テイルズ オブ アライズ

昨年2021年9月に発売された
ナムコRPGブランド「テイルズ」シリーズ最新作。
と書いてから調べたら
ナムコバンダイナムコに変わったのは17年も前だった。
でもバンダイといえばしょせんあのバンダイなので
自分にとって未だにバンダイナムコナムコの現社名なのである。
認識が化石。
酷い言いようだがまあ当時はみながそんなものだったので
一概にバンダイだけが悪いとも言えないのではないかと今は思うが
一時期はもちろん子供だましだと思っていたけれど、
騙されていたいる子供が購入費用分楽しめていたのであれば
それはそれで良いのではなかろうかと思わなくもない。
もちろん20数年後にも名作と呼ばれる方がより良かろうけれども。


「テイルズ」は最初の『テイルズ オブ ファンタジア』が1995年発売で
今年で27年目。派生作品も含めるととんでもない数が出ており
数える気も失せるというか失せたので数えていないが
とにかく両手で数えられないくらいたくさんあるうちの
当然そのうち片手で数えられるほどの作品しか遊んでいない。
そもそも最近記憶あやしくどれを遊んだかタイトルから思い出せないが
唯一はっきり記憶があるのが2002年PS2発売の『ディスティニー2』。
「柱のない世界を」で良かったのではという感想しか覚えていないが
パッケージ裏に載っていた
「信じること。信じ続けること。それが本当の強さだ」
というのは名文句だと未だに思う。


20年ぶりくらいになぜテイルズシリーズを遊んだかというと
他に特に遊びたいものが無かったからである。消極的。減点法。
昔は山のように遊ばなければならないゲームが積みあがっていたが
遊びたいゲームから遊んでいるうちに
いつのまにかそこには何も積みあがらなくなった。
それってゲーマーとか名乗る資格ないのではないか、
趣味はゲームとかおこがましいのではないかと思わないでもないけれど
なんだかんだ結構な余暇における割合を
いまもビデオゲームに割いているのであって
遊んで入力したからにはそれをここに感想書くという形で出力して
記憶が薄れて行っても諦めつき納得できるようにしたいのである。

 


さて実は前回の年末の更新で次は本作を遊ぼうかなと書いていた通り
遊び始めたのは本年1月の初めで
クリアしたのも2月のうちだったと思う。
そして今は6月末。あら今年も半分終わりで早かったですかみなさん。
難度高く最初のボスであっさり全滅してからは気合入れ直し
がんばって最後までクリアした。鳥も埴輪も倒し温泉も行った。
それでなぜ今頃感想を書いているかというと
特に言いたいこと、
つまりここに書いておきたいことが思いつかなかったからである。


それでもここに書いてみると
まずお話は向かい合う二つの惑星を舞台に
圧政からの解放を目指すうち世界の真実にたどり着く筋書きで
11人いる!』の続編『東の地平・西の永遠』を思わせる設定。
圧政からの解放を目指す戦いなのに
旅して敵のボスを倒して周る形を取らざるを得ないありようや
世界の謎にしても要は戦闘で解決相手は悪という結論は
昔から続く「テイルズ」というRPGらしさで微笑ましい。
戦闘は3Dに成長しているが操作できるのはやはり1人だけ。
仲間が敵攻撃を回避してくれる程度の調整難しさが察せられるが
前兆付き攻撃などを潰す指示を
控えの2人も含めて適宜行えることでストレスを緩和している。
でもあくまで全員一緒には戦わないのね。
あとなぜ30年近く経っているのにアニメ部分は進歩していないのか
それなのになぜいまだにアニメをイベントシーンに使うのか
オープニングの歌いまわしは
演歌とかと同じ伝統芸能様式美な方面からの要請なのか
ファンのみなさんは本当に
ほんとうにあれを求めているのだろうか、とか思うのだが
まあそういうところは好みの問題であろうし
アニメを何十年も視聴していないひとが
どうこう言うことではないのだろうし、ええ、
総じて、
20年前の『ディスティニー2』と大きく変わっているはずなのに、
そして製作者は殆どが同一では無かろうに
確かに同一シリーズと言い得るだけの
細部の集積が為す印象が感慨深かい。
切れ目なく毎年シリーズ作品を出し続けてきたからだろうか。
毎年複数作品を出し続ける供給力と
それに応え得る需要を維持し続けたことは
まこと敬服に価すると思う。


