三國志14

シミュレーションゲームは時間泥棒である。


もう止める時間だと思いながらもあと1ターンもう1ターン、
セーブしたけどあともう少し領内見回ってから電源切る、
あ、これこうしとこうよしセーブしよういやそういえばあれがねこれがね
そうして気が付いたらもうこんな時間。明日がやばい。


そういうずるずるだらだら際限なく遊び続けてしまう面白さが確かにあるのだが
振り返ってみるとなんと無駄に時間を掛けていたことかと棚に上げて思う。
本作もとても危険なゲームだった。
正気に戻れたのは僥倖。地形をいじれたら危険だった。

 

 

さてこの三国志でなく『三國志』シリーズは、おそらくご存じの通り
信長の野望』と並んで旧光栄前コーエーコーエーテクモの看板作品。
最近記憶が怪しく、シリーズ中のどれを遊んだことがあり
どれがどういう感じのつくりで特徴はこうでというのがごちゃ混ぜであり
この部分はなになにのようなみたいな、あれとこれが比較してどうこう、
ここの仕組みがあたらしみあって評価できる点ですなあ、というのが
まったくもって覚束ない。
昔のことは覚えているのだけれども。
最初に遊んだPC版『三國志3』は3.5インチFDで
攻略本で完全軍師の概念を知ってほうほうほうと感心し
その本がその何年か後に中古ゲーム市場は違法、
なぜならゲームは映画だから裁判になったと知って感心した覚えまである。
実際、三国志が日本で妙に人気があるのは
吉川英治横山光輝のおかげだけでなく
「武将FILE」シリーズもあなどれない影響あるのではと思う。
世界で一番良くできた水滸伝の副読本は「水滸伝好漢FILE」に違いない。
ゲームは映画扱いではなかったらしいけど光栄の仕事は評価しています。
などと思いつつ早幾年。

 

そういうわけで今回も「今回のここが良いと思うよ『三國志14』」は
これまでのシリーズのこれらと比べてどうこうでなく
だらだら遊んだ時間分にふさわしくだらだら思ったことを書いていきたい。
でどこが良かったかというと、領地をマス目単位で争えるところ。

 

『信長』も『三國』も国取りゲーム。
富国強兵して戦争して城を攻め落とすことでひとつ国を取れるのだが
やはり戦争部分が攻城戦ばかりでは面白くない。
開けた平野で万を超える軍勢同士が大激突。これが燃えである。
しかしながら城や陣地や要塞に籠っていたほうが
当然防御力高く損害少なくて済むので
敵が攻めてきても城から出て迎撃しないのは当然ではある。
だれだってそうする。だからCPUもそうする。
城に籠っていても援軍は来ない、だから一発逆転に賭け
夜間雨中に敵本陣に突撃だ、というのはありなのだろうが
プレイヤーが成功させられるのは良いが、
コンピューターにこれを確率5割で成功されても困る。
対人対戦ゲームでも運ゲーだと非難轟々だろう。
運要素は時として必要だが、勝敗が運だけで決まるゲームはゲームでなく賭博。
内政し兵士揃え有能な武将揃えて
敵軍が別勢力にちょっかい掛けたこの好機に賭けるのだ、とは言うけれど
実際は賭けているわけではない。
このゲームの仕組みなら、この状況で勝利が成立するかを確認しているのが
1人用シミュレーションゲームのつくりというものなのだ。


したがって、いかに城に籠もらず会戦に挑む理由づけをするかが
旧来から『信長』『三國志』の重要な課題であったと思う。
今現在でもそうであるのは最新この『三國14』でもわかる。
三國志14 地図」で画像検索してみて欲しい。
めんどいからリンクは貼らないが一目瞭然。
黄河と長江、幅広すぎ。アマゾン川セントローレンス川もびっくりである。
なんとしても呉というか周瑜が戦争で光るには
火付けだけでなく水上戦がなければと思ったのだろう、


大人数の兵士を先に揃えた方が勝ち、では大味過ぎる。
大勢力に寡兵から奮闘して打倒する楽しさもシミュレートしなければならない。
昔の光栄作品にもひどいものは少なくなかった。
当時はどこも同じだからそういうものと思っていたが
今のゲームは経験ふまえて随分ましになった。
戦争が面白くない。面白いのは最初期だけで軌道に乗ったらあとは作業。
最初の最初から全ての1人用国取りゲームに言われているこの命題は
今も決して否定できるほど改善されたとは言えないが
それでも良くはなっている。ゲームとして面白くなっている。

 

 

戦争を面白くするためにはどうすれば良いか。
工夫の一つは、戦争部分とそれ以外の部分を切り離さないで
同時進行させることである。
旧来は攻め込むと決着がつくまで戦争ゲームがつづいたが
自領を出て隣国お城まで攻め込んで決着つくのが
かならず1ターン内でなければならない理由も、思えばないのだ。
もちろん初期はゲーム機の能力上、多数の勢力が複数の部隊を行軍させつつ
兵站を機能させつつ普段の内政もするさまを表現するのは不可能だった。
しかしいつしかそれが可能になった。
戦場でのぶつかりありを描写する部分自体は
たいして目新しくも面白くもなったわけではないのだが、
それ以外のことも一緒にしているので気が逸れるのである。
個々それぞれは単純繰り返しの結果がわかりきった「作業」であっても
複数を同時に両立並立効率良く動かそうとすると、そこにゲームみが生じる。
戦争を仕掛けた時点では彼我の勝敗が決していたとしても
その後の第三国の動向次第でそれがひっくり返ることもある。
守勢に徹することで予想を超えて国力損耗し結果が覆されることもある。
戦場をシミュレートするゲームとしては変わらなくとも
戦争をシミュレートするゲームとして各段に拡がり深く面白くなったといえる。

 


もうひとつは戦場の表現にある。
国取りであるから成果と栄誉を顕彰し強調するためか
いつしか個々の国土の個性やありようを絵にして表現するようになったが
そこへ自軍部隊が長躯侵入していくに際し
必ずしも敵首魁たる首都を落城せしめずとも
征途にある都市群を軍門下らしめるだけでも
戦争意図の十中五分までは達成叶ったと言えるのではないか。
よしんば敵軍が傘下都市を見捨て首都に籠ったとしても
必ずしも大祖国のように農奴は焦土より生えいずるのではないのだから
カンナエを再現し決戦持ち込むことも可能ではないか、という発想である。


これをゲームとして表現すると、
すべての国をひとつの戦場に表現しなければならない困難がある。
国取りゲームは1対1では面白くなく
1対1対1以上に複数勢力でなければならない。
1対1では、どちらかが決戦で勝利した以降は結果の知れた作業で
魅力に欠けると見えてしまうからだ。
全てが同じ戦場に存在し互いの領土へ常に侵入し撃退しての
首都でなく国土を守る戦争ゲーム。国取りでなく泥縄の領土拡張戦争。
三國志14』のゲームの仕組みをもし対人戦で遊ぶならば、
この段階にあるといえるだろう。


三國志14』において、それぞれの国は
ゲームの「城」である都市の周囲に、複数の「府」を持つ。
「府」に戦闘部隊を収容することはできないが、
内政担当官を配置するとターン経過ごとに
周囲へ自軍占領範囲をマス目単位で塗りつぶして拡大させていくことができる。
この自軍範囲は2つの意味がある。
ひとつは収入量。
自軍範囲量と各「府」の内政開発度合に応じ毎月の収入が決まる。
政治力100が開発するより自軍占領範囲を増やす方が短期的には収入が増える。
もうひとつは部隊の兵站
敵国に攻め込んだとき、当然その領地は敵国の色に塗りつぶされている。
部隊が行軍した部分が自軍範囲となっていくのだが
この塗りつぶしていった線が切れると、兵站が切れ、
本国に食料が有り余っていても戦場の部隊に兵糧が届かなくなってしまう。
兵站が切れると部隊は混乱し士気が下がり、
士気が零になると統率100だろうが知力100が率いていようとも壊滅する。
「府」を占領すると敵国は内政官を派遣できなくなり、
逆にこちらはまだ敵城を落としていなくとも
担当官を派遣し周囲を占領して収入を得ることが可能になる。
「府」による範囲拡大は、もちろん戦争中も有効なので、
大軍勢が攻め込んできても、その後方で内政官が上手く塗りつぶし返し
兵站経路を切ってやれば戦わずして勝利が可能となる。


単純に、マス目で区切って線が切れたら兵站切れる、というだけでなく
「府」という点をつくり、内政官をからめたところが良い工夫。
自領と敵国領では部隊行軍速度もまったく違うので
線で攻め込むと敵部隊が後方に回って線を切ってくるが
府を占領しながら進軍することで、占領面積を線から面に変え、
武官だけでなく文官も戦争に協力できるのだ。


