暇つぶしの妄想


・今年からE3の時期が5月から7月に変わったとかで
 作っている方々が発売スケジュール調整を間違えたのか
 ここのところこれという期待の新作が発売されないのであれ。特に遊びたいゲームがない。
 積みゲームは沢山あるのですけれども。


・ゲームというのは趣味娯楽。暇つぶしである。遊びたいから遊ぶもの。
 このまだ遊んでいないゲームを遊べば、遊んでいないときより楽しいのは間違いないけれど
 でも他にもう少し楽しめそうな事柄があるのではなかろうか、例えばそう、
 今遊んでいて既に面白さがわかっているゲームの方がより楽しいのでなかろうか、と
 新作には手を出さず、ゲーム機に刺さっているのまま電源入れる。
 本などはクリアできなくとも読み終えられはするけれど
 ゲームはいつまででも遊べるから厄介なのであります。

・ようするに『ファミコンウォーズDS』と『グリムグリモア』、『三国志大戦DS』があれば
 まだまだしばらく暇がつぶせる模様の今日この頃であることよ、ということである。
 今更『パックマン』とか『プリンスオブペルシャ』のような古い仕組みのゲームでも
 それなりに満足できてしまえるということなのである。
 360の新作は買っていない。『カタン』も手を出したい。
 その一方で一部のひとは、何ヶ月でも『アイドルマスター』を共有して遊べるようで
 お話と見た目だけ変えた、女性キャラクターを愛でるゲームでも飽きないらしいのである。
 DSがどうとかPS3が駄目だとか360素晴らしいとかでなく
 ゲームという遊び道具は実に優秀であることよ、なのである。皆同じようなものであります。


・いつまででも今遊んでいるのだけを遊んで、あまり期待していない新作は買うけれど
 予想通り期待通り、界隈の反応はやはりそれなりの出来であるということらしいので積んで、
 という状況を、これまで打破してきた実績は期待の新作。それを遊びたいという意欲である。
 ただ、『FF12』の続きをDSでお楽しみください、とか『FFT』をPSPで遊べます、とか
 \980でも売れ残っている『バテンカイトス』を作ったところの新作RPGが360で、
 とかいわれても期待できないのである。
 今までにあるようなのを、スケールダウンしたりそのままだったり
 同じようなのを持ってこられても、おいしそうにみえないのである。
 遊んでみたい欲がわかないのである。ううむこの不感症の贅沢者め。

・これは是非万難排して仕事をさぼってでも遊んでみたい、と発売前に思わせるには
 今遊んでいて面白いことがわかっているものよりも面白そうで
 それでいて今まで遊んだことがあるものとは違うものであると期待させなくてはならない。
 同じものなら既に遊んだのだからして。
 無茶な要求である。けれどそこは勝手に期待して埋めるので適当に煽って頂けば良いのである。
 それに評判立たなくとも、面白いゲームであればそれなりに後から煙は立つのだし。
 もっとも、それが燃え広がらないようであるのだからし
 ゲーマーなんてネットとゲームセンターだけに現れる口先だけの連中であるし
 そんなのに向けて作っていられるかと京都のお上が思うのもわかるのでございますけれども。


・とにかく、ゲームは本と違って種類が少なくお客の幅が狭く
 それでいて取り得る手段は広いのだから
 頑張って引き続き面白そうなゲームを製造していただきたい所存であります。
 本やマンガなんて効果音もなく選択肢もないノベルゲームなのだし
 映画一本分より長いムービーを入れられる容量があって、
 それに何よりゲームは、それを操作できる楽しみが、もれなく付いてくるものだから。




・ところでです。話し変わって、現状今の所。
 梅雨でじめじめだったり外が暑かったり冷房寒かったりでだるだるなので
 『グリムグリモア』のストーリーパートだけみることで悦に入ったり
 ゲームセンターで散財したいのを『大戦DS』を遊んでこらえる他には
 ごろごろ転がって本を読んだりして紛らわせたりしているのであります。
 
・色々本を読んで思うところ、小説というのはあれです。いったら皆同じ話である。
 何しろ人間が書いて、中国語の部屋が実現された世界の人間を主人公にして
 人間に読んでもらうために書かれた話ばかりであるから。
 だからして、作品の良し悪しや、作品への好み、全体としての評価と、世間的なその総体は
 表現作品であるから、その表現技術に中てられると思われる。
 もちろん単にその話を、単語が示す意味を知ることのように
 知ることで知っていることになる意義もあるけれど
 そういう目的のために読むのならば小説は適した手段ではない。
 あらすじとか解説とか感想を読めば良いのである。

・さて、話を表現するためにある構図構造と、各段の手段を積み重ねさねたもので成るそれは
 それぞれの質が高いほど良い、というわけでは必ずしもないように思われる。
 言い換えると、必ず同じように高くなければいけないわけではない、らしいようである。
 つまり全文が詩の羅列では小説でない。伝えたい知識、感情がそこに的確に表現されていても
 それでは小説ではないのである。小説とはそういう完全でない形式の文章様式である。
 長いから詩ほどに完成されていなくても良い、と世間で認められているものである。