という短さ。それでも良いのではという意見も自分の中にあるが
それだとその程度しかそのゲームを解っていないのに
書いて良いのかという意見もあるわけである。
今まで浅い感想を書いたことが無いのかというと
とっても心当たりがたくさんあるのはともかく。
書いたら読み返さないのでノーダメージ。
でもチラシの裏でなく公開の場に書く上での
最低限の義務と責任は課されなければならないわけでもある。


なぜ短い感想しか出てこないのかと問うならば
シリーズ作品に思い入れが無いとか
作品が対象としている想定顧客層から外れすぎているからとか。
最近久しぶりに『パワプロ』を遊ぼうかなと思ったのだけれど
財布の中に購入費はあるのだが
日々どれだけ野球という競技に関心を向けているかを思い
これからどれだけ自分がそちらに興味をそそぎそうかとみると
なかなか踏み出しがたいものがある。
『テイルズ』を久ぶりに遊んでみようと思い
最後まで遊ぶ程度の期間関心を向け続けることは達成し
その出来映えにも費やした値段と時間以上の価値を得たと思うが
しかし特に何もない。それ以上でてくるものがない。
作品の所為でなくこちら側の問題ゆえ申し訳なさはあるけれども。


そういうわけで20年ぶりに最後まで遊んだのに感想は書かなかった。
ではなぜ今こうして書いているかというと
その後でいろいろなゲームを遊んでいる中で
今更ながら少し書いておきたいことが出てきたからである。

 


ひとつは『ドラゴンクエストビルダーズ1』を遊び直したことから。
『ビルダーズ』は『2』より『1』の方が自分の中で評価が高いが
いくつかある理由の内で大きなものがお話の単純明快さにある。


ビルダーズ自体はそこまで自分に合致した作品ではない。
自分の中にこのゲームで表現したい「建造物」が無いからにある。
模倣元であろう『マインクラフト』や『テラリア』にしても
また話を拡げて特に目的がなく自由さが売りのゲームにしても
お絵描き道具や立体造形素材そして物語生成機として使って
創りあげてみたいものがなければなかなかに楽しむことは難しい。
例えば都市開発ゲームである『A列車で行こう』シリーズは
都市が成長していく過程を眺めるのが面白いのはそうなのだが
しかし都市を成長させる動機が自分のなかにあまり無いのである。
経理が黒字になっていれば良いのでは。
初期配置の緑ができる限り残っている方がうつくしいのでは。
人口が増えなくとも日本全体では減っているのだから
この街だけしゃにむに増やそうというのも違うのでは。
もとい、自分の中にかくあるべき作り上げたい理想、
言い換えれば目標がそれほど無いのだ。


しかし『ビルダーズ1』は『ドラゴンクエスト1』の
「せかいの はんぶんを おまえにやろう」というお話をなぞり
短時間で簡潔にRPGとしてのお話が完結しているところが
まことに自分の好みに合致するところなのである。
まずは最後まで通し
それから「メルキドガーデン」を始めとする
各お題を消化していくようになぞったが
そういう升目を隅々まで塗りつぶしていくことで
作品内における自身の制御領域を広め拡げ大きくしていく過程が
苦痛になり過ぎない程度に消化できる作業であり
大団円を迎え『フィナーレ』が鳴り始めるに到達したとき
大きな達成感という感慨を得るため最小限の負荷であると思う。
そこが『ビルダーズ1』の自分がもっとも好きなところなのだ。
「ひめに感謝されること」というゲーム内評価でしかないものが
このゲーム作品の価値のほとんどであったと改めて感ずる。
つまりエンディングにたどり着くことで
明らかにそのゲームを達成するすなわち目標を完遂し得るのだ。