防御力の高い城を高い対価払って無理やりでも落とさなければならない、
というわけではなくなったことの意味も少なくない。
極論、敵城落としてその国を自軍のものとする栄誉より
「府」だけを自軍のものにした方が効率良いのある。
収入は「府」ではなく、その国の「城」へ自動で輸送集積される。
他国だろうか隣の隣の隣の遠国だろうとも、自軍マスであれば収入得られる。
しかし「城」から「城」へは輸送部隊で時間を掛けて輸送しなければならない。
敵国を落とす利益は、ひとつにはその国から得られる収入も
自軍のものとするためだが
周囲の国の「城」は落とさず「府」だけ落として領土を拡げれば
数国分の領地収入が輸送する労掛けることなく自国一城に集積できるのだ。
野戦で同程度の兵士数とは戦えても
攻城戦で同程度の兵士が籠る城を落とすのは容易ではない。
しかし、今や城を無理に落とす必要は少なくなったのである。
敵国の全ての「府」をとってしまえば
収入が減じ、部隊を保ち部下に給金を払うこともできなくなって
攻城戦を経ずとも自壊する。
城に籠っていれば被害は少なくなるけれど、収入もなくなる。
だから仕方なく、敵が進軍してきたら城から出て迎え撃つようになるのである。


城ではなく、領土を奪い合うことに意味を持たせたのは、
もちろん『三國志14』が初めてではない。
しかし、自城の防御力を内政で高めることが容易にできないようにしたりと
自覚的に攻城戦を避け戦争を面白くしようとする工夫は、大いに評価される。
プレイヤーは10日ごとに1ターンなのに
コンピューターは常に部隊移動を細かく指示出せるのも
ガンパレードマーチ』を思い出すほどではないが、
オートセーブの便利さも含めて、遊ぶこちら側を上手く悔しがらせる塩梅だ。

 


たくさん沢山いる武将グラフィックも感心させられる。
よくぞこれだけの人数を質と絵的な統一感持たせ描き揃えられるものだ。
この何百枚の絵を見比べていくだけにも価値がある。
ひとつにつながった中華大陸に点在する各勢力。うごめく各部隊。
そこにこの絵と史実と物語に基づく能力値を持つ武将たちが載り
自軍が徐々に強くなって塗りつぶす範囲を拡げていく過程だけで
妄想するには充分。想像力が豊かなら尽きることなく遊べるのだろうと思う。


問題はやはり、これが1人用国取りゲームであること自体にある。
1人でコンピューター相手に遊ぶことに合わせて作られているからこそ
武将の配置や外交や内政でできることの幅を持たせて
現実味風を味わいつつ、妄想に応えられる柔軟さを実現させている。
しかし、誰でも丁寧に遊べば徐々に強くなれる、
すなわち負けようとしないかぎり勝てるゲームである以上、
ある時点で勝ちが確定して以降は作業感が重くなる。


ほとんどどうしようもないだろう。まったくどうしたら良いかわからない。
赤壁の戦いは、史実の曹操にとってみれば現実だから仕方がないが
三國志14』で曹操軍を遊んでいて、同場面で不可避な敗北を喫せられたら
ゲームとして成り立たないと感じるだろう。
戦国ランス』のように、「国取りゲーム」のようでいて
全土占領がゲームのクリアではないというように妄想できたとしても
それは『三國志14』というシミュレーションゲーム上のものではない。


では対人対戦ゲームであるべきなのか。
昔のように、複数人で交互に別々の国を担当できる
戦争シミュレーションゲームとして遊べるようにするべきか。
しかし現在の『信長』『三國志』は1人用専用、
対人対戦ができない仕組みだからこその面白さで成り立っている。
複数の単純作業を同時並行する効率を競う楽しさで出来ている。
例えれば、ヨーイドンでのリアルタイムアタックに合う面白さ。
公平機会数の下で同程度資源をより効率よく戦力に転換し
機を見た攻守駆け引きを行うような対人対戦の面白さとまったく折り合わない。
国家運営の効率を競う戦争シミュレーションではなく
歴史物語の舞台を体験して妄想する歴史シミュレーション。
ターン制にし、交代しながら
「国」という資源を取りあうゲームに最適化するなら
それはもう『三國志』ではないし、
リアルタイムストラテジーにして戦争シミュレーションをするなら
それもやはり『三國志』ではない。
大規模オンラインRPGにしてみたり、題材を流用して対戦アプリにしてみたり
コーエーテクモもいろいろ頑張っているが、それはもう別のゲームなのである。
三國志』がより面白くなったもの、ではないのだ。

 

三國志14』はこれといって目新しい要素があるわけではないが
従来からみられた要素を現代の技術で過不足なく丁寧に表現した良作である。
提案でしかできない謀略や内政事項が多数あるのも
出来ることを何でも選択可能にするのではなく、あえて簡潔にすることで
それぞれの行動により重みをもたせている工夫。
歴史シミュレーションゲームとしてどうできるようにあることが
ゲームを楽しむうえで重要とするべきかに
製作者が自覚的であるからこそできることだ。


面白いのは最初だけで中盤以降はだれる。
がんばっていろいろ妄想することでそれなりに補えるが
狙って史実のような劇的な展開を作りだせるわけではない。
武将絵は大変すばらしいが一騎打ちはしょぼい。
有名武将はボイス付きで頑張っているのかもしれないがソシャゲごとき以下。
演出は貧相だが、絵と能力値をみ、国を育て妄想するその目的には適うつくり。


いろいろな時代でいろいろな勢力があそべるのだが
地形は同じなのでどこの国からどこの国へ攻め込めるかは変わらないし
「府」の配置も同じなのでやはり戦争も同じような展開になる。
地形も自分でいじれたら危険だった。
まあそれもまた三国志ではないのだろうけれども。

 

FF14の続き

この1年間は主に『FF14』を遊んでいたので
今回も感想を書かなければ元が取れない。
ゲームセンターはもちろんゲーム売り場も縁遠く
そもそも外出自体はばかられるという
言葉にしてみると改めて常と異なる今日この頃。
でもゲームを遊ぶ時間が増えたわけでなく何をしていたわけでもなく
では何をしていたのか、自分でもよくわからない謎。


さすがに一年間遊んだので『新生』からでも8年運営されているとはいえ
相当に胸を張って「遊んだことがある」と言える段階に到達。
若葉マークも取れたしイベントもシャキらない一部を除いて全て潰したし
最初からメインイベントのみをVer5.0まで遊び直してみたりもした。
何年も何年も遊び続けるひとの気持ちまではわからないが
FFシリーズでもっとも遊んだ作品であるのは間違いない。
それくらい遊ぶ気になったのだから、相応に面白かった。


とはいえ、前回に大体の概要は述べたので、今回は別の切り口から
FF14がどういうように面白いのか書いてみたい。


なお「シャキる」はマッチング成立のお知らせ効果音がもと。
「シャキーン」としか表現しようの無い音が
ボイス付きイベントムービー中だろうがロード暗転中だろうが最優先で鳴る。
タンクだと割とあっさり鳴るが、DPSだと数分待つのが当たり前。
その「シャキる」までの待ち時間が「シャキ待ち」である。
混雑度合いから大体の予測時間は出してくれるが
当然、その待っている間に誰かがそのイベントに参加しようと思わなければ
いつまで待とうがシャキらない。
そして一部のめんどうなイベントはまずシャキらない。
そのコンテンツ専用にパーティを募集しなければならないが
さすがに時間制限がきついので放置。


FF14』はストーリーを遊び終えてしまうと必然いわゆるエンドコンテンツ、
高難度の強敵ボスに挑戦することくらいしかすることがなくなるが
レベルシンクの影響もあって、
レベルとか装備とかはそんなに問題ではないのである。
バトルギミックが問題なのである。
このボスはこういう攻撃をしてくるからこう避けて、
タンクはここでこうしてヒーラーはここでこうしてこの攻撃にはこうして
パーティメンバーがわかっていなかったらアドリブでこうしてこうして
というのを、予習して頭に入れて置きその通りに動かなければならない。


エンドコンテンツだから仕方がないのである。
8年間徐々に追加されてきたイベントを8倍の速さで経験しようと思えば
やむを得ぬ苦労ではある。
予習して頑張って上手くいってクリアできればとても嬉しい。とっても嬉しい。
でも避けたがるひともいるのはわかる。


余談終わり。以下本題。

 

 

 

ゲームに求める楽しさはもちろん人それぞれ千差万別だが
FF14』を遊んで自分が思うに、以下2つに区別される。


ひとつめ。成功の楽しさ。


「俺TUEEEE」という概念がよく低年齢向け娯楽作品を揶揄して言われるが
これは成功に見合う対価なき空疎なさまを嗤っているのであって
勝つことを否定するものではない。
正当な競技で勝ち負けをつけることは娯楽における明確な楽しみの一要素。
「ゲーム」ということばに着目すればまさにそのものであり
勝ち負けのない「ゲーム」が
われわれが「テレビゲーム」「ビデオゲーム」と呼ぶものに溢れているとすれば
「ゲーム」という呼び方自体が妥当ではない。


