ゲームオーバーフロー

kodamatsukimi2007-04-30



・観賞用、保存用、布教用。というわけではないけれど
 なぜか『三国志大戦DS』が3本あったりする。なくしたのである。
 中身をなくしてしまったのである。
 いくらDSカードが小さいと言え、本体なくすとはゲーマーの風上にも置けぬ振舞い。
 いやいや最初から、流れよりかなり外して放置済みではありますけれど。


・それにしてもしかし、なくしたからといって、簡単に代えを買ってくるあたり大人。
 大人の財力である。ゲームは子供のおもちゃだから安いのであって
 大人が大人買いすることほど駄目なものはない。
 かつての、おまけつきお菓子を買い占め抜いて中身はゴミ箱直行たる例がごとき
 自身子供心に激しく憎んだ行為を今再びわが身が実践。うぬぬ駄目。
 中身いらない、お金はないけどおまけは欲しい、という踊りたいけれど踊れずいた
 子供であったことは駄目でない。まあ普通であります。

・しかしけれどことゲームは、大量複写生産可能なデジタルメディアであるからし
 いらなくなったとゴミに捨てなければ良いのかもしれないか。
 ああいや、なくしたということはそうしているに同じことであり
 そうつまり、我々の親御さんがファミコンソフトを処分する当時、
 中古ゲーム屋などなかったことから明らかであるように。
 ええと話がずれた。



・おこづかいをやっとで貯めて、ようやく買っていた頃と違い
 なんとなくで買い、そこそこに遊んで放り出してばかりいる大人な今は
 良い、と言えるだろうか。いや言えない。と言いたいところだがそうでもない。
 なぜなら、両者に面白いゲームを遊びたい気持ちは等価であり
 違いは唯、自由にできるお金と時間の多寡にあるゆえに。という大人の常套句である。

・お、自分今大人側だったかも。いつのまにやら大人かも。
 ああ大人だったんだ、のだろうか、と大人は思うもののようである。
 と確認してみたくなるあたりそうでないと思ってみたくある。


・そんなわけでゲームを昔と比べて沢山買っているのだけれども
 自分など少ない方であるとも思ってもおります。謙虚謙遜の美徳でなく
 ネットでその実態を発見見聞することできるゲームマニアな方々に比べて明確明瞭、
 この程度がゲーマー名乗るなどとは笑止千万片腹痛しと
 言われたりするかもしれない程度にそれほど多くなく、つまり少ない。

・右上の小さい画像は今すぐ引っ張り出せる分の半分くらいだけれど
 この程度、全然少ないのである。
 何しろ普段しきりとひっしに忙しい振りしている社会人のひとりのようでありながら
 ここに並んでいる分など、大概遊び済みであるくらいであるからして。
 ゲームを遊ぶ、のではなく
 ゲームで遊ぶ、境地はまだまだ、遠い世界の果てに違いない。


・しかしそれでも悩ましい。いったいどこに置いたものか。
 本に比べてゲームは数段場所を取らず
 単位容積あたりの楽しめる時間量も明らかに多いはずなのだけれど
 塵でさえ掃除機の中で山となっているひとの家にあるのだからし
 買ってきて、出て行くことがない以上、それは減るはずがないのである。
 ううむ真理。

・どうせ一度遊び終えたらそのほとんどは遊び返したりしないのだし
 それなりお値段で買い取ってくれるところもあるのだから減らせばいいはずだ。
 だけど減らない。
 子供のおもちゃを買う程度のお金はあっても時間はないから、ではなく
 やはり手放すのが惜しいから、いつでも遊べる場所にあることが大切だからである。
 結局として遊ばないとはわかっていても。


・凄くとても無駄である。
 ゲームをなくして同じものを買ってきたり、間違えて同じゲームを買ってきたり
 買って遊んだことを忘れていたりするくらいだから間違いなく無駄だ。
 何しろ買って遊んだ覚えがあるのに、持っていないゲームが沢山あるのである。
 ますますそういうやつの、このゲームはどうこうなぞと言うことに価値などない。
 それ以前にゲームに限らず、頭の容積からは検分できない、
 中身の密度とか程度を疑う事態ではあるなり。である。
 振ってみると良い音がするかも。



・そうして今日も、頭の中でこそ減っているものの実際減らないのだから増えるだけで
 ゲームには狭い部屋をますます狭くすべく邁進させている。
 狭い部屋を広げるべくは、そこに住んでいるひとが邁進していないので物理的限界。


・それで結局、とどのつまりこの事態を如何せんか、と今回の結論をいうならば
 ゲームでも本でも、見えるもの聞こえるもの、食べたもの触ったもの、
 毎日の暮らしの中で感じたり思ったりしたことのほとんどは
 忘れてしまうということだ。

・見れば思い出す。遊べば手が勝手に動いてそのゲームを楽しめる。
 つまり忘れてはいない。けれど、
 思い出さなければ忘れていることは、思い出さなければ忘れていられるのであり
 思い出せなければ忘れてしまえているのだ。
 ならば逆に、なぜ覚えていなければいけないのか。
 なぜかは覚えていなくとも、楽しんで、面白かったと感じたことを
 覚えていなければいけないのはなぜか。


・それが結局、手元に置いておきたいとそうでない本やゲームとの間にある境。
 全てはいつか終わると多くの見聞から仮定して
 けれどそれを忘れないでいることはできない。
 得られる情報量からすればそのほとんどは忘れてしまえるからこそ
 覚えておきたいものに何か媒体が必要なのだ。

・ゲームタイトルだけ見てそのゲームについて何時間も話せるとしても
 それは思い出せる、覚えていることでしかない。
 思い出せず忘れていることを忘れていたくないために、
 そのゲームを覚えておきたいということが
 そのゲームの価値であるとしたくないために。
 

・だからゲームは売れない捨てられない。そして置く場所がなくなって、困る。
 しかるべくよって、これを書いているひとは
 その程度に一応ゲーマーであるらしい。
 そして事態は改善しない。
 それはもちろん、頭の中身から推測して明瞭に推定可能な現実である。