そしてRPGの面白さはそれだ。
最後まで遊ぶことで確実に完結する目標を達成する満足感のために
積み上げ続ける過程。
舞台設定や登場人物たちが纏うガワは最後の最後を目指す動機。
例えば『勇者30』という作品にそれを見ることができる。
2009年にPSPで発売されたパズルアクションゲームで
30秒でRPGのお約束をこなしつつ魔王を倒し世界を救うことが目的。
製造元から察せられる通り
決して出来良く遊びごたえある作品とは言い難いものの
30秒でRPGを遊んでいるかのような感触を創出するその在り様と
現出させたアイデアはまことに素晴らしい。
この作品で得られ遊んでいて受けるてざわりが示すものは
最後の敵を倒して終わりを迎えるという目標への過程の苦労で
苦労を最小限にするための工夫こそがゲームである必要だという点。
つまり『ビルダーズ1』のエンディングに感動し
そこに面白さを見出しているならば
そういう面白さは極論『勇者30』のそれと変わらないのではないか。


自分は果たしてゲームに何を求めているのだろうか。
以前ここにも書いたけれどそれは
1時間ぐらいでエンディングに到達できるアクションゲームで
端的に集約されていると思っていた。
操作することが結果の良否につながること。
前回の知識が今回に役立って前進があること。
単になぞるだけではなく様々な試行でより良い答えを探ること。
そしてその結果に納得でき満足できる
解決と完結という終わりがあること。
優れたゲームはこれらを余計な装飾の有無に依らず達成している。
これだ。これがゲームだ。


ではそうではない大多数のゲーム作品は駄目なのか。
楽しくないのか。面白くないのか。
そんなことはなくそもそもゲームである必要も無くて
質の高低だけでなく
遊ぶこちらがわの好みの影響は間違いなく大きいにせよ
誰もが納得できる楽しさを持つゲームは沢山あるのだし
それを様々な作品は自分に教え続けてきてくれた。
翻ってでは『テイルズオブアライズ』を遊んだときの
何が悪かったのか。

 


もうひとつは『FF9』を遊び直したこと。
FF14』を除けばシリーズの景気良い話を寡聞にして聞かないが
「テイルズ」同様なのかそれ以上なのか数えていないが
派生作品は各機器向けに作られており
この『FF9」も2019年よりPS4とSwitchでも
リメイクだかリマスターだか知らないが
戦闘ロード時間を改善したものが遊べるようになっている。
正確に言うと戦闘毎のロード時間を演出で誤魔化していたものを
演出カットして戦闘開始できるようになっているのだが
それ以外にも動画を除く全イベントの進行速度を倍速にしたり
攻撃ダメージを全カンスト化したり
ランダムエンカウントOFFにしたりも可能。
エクスカリバー2』も容易に取れるのだろうと思われる。
2000年PS1発売のゲームでやはり20年くらい前の作品であるから
自分の嗜好や好みがそのあたりで固まって
以降ついていけず劣化退化しかしていないのではなかろうかと
疑念を覚えるに十分な自身の遊びたいゲームの選択である。


それはともかく
戦闘開始演出カットだけ設定して20年ぶりくらいに遊んだが
率直に言ってなかなか苦痛であった。
何年に一度発売され何十時間何か月もかけて味わう大作として
腰を据えじっくり向き合うならともかく
Switchで机の上に画面置いて懐かしく思い出しながら
その後20年間のゲームと比較しながら遊んでも面白くはない。
一通り最後まで遊びはしたものの
思い入れの中にある印象の色をくすませただけだった。
かつては確かにときの最先端に相応しい作品に相対して
剣を掲げるエンディングに満足して遊び終えたはずだったが。
グラフィックも当然高解像度対応になっているのだが
昔のぼやけた画面だったからこその絵だったのだなあと思う。
想い出は鮮明であればよいものとは限らない。