「コンピュータゲーム」において勝ち負けを競うのは
もちろん多くのゲームにとって、まず第一に挙げられる楽しさである。
ここ十余年ほどはオンラインによる対人で遊ぶことが大いに普及し
コンピュータ相手に1人で遊ぶのとは
次元の違う楽しさがあることを知らしめたが
コンピュータ相手に勝利することで楽しさを感じる要素もまた
コンピュータゲームにとって無くてはならない独自性である。


ゲームで成功することによって楽しさを感じる機構は
ひとつのゲームにも複数あり多種多様である。
例えば『FF14』で言えば
困っているひとを助けてお使いをし報酬をもらうイベント。
お話の本筋を進めるのに何ら必要でなく
報酬自体もあってもなくても良いものであったとしても
それを消化する、発生しているものを潰すことだけにも
人は成功による楽しさを感じる。


次に、成長することによる機能拡張の楽しさ。
手間を積み経験を積むことで能力が上がり出来ることが増え
これまで出来ていたことが、より容易に出来るようになる。
戦闘で強い敵に勝てるようになる、敵がより容易に倒せるようになることに
人は心地良さを感ずるが
扱う数字が大きくなり行ける場所が拡がり新しい何かを手に入れるだけで
人は時々刻々に連続した達成感による楽しさを感じる。


そして、競技における優位。
必ずしも対人に対戦して勝利するのでなくとも
共に同じ目標を達成するため協力して苦労し合う中にも
個々の能力差や知識の量、そしてすることの的確さの差に優位劣位は発生する。
またゲーム内の能力の高低や操作の巧緻だけでなく
それについてより知っているか否かだけでも
他者に優位を感じて楽しさを精製することが可能である。


もちろんこれは単に単純なものではない。
お使いイベントは報酬の多寡よりも、そのお使いをする過程や結果において
舞台世界や登場人物に対する働きかけや奥行を感ずる知識の開示があるほどに
そしてそこに生ずる小さな物語に対し納得感があるほどに
作業という印象が薄れてゲームに生きた感慨を得ることが出来る。


機能拡張や強くなるということは正の方向のみへの連続的な繰り返しであり
負の方向に自主的でない縛りを設けることは自由さを阻害して歓迎されない。
情報を開示し巻物を開いていくだけであれば問題はないが
そこに強い必要さを置きすぎて、それを知っていなくてはならない、
活用できなければ進まないよう採れる手段を限ってしまうようでは
機能は拡張しているのに出来ることが少なくなったように感ぜられる。


競技においては、ひとつの定まったルールでありながら
各人各様の知識や能力の得意それぞれを
出来得る限り広く活かすものでなければならない。
多様かつ公平でありつつ、機会は平等でなければならない。
言うは易く行うは難し。
物量許す限り取り得る手段を増やして、正解自体を増やさなければ
より多くが納得できる秩序だった解法の存在は困難である。


成功し、達成し、勝利して、区切りつけはっきりし終わらせることは楽しい。
しかし誰もが何の苦労もなく平等にそこに到達できるなら価値が減ずる。
自分が何かを為した、選んだ、操作した、知っていた、時間を掛けた、
誰かより優位に立つ必然がそこにあったからこそ、そこに楽しさが発生する。
それをどれだけ自然に納得できるよう作られているかがゲームの質だ。

 

 

ふたつめ。想像の余地。


10秒間でボタンを押す回数を競うゲームがゲームセンターの前に置いてある。
無料で遊べて、通りがかる人達へ
ゲームを遊ぶことに関心を引いてもらうためのものだ。
スコアランキングがあって上位10位内に入れば
自分のスコアが記録されるのが報酬である。
これは果たしてゲームなのだろうか。何が楽しいのだろうか。
そう問われれば、ゲームだし、誰でもできるのが良いところだし、
スコアが残る事になんの意味はないかもしれないが、
喜びは感じられると答えるだろう。
1人で何度も遊ぶさまを想定すれば面白味は感じられないが
誰かと一緒にいる時に余興として楽しむ例示として優れており
設置する目的に適った規模のゲームである。


しかしながら、音楽のリズムに合わせてボタンを押すゲームであれば
そんな説明など不要だ。
同じくボタンを押すだけでも
たとえ成果のスコアがオンライン全国ランキング入賞圏内に
到底到達し得ない位置でも
誰も見ていないところで1人で遊んでも、明確に楽しい。
音楽に合わせてリズムに乗って、奏でるですらなく拍子を取るだけでも
楽しさを感ずるのだ。


人はゲームに意味を乗せて楽しむ。
音楽のリズムに合わせてボタンを押すゲームでなくとも
自分の頭の中でリフレインする音楽に合わせ拍子を取るだけでも
楽しさを感ずる娯楽として成立するだろう。
しかしゲームの機能は、それを公平な評価点で明瞭化を助け、
頭の中だけでなく耳の外でも音楽の再生を助け、
あるいは打楽器の機能を充実させ譜面の表示を工夫することで
自身だけでは想像しえなかった音楽の感受を遊べるものである。


みんなが遊んでいるから自分も遊ぶ。
そのゲームの話題についていくことができ
誰かの話に同感したり反論したり新情報に共に期待したり不安がったり
プレイ動画をみて感嘆してみたりくさしてみたり。
実際にゲームを遊んでいるよりも
そのゲームを話題にして楽しんでいるほうが多くそして楽しく
主客転倒して、そのためにゲームを遊んでいることもある。
そのために遊んだのに意外と面白くて喜んだりする。
ゲームを遊ぶだけでなく、ゲームで遊ぶのだ。


今やこれは現在におけるもっとも主流であるゲームの遊ばれ方ではあるが
ゲームである必要はない。
マンガでも映画でもスポーツ競技でも事件事故のニュースでも何でも良いのだ。
ゲームはそれで遊ばなくとも、遊んだことがあると言える程度に知っていれば
それで遊ぶことが出来る機能を持っている、ということである。


この場合、ゲーム内における繰り返しの単純作業は、
みんなでそのゲームを遊ぶことには向いていない。
1000時間かけて最初に出てくる雑魚敵を倒し続けて最強になりました、
という結果の情報自体は遊べるが、
1000時間の過程は、何ら遊ぶ方にとって楽しみがない。


音楽に合わせてボタンを押すゲームで言えば
始めた最初の様子や上手に遊んでいる様子は価値が感ぜられるが
その過程は面白味が少ない。
まったく無意味ではないだろう。最初と上手くなった最後と
その途中の上手くなっていく何回かは価値を持つが
1000時間掛けて上手くなったならば、そのほとんどは無価値である。
けれど遊んでいる自分にとっては、
1000時間かけて上達したその過程の1曲ごとにも価値は感ぜられるはずである。
楽しかったはずだ。


何かを作り上げていく、当事者でないひとにとっては無駄とも思われる過程。
過程の全てが有意義でなく一様な正方向の上達でなく
必要さが薄い無駄とおも思われる時間の費やしであったとしても
しかし達成の暁にはそれは価値を持つ。
最終評価にとっては無駄であるかもしれない作業。
マップを隅々まで埋めること。すべてのアイテムを集めること。
すべての敵と戦うこと。すべてのイベントを発生させること。
そうできなくとも、そうしよう、少しでも多く埋めよう、
塗りつぶそうとしようとすることは、なぜそうするのだろうか。
そうしたがるのだろうか。
上達するかもわからないのに、ゲームの中で評価されるかもわからないのに、
作業を続け続けるのか。


それは、そうすることが自分にとって価値あると判断するからだ。
ゲームにおいて評価に値しなかろうが
自分でない周囲にとって無価値だろうとも
そうするほうがよかろうと思うからそうするのだ。
雑魚敵を倒して経験値を稼いで強くなる。
最適解ではないかもしれない。効率悪いかもしれない。
けれど前に進んでいるし、労せず前に進めているだけでも良いではないか。
何百回と同じ曲を繰り返し遊んだからといって、
それでもオンラインランキングに載るほど完璧にはできないかもしれない。
でもそれだけが価値や意味や勝利や楽しさや終わりではないのだ。
今、この一曲を遊ぶことに楽しさがあれば、
例え上手くならなかろうが、他の人にとっては無価値だろうが関係ない。


ゲームの中にデータを蓄積する。それを積み上げ加工する。
独自のどこにもないものができあがる。
それは、世間的にみて他と比較して、凄くないかもしれない。
ごく普通の無個性平均な程度かもしれない。なんのニュース価値もないだろう。
でもそれが目的ではないのだ。
飽きたらデータを消すだろう。消さないにせよ忘れるだろう。
別の何かを始めたら今していることは自分にとってすら
たちまち無価値になるだろう。
でもそれでも良いのだ。いま楽しいのだから。
そこに目先の楽しさを追おうと、何かの結果をつくろうとした過程、
そこに楽しさがあるのだから。
完成し、完結することだけが楽しさではない。


