難易度という山を登る


・ゲームの難しさはいろいろです。
 ひとによっても感じ方は違います。
 最適の、誰もが楽しめる難易度、そんなものが本当にあるのだろうか。
 麓から見えない頂点の世界を仰ぎ見ても遠く霞んで見えません。


・何度ものぼって、のぼり方を知っていればより容易。
 もとから体力があれば、難所もそれに任せて踏破してショートカットもできたりします。
 アクション、音感、反応速度。好きか嫌いか興味のあるなし要素はいろいろ。

・先が見えない山を登るにあたり、何よりわからないのが自分の実力。
 自分はどれくらいゲームがうまくて、この山を登るのに充分なのか。
 高さがわからない上に自分の実力も解らない。


・難しさを感じるとき、それは自分の力が足りないのかゲームのほうが悪いのか。
 難しいからクリアできないのか自分の苦労が足りないのか。
 
・それはどちらでもあるしどちらともいえない。
 苦労しなければならないものが悪いわけではない、それだけ喜びも大きいのだし。
 苦労せずに済むものが悪いわけでもない、それだって気持ちよいのだし。



・ゲームにはルールがあり、それに挑戦しているのだから答えがあるはず。
 RPGにもSTGにも対戦格闘にもボードゲームにもじゃんけんにも
 競うということに、「必ず」はなくとも、「最適」がある。
 けれどその答え、方法、やりかた、登る道順はもちろんひとつとは限らない。
 ひとつよりたくさんあったほうが良い。何度も楽しめるという価値観においてのみは。


・ゲームに面白さを感じるとき。
 それは答えを見つけたと思うときでもあるし、それを探す過程にもあるし
 それだけでなく、知っていて労せず頂上に立ってあたりを見回すときにもまた、ある。

・だから山は高くなくとも良い。ゲームは難しくなくとも良い。
 高い方が達成感があり、登るのは難い。だから高い山もあっても良い。
 登りきれなくとも、ただ途中まで登っただけで自画自賛しても満足できるのだから。

・それに山は一生かけても絶対に味わいつくせないほどたくさんあるのだし。
 必要なのは自分の登る力にあった山を選ぶこと。
 それこそが難しい。
 面白いかどうか楽しめるかどうか、
 ことの本質、ゲームの質だけでなく自分の実力にもある。
 それはそういうものなのだ。何もかもきっとそうなのだ。


・誰にも最適に楽しめる難しさはない。ただ自分にとってその時その場で最適がある。
 小学生ならそれなりの。年齢に関係なくそれなりの。

・けれど誰もが楽しめるゲームもある。入り口は広く、中は高く奥深く。
 そのどこで諦めても、その過程で満足できるのが優れたゲーム。
 マニアは最高最適を夢見、けれど入り口を除いて、理解していなくとも楽しめるもの。
 自分の到達できた位置に価値があるのでない。それに満足を与えられるかどうか。 


・ゲームを遊ぶことは面白いものを楽しむこと。
 登りたいのだから。
 楽しみたいのだから。
 頂上から眺めるだけでなく
 登ること、ただ画面の中にもうひとりの自分を操ること、それ自体を。
 それも現実のひとつ。そこに価値を見出せる。