RPGという種類のゲームに
自分はどういう面白さを求めているのだろうか。
例えば昨年後半には『真女神転生5』も発売されたが
遊んでいないし今のところ遊ぶ気が無い。
なぜ遊びたい気が起きないかというと
前作『4』『FINAL』があまり面白がれなかったからだが
いったいその面白く無さを言葉にするのはなかなか難しい。
思っていたのと違っていたとか
駄目ではないのだけど求めていた面白さがうすいとか
そこはそうじゃないだろと言いたいと書こうと思ったのだが
いやでも過去の「メガテン」も
自分が書こうとしたほどそういうゲームだったかのか
いま、遊んだことが無いひとが遊んでも
面白いと言えるものなのだろうか。
その当時において他と比較して独自味があっただけで
ゲームとして20年後も評価される出来栄えだっただろうか、
と思うわけである。
ソウルハッカーズ』や『ペルソナ2罪』あたりを
『4』『FINAL』そして『STRANGE JOURNEY』と混ぜ
今遊び返して
果たしてどれが面白いどれがつまらないと言えるか
いささか自信が無い。
結局そのとき遊んだから面白かったのであって
面白かった印象なのであって
ずいぶん時を経て発売順や遊んだ順にとらわれず
あるいは平等な場に立てるとしてその質を比するならば
当時と違った価値が浮かび上がるのではないか。
であれば今の自分が
それらのゲームに求めている面白さとはどんなものなのか。

 


結論にとびつくならば、
求めているのは新しさすなわち経験のない体験なのだ。
これまで遊んできた記憶に残る様々なゲームの
多様な面白さの想い出が
常に今日と明日遊ぶゲームから感じられる楽しさを制限する。
引き立てるには新しくなければならないのだ。
既に知っていることが必ずしもマイナスというわけでもない。
前回の知識が今回役立って前進があることは
ゲームから感じられる楽しさの重要なひとつだ。
より快適に進行出来るならば既視であることは問題ないのだが
その結果の過程が
かつて巧緻の差はあれなぞったことのある通りであれば
繰り返すごとにその感慨はくすみ縮退していく他はない。


対戦環境が常に更新され続ける対人対戦ゲームや
課金し続けてもらうために新規要素を常に注ぎ続ける
Sustainableを体現する作品群には
この完結するまでの過程を楽しむゲームと無縁の境地にある。
ゲームが生成する日々の新しさ以上に
そのゲームをおなじときにみんなで経験すること自体が
現実世界と同様の
先の見えない終わりなきそして常に新しい遊びなのだから。


しかしそうでないもの、解決と完結という終わりがあり
その過程の作業を積み上げていくからこそ在る
感慨を意図するゲームにそれは難しい。
キャラクターのみためとかお話とか
げーむせいとかいう部分は新しくとも
共に同じときに同じ作品を楽しんでいるわけでは
かならずしもないからだ。
お話の先や効率の良い進め方を知ってしまうことで
最初の驚きすなわち大きな価値である
新しさが減じてしまうということ。
何もゲーム作品に限ったことではないが
ゲームというものの楽しみ方が
定額持続可能に定番化していくに際して
かつてよりより難しい匙加減を必要としているのだと感じる。


大勢でともに味わうときは
互いに同じものから異なる体験と違う感想を受けるからこそ
擦り合い比べ合いぶつけ合う面白味が生まれる。
自分一人の中で咀嚼するならば
それは唯一ただひとつのある経験と過程を経て成った
その人そのときだけの感想なのだ。
そこには他の影響をある程度隔絶した自然さとか
清らかさ素朴さ純粋さを見て取ることができ
そのままに自分の中に育てていくことで
損なわれることのない価値観を確立することもできるだろう。
興味とか好みとか知っているかということで表現される
そのひとそのときだけの受け得るありようが
そのひとにとって作品の価値を決定する。
まことに当たり前だが
しかしそうではない作品の遊ばれ方が主流であるにあって
定まった価値というものの多様さと
一期一会ということばの重さを感じずにはおれない。


自分の興味関心がどこを向き
そのとき好みがどのように成型されているかは
自身に在っても測り難く
だからこそ面白いのではあるけれども。