さて、そういう、過程を自分だけが楽しめれば良いというゲームにおいて
より良いゲームとはどのようなゲームだろうか。
それは量である。楽曲の数である。
広大な舞台世界であり無数のキャラクタでありアイテムである。
質はもちろん大切だ。ゴミがどれだけあろうがゴミはゴミだ。
しかし最上級のものが1点殿堂上にあるよりも
一定以上のものが多数あるべきなのである。
タイムアタック動画やノーミスプレイ動画にとっては
最高の巧緻を尽くした楽曲や
理不尽でないが安易でもないコース設計があればよいが
過程を楽しむ一般大多数、ゲームを遊んでいるほとんど全ての普段にとっては
ごく普通だけど多彩かつ想像を超える濃淡傾向高低の幅
端から端まで味わいきれないほどの品書きの多彩さこそが求められるのである。


そういう観点で、現在の基本無料ゲームや、
支持され続ける限り終わらないロールプレイングゲームがある。


海の向こう産ゲームの見た目に対する量の多さと手間掛け方は圧倒的である。
よくぞここまで隅々描いて採算が取れるゲームとして成り立つものだと思う。
遊ぶ多くのひとにとっては瞬間でしかない飾りに膨大な手間をかける無駄。
だがその細部の無駄が全体の印象をつくり
結果として多数がそれを支持すると、成功の結果が信じさせるのだろう。


日本産のゲームは、そういうところに追いつこうとして
容易に成功にはつなげられてこなかったようだが
しかし、ひとつのゲーム作品に長期間長時間つなぎとめる仕組みには成功した。
その必然として、従来であればシリーズ続編と分割していたものでも
ひとつの作品に手間をかけ続ける形に変容した。
ゲームの楽しさにとって、そうあるべきと信じてそうしたわけではなく
結果として成功したものがそうだったというのが
いかにもうちのところの文化のありようではある。
果たして次はいかなることや。

 

 


FF14以外にも三国志14だったりモンスターハンターだったり
どうぶつの森だったり『Detroit: Become Human』だったり
『Marvel's Spider-Man』だったり『ウマ娘』だったり
いろいろ遊んでいたわけです。
さわってみただけで投げ出したゲームもたくさん。


けれど『FF14』を除けば遊んだというほど遊んでいない。
最近のゲームは巨大なので。広大というより容量が膨大なので。
ゲームとしては普通。みたことあるものだけれど、とにかく沢山つめこんで
多くのひとにたくさん、すなわち長く遊ばせる。


『Detroit』はおおむねフローチャートを埋めたけれど
まるでクリアしたという気がしない。奥深いのではない。
ゲームとして斬新なのではまったくない。ただ量が多いのだ。
ウマ娘』は逆の意味で斬新である。
まさかこの題材にここまで手間暇容量を詰め込むとは。
その中身はすごくなくとも、その在り様がすごい。


FF14』は8年続くサブスクリプションとして必然の形式なのかもしれないが
ドラクエ10』にせよ『FF14』にせよ
その圧倒的量すなわち遊べる楽しさの量が、
シリーズ中でもっとも楽しい作品であるかのように感じさせる。
ドラクエ1』でローラ姫を助けてグラフィックに反映されたとき。
ドラクエ2』でサマルトリアの王子が仲間になったとき。
ドラクエ3』で「そして でんせつが はじまった!」の字を
賢者の石片手にみたとき。
思い出補正は強く、その後何十年たってもその一瞬の感慨は強く胸に迫る。
それでも面白かったの量として『ドラクエ10』のほうが大きく感じる。


FF14』はFFシリーズの中でもっとも洗練されている。
遊びやすい。入っていきやすい。わかりやすい。
すぐに容易に強くなれるし無駄な作業感は少なく
イベントを次から次へと浴びるように見て進めていくだけで
その広さに無理なく到達することができる。
それも何年もかけて遊びやすいよう、正しく正しい方向へ正してきたからで
そしてそれが出来る仕組みだったからだろう。


オンラインRPGだからシリーズのどれよりも楽しい、
というだけでは全てではない。
長く続く形式であり、それゆえに修正がきき容量も膨大であるからこそ
ゲームの成立する形式と規模。
その方向と量の楽しさが、『FF14』の面白さだ。

 

 

 

 

 

FF14 + 2020年を振り返って

2020年を振り返って(前置き)


今年もいろいろありましたね皆様。


前回更新から、わりといつものことですが
ものすごく間が空きましたけれども、
普通に毎日ゲームを遊んではおりました。
なぜ間が空いたかというと『FF14』を遊んでいたのです。
あれな。オンラインRPGな。


ほぼおおむね毎日かかさずデイリーボーナス経験値分は遊んだので
全ジョブばっちり育っています。正しくは全クラスか。
が、お話をすすめている時間はあんまりなかったので
半年以上遊んでいるのにまだ半分ほどしか終わっていない。


そういうわけでずっと書くことが無かったので間が空いたのですが
年の区切りだし半分は終わっているわけだし
何より今日書くことが他に無いので、途中での感想を書こうかと思います。

 

ちなみに、その前は何をしていたのか。
もうずっとひとつのゲームばかり遊んでいたので
いまひとつ覚えていないのですが、
『花鳥風月』のあとは『三国志14』をだらだら遊んでいたと記憶しています。
あのころは緊急事態宣言とかで仕事が暇でした。なつかしい。
といって総量が変わるでなく、しわ寄せがぐぐい後ろに来るだけですけれど。
まあともかく、
三国志14』も一週間半でなく一週半くらい遊んで、
コーエーなのに、かなりシステム面に手を入れるバージョンアップを
まめにしていて感心なことよ、
でもゲームの中身は相変わらず人員配置と輸送手配をしているだけ、
何十年変わらずの開幕速攻大正義。
一度開戦したら全国統一まで全武将が宴会以外静止許されぬブラック国家。
戦乱の時代だからね残念でもなく当然よね。
かわらないなあ、という感想。
ではどこを変えろというのだ、と言われても困るけれども。
ひとつ思いつくのは、
史実でも仮想でもイベントをとにかくものすごく沢山用意して、
発動条件をある程度ゆるく、しかし明確にして、
プレイヤーが自身に縛りプレイを課すぶんには納得できるのかな、と。
そういう意味で本作はまあまあ良い感じなのではないでしょうか。
だったと思う。たぶん。


あと『あつまれ どうぶつの森』も遊んでいました。
いや遊んだと言えるほど遊んでいないので特に感想とかないのですが、
いつでも夜なのはちょっと。たまには昼間の島をみたかった。
スプラトゥーン2』も今年か去年か、ちょっと覚えていないですが
マッチング待ち時間が長いのが駄目。
FF14』は待つ間に他のことができるし
三国志/戦国大戦』で何分も待たされることは
何千回のうち片手で数えるほどしかなかったけれども。
任天堂のゲームはどうも合わない。
セガはやっぱり優秀だった。のに駄目駄目なのは
そのぶん他がいろいろあれなのでしょうねえ。


で、『三国志14』を一周半くらいしたとろで
FF14』が期間限定で無料で遊べるというのお知らせを目にし、
新規ゲームに手を出す気力がちょうどあったので、手を出して、
現在に至るわけです。


なお、その時分はそういう期間限定体験版てきな触れ込みだったのですが、
現在の整備されたフリートライアル制度では
全体の半分まで無料で開放されています。
おおきく4分割したうちの最初の2つの部分までが一か月無料。
つまり。
この私が半年かけて辿りついたところまで、だいたい全部無料。
なにそれひどい。


半年かけてそこまでしかあそべないのがひどい、のが正しいか。
しかしそれだけ無料開放しても商売成り立つんだなあ。すごいなあ。


あと『風花雪月』。鳥ではなく雪。宝塚歌劇団的なあれね。

 


ファイナルファンタジー14

英語とローマ数字で『FINAL FANTASY XIV』。ローマ数字でなくXIVか。
2010年にサービス開始。
「FF」シリーズでは2002年開始の『FF11』に続くオンライン専用作品。
そこから数えるともう10年選手の作品ですが、その後いろいろあった結果、
日本国内のゲームにおける大規模オンラインRPGでは
ドラクエ10』と並ぶ2大存在となって
現在も好調にサービスが継続しているようです。
オンラインRPGがそれだけ新規参入の壁高いのか
それとも売り切りではなく、何年も細く長く遊ぶのが今のゲームなのか。


