、有利に立つには
 相手がどのような手段を取っても対処できるよう、自身の手札を充実させることだ。
 それすなわちトレーディングカードゲームである。

・どの手札が自身の下に来るかは運。しかし
 それをどのように組み合わせて
 どの機会に活用するかの多様な判断は技術の差によるものであり
 勝敗を決める要素の内に、ある程度の運は絡むけれども
 計算機相手と敗北条件が違うので1戦が短いゆえに何度も繰り返すことで
 その幅は薄めることができる仕組みである。

・結局結果を決めるのは技術の差。それが対人対戦SRPG
 1人用SRPGとは、同じ仕組みなのに、まったく違うゲームになる。
 それは正解がどちらにもわからないからゆえ。
 それがひと相手だからこその妙、独自の魅力なのであります。


・対戦用SRPGと、対戦用アクション、
 そしてそれぞれのそうでないものと比べてみると
 誰もが楽しめるかどうか、という点、対戦ゲームは片方が負けている点で
 失格であるように見えます。
 しかしそれは結果の平等。
 同じ条件で競い合う機会の平等が保障されているならば、勝敗は技術の差である。
 楽しめるかどうかは自分次第であり
 どちらにも、つまり誰にも楽しめる機会は保障されている。

・正しい良いゲーム、誰もが楽しめるゲームとは何か。
 『デルフィニア』は「楽」で、つまり「楽しく」
 『エムブレム』は「面倒」、つまり「楽しくない」と感じるのはなぜか。




・さてここでようやく本題に戻ります。


・お話の結末は最高のものである方がもちろん良いのだから
 ゲームでは、そこへたどり着くため、提示された課題を解こうとするのだけれど
 その解く過程が、ゲームを遊ぶということのほとんど全てなのだから
 「無駄な作業」と感じられることはおかしい。
 無駄であるはずがない。それこそがゲームを遊んでいることなのだ。

・無駄と感じているということは、楽しめていないということ。
 なぜ遊んでいるはずなのに、楽しくもないことをしているのかといえば
 その先にある、より良い結果に向けての努力なのである。
 遊びにも努力が必要。それはその結果がどうでも良いものではないからだ。


・ゲームのエンディングは、それまでの過程による結果であるけれど
 ゲームを楽しむ過程のひとつでもある。
 結果も良くなければ遊んで楽しかったと言えないから。

・結末が複数あるお話を乗せたゲームでは
 良い結末にたどり着けなかった結果、という無駄が発生する。
 これが『エムブレム』に感じる無駄。
 勝つために経験値を稼ぐ過程は、ある結末に対して無駄ではない。
 しかし、もうひとつ別の結末に対しては無駄な作業。
 通して『エムブレム』というゲームを遊んだ結果を見れば
 これは必ず無駄な作業が付いて回るゲーム、ということになるのである。
 小説である『デルフィニア』のように、著者が正解を選んでくれず
 必ず正解を、努力を無にしない勝利を選択できるとは限らないのだから。



・『エムブレム』は、全員生存で勝利しなくとも、結末までたどり着ける。
 むしろその方が楽に出来ている。
 『ソニック』で、ダッシュしない方が安全にゴールへたどり着けるように。

・それは計算機相手のゲームにおいて
 カードゲームのように「不思議のダンジョン」のように、明快な仕組みであり
 完成されて正しいといえるゲームであるが
 けれど無駄があるのではないか。


・遊び手が目指すのは最高のエンディングである。
 しかしそこに無条件にたどり着けるのでは最上である価値がない。
 課題に正解することで分岐する構造、複数の過程を持つお話であれば
 相対的に最上であるという価値が生まれ
 そこへたどりついた時の喜びがその積み重ねた過程も相まって
 大きく感じられるはずだ、という仕組みである。

・しかし、アドベンチャーゲームにおいて明らかなように
 複数に分かれたそれぞれの結末、そして正しい結末も含めたの全てが、
 結末でなくゲームを遊ぶ過程の内なのである。
 小説という形でなくとも、基本設定となる「世界観」があって
 その上で展開させる創作の全てが、その遊びの内なのだ。

・ゲームの目的は、ゲームを遊んで楽しみたいことは
 最高の結果を得ることではなく、その過程を楽しむことである。
 優れたゲームとは、誰もがそれを楽しめるものである。
 しかしならば、全てを楽しめないゲームという仕組みは
 例えば小説に対して正しくないのではないだろうか。
 




・以上。
 どちらが正しいか。最初に書いたように、
 もちろん絶対の正しさは多分絶対あるとは言えない。
 のであるからつまり
 どちらともいえない。正しく書くならばこうなります。


・例えば、もしSRPGが初見で容易に解けるほど簡単だったらどうだろうか。
 『デルフィニア戦記』を誰もが読み通せるように
 『ファイアーエムブレム』を誰もが完璧にクリア出来ようだったらどうか。
 そのほうが正しいのではないか。より多くのひとが楽しめるのではないか。
 より様々な過程を楽しむことが出来るのではないか。
 それがゲームであるべきなのではないだろうか。

・と思ったのである。
 しかし答えのひとつは既に出ているのだ。
 例えば『サクラ大戦』。


・『デルフィニア戦記』は面白い。
 けれど誰もが楽しめるわけではない。読み通せはしても楽しめるとは限らない。
 小説のどれもがそうであるように
 ゲームも『ファイアーエムブレム』もどれもまた、そうである。
 面白さや楽しさの評価軸に絶対は多分絶対ない。
 だからこそ面白いのである。