・そこで話はゲームに戻るのですが
 ゲームの、小説を置いて遊びたくなってしまう所というのは
 ネットやテレビに性質勝って、人間関係コミュニケーションに劣るというところは
 コントローラーとかタッチペンとかステアリングコントローラとかガンコントローラで
 それを操作することができるところにあるのだけれども
 映画のように、完全に思惑通りの調子で進んでいけないからこそ面白いのかどうか、
 というところであります。
 つまりクリアできなくて「詰まる」ということはゲームの面白さにどの程度かかわるか。

・「音ゲー」は、大まかに言って、指示された通りにボタンを押すことが正しいという、
 完全に想定された通りのみが正しいゲームである。いわば選択肢がない。
 選択肢がないゲーム、つまり正解が唯一であるゲームは
 パズルゲームのような単純なものにも見られるけれど
 「音ゲー」が単純に見えないのは、正解通り完全に操作することが完璧に不可能であり
 だから単純ではないからである。

・正解が唯一であることが出来が良いというべきか、は置いて
 レースゲームやシューティングゲーム、これら踏まえてアクションゲームも
 この、唯一の正解へ操作して近づける単純でない行為で出来ている、といえる。
 そして選択肢のあるゲーム、アドベンチャーゲームシミュレーションゲームでも
 最高効率が正解とするならば、これらは同じものと相似して見ることもできる。
 多くのゲームは、決まりの中でいかに正解へ近くたどり着けるかを競うものである。


・小説は、読み終えればわかった、といえるわけではない。
 読んだことがあってどういう話がを知っている、ことにはなっても
 それは全部を読まずともわかれることなのだ。
 そしてまた全部を読めてもわかれるわけではなく、書いたひとだって
 後世えらいひと達による後付け解釈ほどにわかっているといえるのかどうか怪しい。
 それでも、これは良いものだ、と世間ではあれ程度順列つけられる程度に、
 良し悪し判断される位にわかる、わかれるものとみなされている。
 正解へどれだけ近づいているかのスコアをつけて、それがおおむね機能する。

・ゲームも同じようなものである。
 難しくてクリアできないことがある。先に進めなくて先の展開が見れないまま行き詰まる。
 「詰まる」。
 けれど、詰まらないゲーム、つまり選択肢を付け正解を唯一ではなくしたものと
 簡単で、誰もが最後まで進めるゲーム、結果として詰まらないゲームが良い、
 というわけでは文字通りない。

・正解があるゲームは、できないひとにとっては絶対にできないものである。
 時間をかければ誰もがクリアはできるよう調整されているものでも
 最後までミスなく終えるということがないなら、それはつまり正解ではないのだ。
 レースゲームで、対抗車がいなくとも理想のラインから出ずにいられることは起こりえないし
 シューティングでも自機と敵機との性能差を埋められるほどには完璧でありえない。
 けれどクリアはできるのだ。

・つまりそれは、リズムに乗ろうが乗るまいが、画面表示通りにボタンを押した結果、
 その正確さ、正解に対する近さが規定以上であった、ということでしかない。
 自動で反応しているだけの機械が「音ゲー」をできている、とは言えない。
 クリアできることは、読み終えられるという程度のことでしかない。


・しかしながら、ゲームをわかった気になれるのは、そして楽しめて、面白がれるのは
 小説と同じく、それが唯一の正解、完璧な上質さで完成される構造様式ではないからである。
 いやそう言うならば、ひとが作ったもの皆、音楽でも絵画芸術でもマンガでも映画でも詩でも
 完璧なものなどない。だからそれをわかった気になれるのだ。
 数学は、表面の一部分をみるならば、完璧に見える。
 さすが人間の作ったものでないだけに誰が評価しても傷がつけられないと評価される。
 しかしそこに意味づけをしようとすると、それで何かを表そうとすると
 つまりそれで楽しもうとすると、面白がろうと手を加えると
 不完全な人間の手が、完全な唯一の正解という概念に近づけなくする。
 それが面白いのだ。つまりそれが面白がれる手段なのである。


・ゲームはコントローラーを介さねばならない分制限があるが
 制限されていることが明瞭自覚的であることと
 他の表現媒体に比べて他者との共有が容易である、
 つまり同時に楽しむだけではなく、共同して一緒に遊びやすい点で
 面白がるための道具として、優れているといえる。
 もっとも、優れているから何なのか、と意味付けすることで
 このように、どこでもいつまででも暇つぶしできてしまう人間の汎用さには劣っているし
 それを他者と擦り合わせることで楽しめる概念の構造として
 道具が共有されていなければならない制限分、下位にある遊び道具であることは間違いない。
 それはやはり不完全なひとが、ひとが遊ぶためにつくったものだからして。

・そしてだから、面白いのである。
 といつものように決着しても妄想は続く。