2010年開始時の最初のVer.1が酷い出来で、当時の社長が失敗認めて
一から作り直して成功につなげた、という「伝説」も持っています。
『FF16』のプロデューサーは『FF14』のプロデューサーとディレクターを
その作り直し以降ずっと務めている有能なひとであるらしい。
何百人と関わっているゲーム制作において
誰が有能で誰がゲームを駄目にしているのかは
遊ぶこちら側からは測りようがない。当事者だって判らないかもですが。
でもなんとなく個人の手柄と原因にしたがりです。わかりやすいので。
まあともかく、『FF14』は作り直した結果、商売として成功しているのは確か。
Ver.1を完全になかったことにして
2013年、再度開始した「FF14」Ver.2のサブタイトルは「新生エオルゼア」。
英語で「A REALM REBORN」。
エオルゼア」は舞台となる地域の名前。「REALM」は「部分的な世界」のこと。
なおVer.1部分は完全に別物らしく、遊ぶことはできません。
FF11』ですらまだサービス継続しているのに。
こわいものみたさでどんなにひどいかみてみたいものではありますが。

 


ゲームの内容としては、世界規模で成功している『World of Warcraft』を
かなり参考にしているらしく、比較なしには語れないらしいらしいですが
遊んだことないし遊ぶ気もないし
そもそもこの手のゲームは他に『ドラクエ10』しか遊んでいないし
ドラクエ10』でも仲間はNPCしか使ったことないので、
以下、そういう狭い視野からの感想であるむね、ご了承ください。


ついでながら私が半年かかったところまでおおむね無料で遊べるのは事実ですが
アイテム課金でなく月額課金なので、
無料期間の1か月以内にクリアする必要があります。
いやお金払えば必要はないけれども。
全部入りのパッケージと、月額は¥1500くらい。
PS4版『ドラクエ10』と同じくらい。そういう相場なのでしょう。
半分配って継続課金で成り立たせる。そういうものなのだなあ。

 

 


FF14』の『ドラクエ10』と比較して最たる特徴は
「コンテンツファインダー」という仕組みです。
プレイヤー同士をマッチングして同じダンジョンに放り込むのですが、
FF14』では「レベルシンク(Level Sync. Sync:同期)」が行われ
上限レベル超えていると適正レベルまで弱体化。装備も使えるスキルとかも。
なので7年遊んでいるプレイヤーも今日始めたプレイヤーも
同じパーティで同じダンジョンを同じように楽しめるわけ。
なお弱いプレイヤーと組んで軟いダンジョンで戦っても
経験値は同期する前、現在のレベルに応じて入ります。
ドラクエ10』もそうでしたが、レベル上げの苦労はとても少なく、
普通に進めているとメインで使うクラス、職業、ジョブは
すぐに適正レベルを超えます。
いろいろな職で遊んでほしい、という作りになっています。


成長させ今まで苦労していた敵を容易に倒せるようになるのが気持ち良いのに
ダンジョン潜るたびに弱体化。
そんなことして何が面白いのか。
そこはパーティメンバーが、ネットのむこうで
人間が操作しているからこその面白さ。
ドラクエ10』は最初から最後までNPCだけでクリアでき、
いわゆるエンドコンテンツ、誰もが遊ぶ部分は終えてしまったひと向けの
高難度部分でだけ、人間が操作しての協力プレイが求められるのですが、
FF14』ではお話をすすめるには、数時間に一度くらい
「コンテンツファインダー」で他のプレイヤーと協力しながら
ダンジョンに潜らなければならない仕組みです。
オンライン越しに協力しなければ進められない。
ソロで無理やり挑戦もできますが、当然滅茶苦茶にレベルや装備が必要です。
また、レベルをあげるのにもっとも効率良いのも、
どのダンジョンに飛ばされるか判らない「コンテンツルーレット」で
一日一回のデイリー経験値ボーナスを積み重ねるのが最高となっています。
だからパーティメンバーが初心者だけ、ということはまず起こらない。
最初は右も左もわからない状態で放り込まれ
だんだん周囲がみえてきて
やがて他のプレイヤーへ不慣れなようす、
慣れているようでも、決して強いわけでも上手いわけでもなく、
知っているだけなのだ、ということを見てとれるようになると
ゲーム内能力値でなく、プレイヤーとして自分が成長した感が味わえるのです。


当然ダンジョンのつくりも「コンテンツファインダー」に合わせていて
1ダンジョンごと数体の中ボス、最奥に大ボス、道中雑魚敵が出現し、
慣れたプレイヤーだけでさくさく回って15分弱、
初心者を含むパーティがゆっくり隅々巡っても30分かからない規模のものが
何十と用意されています。
もちろん最初から全部に挑めるわけでなく、
お話進行の要所数時間ごとに配置され段階追って拡張されていく。
一度挑めるようになったダンジョンは、
いつでも何度でも、どこにいても挑戦できる。
宿屋の自分の部屋から一歩も出ずに
世界の逆側にあるダンジョンへとオンライン越しの誰かと共に挑んで、
また同じ部屋へ帰ってくる。


お話を進めるのに必須ではない、挑戦用のコンテンツとして、
とりわけ強いボスが一体構えていてそれを倒すだけ、というものも多数あり。
こちらは難度によっては「大縄跳び」と称されるように
敵の攻撃パターンとその対応を全員がばっちり頭に叩き込んで
終始正確に立ち回ることが要求されるものも。
足を引っ張るひとがいるとみんなが迷惑してとってもギスギスします。
慣れたプレイヤーだけなら10分とかからず終わるのに、
駄目なひとを介助しながら何度も何度も全滅。30分たっても終わらない。
ボイスチャットがあるわけでもないのに画面越しに伝わる皆のいらだち。
ううむこれぞオンラインRPGの醍醐味。


苦労の果てに初挑戦者が動きを覚えてくれてなんとかクリアしたときの解放感。
皆が決まり文句しか挨拶せず、NPCのような動きしかしないゲームとは、
違う感慨があります。
レベルを上げたことで苦労していた敵を倒せるようになる気持ち良さ、だけが
RPGというゲームではない。
その場かぎりの即席パーティを組んで協力しながらダンジョン進む。
下手うって電源切って逃げたくなったり、
何度も足引っ張るひとに舌打ちしながら
罵倒コメント打つ手を押さえてやわらかく指摘してみたり、
たまに笑える失敗をしてしまって和やかな雰囲気になったりするところこそが
FF14』の面白さの核と言えましょう。


もちろんこれは『FF14』だけのものではありません。
アナログでもデジタルでも1人用ではないゲーム全てが持つ面白さ。
「コンテンツファインダー」、すなわちFF14の特長は
それをゲーム全体における割合で、
幅広い人に気軽に何度も繰り返し長い期間にわたって
楽しめるようにしているところです。
様々なクラス、武器種、職業、ジョブが用意されていて、
いろいろな戦い方で遊べる。
ジョブはタンク、アタッカー、ヒーラーの役割(Role)分担が
パーティ内の人数という形で明確にされている。
それぞれのジョブに育てやすさや一人旅での苦労差や戦闘での活躍度合に
差が大きくなく、どのバトルコンテンツでも、すべての職に活躍余地がある。
逆にこの職でなければならないという場面が極力抑えられている。
上手い人が一人二人いればなんとなかなるのではなく、
全員が役割を果たすことが必要だけれど、その敷居はそこまで高くない。
協力バトルもので、これらの塩梅を
新規要素を常に追加しつつも長期に渡り保ち続けることが
いかに難しいことかは、
みているだけのこちら側からも容易に察せられるところ。


RPGというのは、王様にダンジョン潜って敵を倒してこいと言われ
命知らずの冒険者が請け負って、潜って、
1人で無理そうならパーティ組んで、
一度で無理そうならダンジョン前に基地つくってそれが町になって、
何度も何度も大勢が繰り返し挑戦してついに最奥までたどり着く、
というつくりのお話です。
「コンテンツファインダー」は、大規模RPG
広大な世界、様々な民族、文化、景色、広がりある舞台が売りであるそれに
ごく小規模なRPGを繰り返し多数何度もという形を無理なく組み込んでいる。
その在り様こそが上手い。


ちなみにもちろん知り合いとパーティを組んで会話を交わしながら
ダンジョンを攻略したりフィールドを歩き回ってレベリングしたり
イベント進めたりも、もちろんできます。
したことないけれど。たぶんもちろんできるはず。
そういうの壁高いとおもってオンラインRPG、いやアクションも含め、
オンラインでチームを組み協力して遊ぶすべてのゲームを敬遠しているひとは
ゲームを遊ぶひとたちのなかでも相当の割合に及ぶと思いますが
FF14』も『ドラクエ10』も、それぞれの方法でその解決策を提示している。
FF14』は、対人対戦ゲームのマッチングのように、
その場かぎりのパーティを組ませて
適度に短く相応にクリアした手ごたえあるダンジョンに挑むことを
ゲームを進める主要課題として用意することで。
ドラクエ10』は他プレイヤーの育てたキャラクターを
NPCとしてどこへでも連れまわせることで。


そんなに感心するようなことか、アクションゲームを含めるなら
いくらでもあるというか当たり前では、とは言えるでしょうが
対人対戦やオンライン協力プレイのないRPGも、あるというのはなぜか。
FF14』はダンジョンアタックしている時間がすべてでなく、
お話進めたり装備整えたり各地をまわってお使いしたり景色ながめたり
1人用ゲームですることと同じことをする時間のほうがむしろ長い。
どちらもある。どちらにも違った価値、おもしろみや手ごたえがあって
どちらも遊ぶことが出来ることに価値がある。
それが大規模オンラインRPGというものなのでしょう。

 

 


これはどうかなあというところもあります。
高難度ボスとの戦いで動きを覚えておかなければ皆の足を引っ張る。
ということは、事前に情報調べて攻略動画みて予習しておけ、
という意見も当然でてくるわけです。
また普通のダンジョンでも予習しておかないと
なぜかいきなり全滅。なぜ全滅したのかわからない、
というような仕掛けが決して少なくない。
敵の攻撃の多くは予兆、これからこの範囲にこの攻撃がくるよ、
という情報提示があり
だから避けて、知っていて見ていれば確実に避けられるのだから
ダメージはすごく大きく、いきなり全滅するようなのもあるよ、
という作り。
いろいろな職業に意味持たせ、全員が万能職ではなく、
敵の攻撃を受ける役のタンク、主に回復を行うヒーラー、
ダメージ効率を追求するアタッカー、『FF14』ではDPSという名称ですが、
こららの役割分担を明確にすることで、各プレイヤーが
そのとき何をすればよいかをわかりやすくする。
そういうことと、知っていれば避けれれる、知らないと大ダメージ、
だから何度も挑戦して知って、
キャラクタ能力だけでなく、プレイヤー知識と操作スキルで
クリアできるようになって欲しい、というつくり。
方向性としてはぶれていないと思います。
手ごたえある、RPGでありながら自分が上手くなった感触味わえる戦闘で
ただレベルあげて殴るだけの作業とはまったく違う。
ドラクエ10』と比べ『FF14』のえらいひとが称賛される傾向なのもわかる。
ただ、手放しに誉めて良いのかというと疑問がある。
クリアしてもしなくても良いものと、クリアして欲しいものを
もっと明確にわけるべきなのではなかろうか。
7年たったものを半年遊んだだけだからズレもあるだろうけれども。

 


舞台背景の描写は「FF」らしいファンタジー、手間暇かかった壮大なもの。
PS3当時向けの7年前からの作品だけに粗もあるにせよ、
それぞれの地域が変化に富み写真にとって収めたくなる美しさを持っています。
FF7とか8とか10とか13とかでなく9とか12っぽいのが良い。偏見。
そこで暮らすひとたちも、まあ例によって売っているものに魅力はなく
頼まれるのはお使いばかりではあるのですが
極端にデフォルメ、縮尺を変えて表現されているとはいえ
世界の広がりを感じさせるし、
それぞれのミニクエストは、それなりにどれも
舞台背景に思い入れを持たせてくれる質のもの。


いっぽうで、主軸となるお話は、
7年たっても終わらない、
いつまでも終わってしまうことを求められない舞台世界というもので
まとまりのついたお話を展開するというのは難しい、と思わせます。
FF14』にも明確に敵と言える相手や勢力がいて
星の意志のもと「光の戦士」となって戦う立場であって
味方側にもいろいろあり、敵にもいろいろあり、
王様の命令でお姫様を助け出せばめでたしめでたしというだけのお話ではない。
現実にすっきり解決永遠に完結などという問題などは無いように
どこまでもどこまでも光と闇の戦いは続くのであって、
まあわかるし、工夫しているのも伝わるけれど、
いつまでも終わらないことが分かっているだけに、わりとどうでもよくなる。


新しい土地について新しい景色をみるのは楽しい。
サブイベントでお使いこなしてゲーム内の誰かが少し幸せになることは
手間をかけた甲斐と終わらせられた感慨を得られるのだけれども、
クリアしてもなんどもなんどでも再発生するイベントは
どんなにゲーム内の誰かが困っていようが手を出す気になれない。
FF14で言えば「F.A.T.E」。
街の外のフィールドでモンスター退治をするミニイベントだが
自分専用ではなく、パーティを組んでいなくても通りがかっただけでも
協力できるイベントのため、終わらせても一定時間たつと復活する。
自分の進行度合いに紐づいて発生したイベントではなく
世界そのものに発生しているイベントだから。だから永遠に解決しない。
モンスターに襲われているひとを助けても
またおなじひとがおなじ場所でおなじく襲われ、おなじ感謝のことばをつく。
街角に24時間立ち続けてサービス終了のその日まで同じ台詞を繰り返す。
キャラクターではない。背景景色。
そういうものだからと割り切ってみても寒々しい。


ゲーム内のデータを書き換えて、ゲーム内の誰かが不幸が拭われようが
経験値とお金で強くなろうが、現実として誰かが喜ぶわけではない。
自分が気持ちよくなるだけである。
そんなことになんの意味があるのか。ゲームを遊ぶってそういう自己満足なのだ。
だからこそ、手を出そうが出さなかろうが
変わらない終わらない話は、価値を持ちがたい。
ではどうすれば良いか。
大団円でお話完結して、
あとはなんのイベントも発生しない舞台でダンジョンに繰り返し潜っていて
それで満足できるのか。


現実はどこまでも続く。続いて欲しい。
自分がその世界に介在する時間は限られている。現実でもゲーム世界でも。
いつまでも続いて欲しい一方で、
きちんときれいに終わって気持ち良く離れさせても欲しい。
細く長く続くゲーム、遊びの、どれもが持つ課題で、
むしろ商売としてほどほどに失敗して、
きちんとサービス終了したゲームの方が美しいのかもしれない。
そこから得られる楽しさの総量は少なかったとしても。

 


FF14』は確かに良くできたゲームである。
ドラクエ10』も、すくなくもVer.2まではシリーズのなかでどれよりも面白く
遊ばずにシリーズを語るべからずという出来栄えだったが、
FF14』も「FF」シリーズの中でどれよりも面白かった。
なお『11』『15』は遊んでいないので除く。
『8』とか『10』とか『13』とか偏見フィルターが分厚く掛かって曇っている。
もとい、半年ににわたり熱心に長時間遊んだし、
いちおう現行Ver.4の最後まで遊びたいとおもっている。
もう半年かけるのかと思うといささか壁が高いけれども。


これはなぜなのだろうか。やはりオンラインならではの面白さなのだろうか。
しかし『ドラクエ10』はたいしてオンラインゲームとして遊んでいない。
FF14』でもコンテンツファインダー以外でパーティを組んでいない。
それでも染み込むほど、オンラインの力が強いのか、
単純にもっとも近くに遊んだゲームだから印象が強いだけなのか。


少なくとも『FF14』のコンテンツファインダーの面白さは
細く長く一日30分遊ぶゲームとして代えがたい。
メインは白魔道士で、みんなが頑張っているのを後ろから眺めるのが楽しい。
ミスしたDPSをいきかえらせてさしあげる時の生殺与奪握りたる感は
我ながら自身の小ささがおかしい。
タンクはだまっておれについてこい職。
道を間違えてもみんな何か理由があるのだろうとついてきてくれる。あわわ。
Bアライアンスも楽しい。24人の先陣切って突っ込む高揚感。
戦場の一番槍ってこういう感じだったのだろうか。
DPSはとっても忙しい。地面をみて攻撃避けつつ効率効率最高効率。つらい。
でもはた目からはすごいか駄目かよくわからない。きらく。


そこには一人用RPG、一人用アクションゲームにはない面白さがある。
それが一日30分、一日50円で、
ゲーム内でどこにても、お話の進行がどの段階でも、楽しめることが偉大だ。
そしてそれが1人でも遊べるRPGの中に無理なく、
ダンジョン潜る楽しみのために多くの部分が奉仕するほど全体を活かして、
組み込まれて成り立っている。
そこが『FF14』の面白さ、評価されるところと思う。

 

 

2020年を振り返って(あとがき)


今年もいろいろありました。
3月以降ゲーム販売店に一度も行っていないので世間にまったくうとい。
PS5が発売されたことは風のうわさで聞いておりますが
XBOXの最新版がなんという名称の機械なのか存じ上げないれべる。
今年の話題作もまったくわからない。


今年遊んだゲームは上であげたほかには『御城プロジェクトRE』くらい。
これも細く長く一日30分ゲーム。いや5分かな。週に1度1時間で毎日5分。
そういうゲームだからこそ続く。そういうゲームばかり遊ぶ。
そういうゲームで隙間時間を埋めて
一日ごとのゲーム遊んだ感を満たして一年が過ぎる。
本も読みたい、あれもしたいこれもしたい、
時間ができたらあそこへ行きたいあれもしたい。
ゲームについても、あれもそれもどれもかれもを遊んでみたいが、
一日の長さも一年の長さも変わらないので
そうしているだけでは時間ができようはずもなし。
たまに時間ができても、
新しいゲームにとりつく気力を奮い起こすのに大いに努力を必要とする。
積みゲームが山になっていく。


これが現状ではあるのですが、悪いとは思っていないのです。
遊びたいゲームがある。毎日少ない時間でも遊んで楽しんでいる。
来年2021年も、そういう平和な毎日をすごしていきたい。
もちろん時間にゆとりがあって、
いろいろなゲームに手を出してもみたいけれども。
新しいゲームを遊びたい。昔のゲームを遊び返したいとはあまり思わない。
細く長く、コーエーですら『三国志』をこまめにVer.UPするご時世。
常に新しくより良く、ゲームは昔よりずっときれいに、
おおむね遊びやすく前に進んでいると感じている。
新しいものが出難くはなっているのかもしれないけれども。


2020年も終わりです。
2021年、平穏な良い年でありますように。
良い年をお迎えください。また来年。

 

 

 

FF14 + 2020年を振り返って

2020年を振り返って(前置き)


今年もいろいろありましたね皆様。


前回更新から、わりといつものことですが
ものすごく間が空きましたけれども、
普通に毎日ゲームを遊んではおりました。
なぜ間が空いたかというと『FF14』を遊んでいたのです。
あれな。オンラインRPGな。


ほぼおおむね毎日かかさずデイリーボーナス経験値分は遊んだので
全ジョブばっちり育っています。正しくは全クラスか。
が、お話をすすめている時間はあんまりなかったので
半年以上遊んでいるのにまだ半分ほどしか終わっていない。


そういうわけでずっと書くことが無かったので間が空いたのですが
年の区切りだし半分は終わっているわけだし
何より今日書くことが他に無いので、途中での感想を書こうかと思います。

 

ちなみに、その前は何をしていたのか。
もうずっとひとつのゲームばかり遊んでいたので
いまひとつ覚えていないのですが、
『花鳥風月』のあとは『三国志14』をだらだら遊んでいたと記憶しています。
あのころは緊急事態宣言とかで仕事が暇でした。なつかしい。
といって総量が変わるでなく、しわ寄せがぐぐい後ろに来るだけですけれど。
まあともかく、
三国志14』も一週間半でなく一週半くらい遊んで、
コーエーなのに、かなりシステム面に手を入れるバージョンアップを
まめにしていて感心なことよ、
でもゲームの中身は相変わらず人員配置と輸送手配をしているだけ、
何十年変わらずの開幕速攻大正義。
一度開戦したら全国統一まで全武将が宴会以外静止許されぬブラック国家。
戦乱の時代だからね残念でもなく当然よね。
かわらないなあ、という感想。
ではどこを変えろというのだ、と言われても困るけれども。
ひとつ思いつくのは、
史実でも仮想でもイベントをとにかくものすごく沢山用意して、
発動条件をある程度ゆるく、しかし明確にして、
プレイヤーが自身に縛りプレイを課すぶんには納得できるのかな、と。
そういう意味で本作はまあまあ良い感じなのではないでしょうか。
だったと思う。たぶん。


あと『あつまれ どうぶつの森』も遊んでいました。
いや遊んだと言えるほど遊んでいないので特に感想とかないのですが、
いつでも夜なのはちょっと。たまには昼間の島をみたかった。
スプラトゥーン2』も今年か去年か、ちょっと覚えていないですが
マッチング待ち時間が長いのが駄目。
FF14』は待つ間に他のことができるし
三国志/戦国大戦』で何分も待たされることは
何千回のうち片手で数えるほどしかなかったけれども。
任天堂のゲームはどうも合わない。
セガはやっぱり優秀だった。のに駄目駄目なのは
その分他がいろいろあれなのでしょうねえ。


で、『三国志14』を一周半くらいしたとろで
FF14』が期間限定で無料で遊べるというのお知らせを目にし、
新規ゲームに手を出す気力がちょうどあったので、手を出して、
現在に至るわけです。


なお、その時分はそういう期間限定体験版てきな触れ込みだったのですが、
現在の整備されたフリートライアル制度では
全体の半分まで無料で開放されています。
おおきく4分割したうちの最初の2つの部分までが一か月無料。
つまり。
この私が半年かけて辿りついたところまで、だいたい全部無料。
なにそれひどい。


半年かけてそこまでしかあそべないのがひどい、のが正しいか。
しかしそれだけ無料開放しても商売成り立つんだなあ。すごいなあ。


あと『風花雪月』。鳥ではなく雪。宝塚歌劇団的なあれね。

 


ファイナルファンタジー14

またの表記を『FINAL FANTASY XIV』。2010年にサービス開始。
「FF」シリーズでは2002年開始の『FF11』に続くオンライン専用作品。
そこから数えるともう10年選手の作品ですが、その後いろいろあった結果、
日本国内のゲームにおける大規模オンラインRPGでは
ドラクエ10』と並ぶ2大存在となって
現在も好調にサービスが継続しているようです。
オンラインRPGがそれだけ新規参入の壁高いのか
それとも売り切りではなく、何年も細く長く遊ぶのが今のゲームなのか。


2010年開始時の最初のVer.1が酷い出来で、当時の社長が失敗認めて
一から作り直して成功につなげた、という「伝説」も持っています。
『FF16』のプロデューサーは『FF14』のプロデューサーとディレクターを
その作り直し以降ずっと務めている有能なひとであるらしい。
何百人と関わっているゲーム制作において
誰が有能で誰がゲームを駄目にしているのかは
遊ぶこちら側からは測りようがない。当事者だって判らないかもですが。
でもなんとなく個人の手柄と原因にしたがりです。わかりやすいので。
まあともかく、『FF14』は作り直した結果、商売として成功しているのは確か。
Ver.1を完全になかったことにして
2013年、再度開始した「FF14」Ver.2のサブタイトルは「新生エオルゼア」。
英語で「A REALM REBORN」。
エオルゼア」は舞台となる地域の名前。「REALM」は「部分的な世界」のこと。
なおVer.1部分は完全に別物らしく、遊ぶことはできません。
FF11』ですらまだサービス継続しているのに。
こわいものみたさでどんなにひどいかみてみたいものではありますが。

 


ゲームの内容としては、世界規模で成功している『World of Warcraft』を
かなり参考にしているらしく、比較なしには語れないらしいらしいですが
遊んだことないし遊ぶ気もないし
そもそもこの手のゲームは他に『ドラクエ10』しか遊んでいないし
ドラクエ10』でも仲間はNPCしか使ったことないので、
以下、そういう狭い視野からの感想であるむね、ご了承ください。


ついでながら私が半年かかったところまでおおむね無料で遊べるのは事実ですが
アイテム課金でなく月額課金なので、
無料期間の1か月以内にクリアする必要があります。
いやお金払えば必要はないけれども。
全部入りのパッケージと、月額は¥1500くらい。
PS4版『ドラクエ10』と同じくらい。そういう相場なのでしょう。
半分配って継続課金で成り立たせる。そういうものなのだなあ。

 

 


FF14』の『ドラクエ10』と比較して最たる特徴は
「コンテンツファインダー」という仕組みです。
プレイヤー同士をマッチングして同じダンジョンに放り込むのですが、
FF14』では「レベルシンク(Level Sync. Sync:同期)」が行われ
上限レベル超えていると適正レベルまで弱体化。装備も使えるスキルとかも。
なので7年遊んでいるプレイヤーも今日始めたプレイヤーも
同じパーティで同じダンジョンを同じように楽しめるわけ。
なお弱いプレイヤーと組んで軟いダンジョンで戦っても
経験値は同期する前、現在のレベルに応じて入ります。
ドラクエ10』もそうでしたが、レベル上げの苦労はとても少なく、
普通に進めているとメインで使うクラス、職業、ジョブは
すぐに適正レベルを超えます。
いろいろな職で遊んでほしい、という作りになっています。


成長させ今まで苦労していた敵を容易に倒せるようになるのが気持ち良いのに
ダンジョン潜るたびに弱体化。
そんなことして何が面白いのか。
そこはパーティメンバーが、ネットのむこうで
人間が操作しているからこその面白さ。
ドラクエ10』は最初から最後までNPCだけでクリアでき、
いわゆるエンドコンテンツ、誰もが遊ぶ部分は終えてしまったひと向けの
高難度部分でだけ、人間が操作しての協力プレイが求められるのですが、
FF14』ではお話をすすめるには、数時間に一度くらい
「コンテンツファインダー」で他のプレイヤーと協力しながら
ダンジョンに潜らなければならない仕組みです。
オンライン越しに協力しなければ進められない。
ソロで無理やり挑戦もできますが、当然滅茶苦茶にレベルや装備が必要です。
またレベルをあげるのにもっとも効率良いのも、
どのダンジョンに飛ばされるか判らない「コンテンツルーレット」で
一日一回のデイリー経験値ボーナスを積み重ねるのが最高となっています。
だからパーティメンバーが初心者だけ、ということはまず起こらない。
最初は右も左もわからない状態で放り込まれ
だんだん周囲がみえてきて
やがて他のプレイヤーへ不慣れなようす、
慣れているようでも、決して強いわけでも上手いわけでもなく、
知っているだけなのだ、ということを見てとれるようになると
ゲーム内能力値でなく、プレイヤーとして自分が成長した感が味わえるのです。


当然ダンジョンのつくりも「コンテンツファインダー」に合わせていて
1ダンジョンごと数体の中ボス、最奥に大ボス、道中雑魚敵が出現し、
慣れたプレイヤーだけでさくさく回って15分弱、
初心者を含むパーティがゆっくり隅々巡っても30分かからない規模のものが
何十と用意されています。
もちろん最初から全部に挑めるわけでなく、
お話進行の要所数時間ごとに配置され段階追って拡張されていく。
一度挑めるようになったダンジョンは、
いつでも何度でも、どこにいても挑戦できる。
宿屋の自分の部屋から一歩も出ずに
世界の逆側にあるダンジョンへとオンライン越しの誰かと共に挑んで、
また同じ部屋へ帰ってくる。


またお話を進めるのに必須ではない、挑戦用のコンテンツとして、
とりわけ強いボスが一体構えていてそれを倒すだけ、というものも多数あり。
こちらは難度によっては「大縄跳び」と称されるように
敵の攻撃パターンとその対応を全員がばっちり頭に叩き込んで
終始正確に立ち回ることが要求されるものも。
足を引っ張るひとがいるとみんなが迷惑してとってもギスギスします。
慣れたプレイヤーだけなら10分とかからず終わるのに、
駄目なひとを介助しながら何度も何度も全滅。30分たっても終わらない。
ボイスチャットがあるわけでもないのに画面越しに伝わる皆のいらだち。
ううむこれぞオンラインRPGの醍醐味。


苦労の果てに初挑戦者が動きを覚えてくれてなんとかクリアしたときの解放感。
皆が決まり文句しか挨拶せず、NPCのような動きしかしないゲームとは、
違う感慨があります。
レベルを上げたことで苦労していた敵を倒せるようになる気持ち良さ、だけが
RPGというゲームではない。
その場かぎりの即席パーティを組んで協力しながらダンジョン進む。
下手うって電源切って逃げたくなったり、
何度も足引っ張るひとに舌打ちしながら
罵倒コメント打つ手を押さえてやわらかく指摘してみたり、
たまに笑える失敗をしてしまって和やかな雰囲気になったりするところこそが
FF14』の面白さの核と言えましょう。


もちろんこれは『FF14』だけのものではありません。
アナログでもデジタルでも1人用ではないゲーム全てが持つ面白さ。
「コンテンツファインダー」、すなわちFF14の特長は
それをゲーム全体における割合で、
幅広い人に気軽に何度も繰り返し長い期間にわたって
楽しめるようにしているところです。
様々なクラス、武器種、職業、ジョブが用意されていて、
いろいろな戦い方で遊べる。
ジョブはタンク、アタッカー、ヒーラーの役割(Role)分担が
パーティ内の人数という形で明確にされている。
それぞれのジョブに育てやすさや一人旅での苦労差や戦闘での活躍度合に
差が大きくなく、どのバトルコンテンツでも、すべての職に活躍余地がある。
逆にこの職でなければならないという場面が極力抑えられている。
上手い人が一人二人いればなんとなかなるのではなく、
全員が役割を果たすことが必要だけれど、その敷居はそこまで高くない。
協力バトルもので、これらの塩梅を
新規要素を常に追加しつつも長期に渡り保ち続けることが
いかに難しいことかは、
みているだけのこちら側からも容易に察せられるところ。


RPGというのは、王様にダンジョン潜って敵を倒してこいと言われ
命知らずの冒険者が請け負って、潜って、
1人で無理そうならパーティ組んで、
一度で無理そうならダンジョン前に基地つくってそれが町になって、
何度も何度も大勢が繰り返し挑戦してついに最奥までたどり着く、
というつくりのお話です。
「コンテンツファインダー」は、大規模RPG
広大な世界、様々な民族、文化、景色、広がりある舞台が売りであるそれに
ごく小規模なRPGを繰り返し多数何度もという形を無理なく組み込んでいる。
その在り様こそが上手い。


ちなみにもちろん知り合いとパーティを組んで会話を交わしながら
ダンジョンを攻略したりフィールドを歩き回ってレベリングしたり
イベント進めたりも、もちろんできます。
したことないけれど。たぶんもちろんできるはず。
そういうの壁高いとおもってオンラインRPG、いやアクションも含め、
オンラインでチームを組み協力して遊ぶすべてのゲームを敬遠しているひとは
ゲームを遊ぶひとたちのなかでも相当の割合に及ぶと思いますが
FF14』も『ドラクエ10』も、それぞれの方法でその解決策を提示している。
FF14』は、対人対戦ゲームのマッチングのように、
その場かぎりのパーティを組ませて
適度に短く相応にクリアした手ごたえあるダンジョンに挑むことを
ゲームを進める主要課題として用意することで。
ドラクエ10』は他プレイヤーの育てたキャラクターを
NPCとしてどこへでも連れまわせることで。


そんなに感心するようなことか、アクションゲームを含めるなら
いくらでもあるというか当たり前では、とは言えるでしょうが
対人対戦やオンライン協力プレイのないRPGも、あるというのはなぜか。
FF14』はダンジョンアタックしている時間がすべてでなく、
お話進めたり装備整えたり各地をまわってお使いしたり景色ながめたり
1人用ゲームですることと同じことをする時間のほうがむしろ長い。
どちらもある。どちらにも違った価値、おもしろみや手ごたえがあって
どちらも遊ぶことが出来ることに価値がある。
それが大規模オンラインRPGというものなのでしょう。

 

 


これはどうかなあというところもあります。
高難度ボスとの戦いで動きを覚えておかなければ皆の足を引っ張る。
ということは、事前に情報調べて攻略動画みて予習しておけ、
という意見も当然でてくるわけです。
また普通のダンジョンでも予習しておかないと
なぜかいきなり全滅。なぜ全滅したのかわからない、
というような仕掛けが決して少なくない。
敵の攻撃の多くは予兆、これからこの範囲にこの攻撃がくるよ、
という情報提示があり
だから避けて、知っていて見ていれば確実に避けられるのだから
ダメージはすごく大きく、いきなり全滅するようなのもあるよ、
という作り。
いろいろな職業に意味持たせ、全員が万能職ではなく、
敵の攻撃を受ける役のタンク、主に回復を行うヒーラー、
ダメージ効率を追求するアタッカー、『FF14』ではDPSという名称ですが、
こららの役割分担を明確にすることで、各プレイヤーが
そのとき何をすればよいかをわかりやすくする。
そういうことと、知っていれば避けれれる、知らないと大ダメージ、
だから何度も挑戦して知って、
キャラクタ能力だけでなく、プレイヤー知識と操作スキルで
クリアできるようになって欲しい、というつくり。
方向性としてはぶれていないと思います。
手ごたえある、RPGでありながら自分が上手くなった感触味わえる戦闘で
ただレベルあげて殴るだけの作業とはまったく違う。
ドラクエ10』と比べ『FF14』のえらいひとが称賛される傾向なのもわかる。
ただ、手放しに誉めて良いのかというと疑問がある。
クリアしてもしなくても良いものと、クリアして欲しいものを
もっと明確にわけるべきなのではなかろうか。
7年たったものを半年遊んだだけだからズレもあるだろうけれども。

 


舞台背景の描写は「FF」らしいファンタジー、手間暇かかった壮大なもの。
PS3当時向けの7年前からの作品だけに粗もあるにせよ、
それぞれの地域が変化に富み写真にとって収めたくなる美しさを持っています。
FF7とか8とか10とか13とかでなく9とか12っぽいのが良い。偏見。
そこで暮らすひとたちも、まあ例によって売っているものに魅力はなく
頼まれるのはお使いばかりではあるのですが
極端にデフォルメ、縮尺を変えて表現されているとはいえ
世界の広がりを感じさせるし、
それぞれのミニクエストは、それなりにどれも
舞台背景に思い入れを持たせてくれる質のもの。


いっぽうで、主軸となるお話は、
7年たっても終わらない、
いつまでも終わってしまうことを求められない舞台世界というもので
まとまりのついたお話を展開するというのは難しい、と思わせます。
FF14』にも明確に敵と言える相手や勢力がいて
星の意志のもと「光の戦士」となって戦う立場であって
味方側にもいろいろあり、敵にもいろいろあり、
王様の命令でお姫様を助け出せばめでたしめでたしというだけのお話ではない。
現実にすっきり解決永遠に完結などという問題などは無いように
どこまでもどこまでも光と闇の戦いは続くのであって、
まあわかるし、工夫しているのも伝わるけれど、
いつまでも終わらないことが分かっているだけに、わりとどうでもよくなる。


新しい土地について新しい景色をみるのは楽しい。
サブイベントでお使いこなしてゲーム内の誰かが少し幸せになることは
手間をかけた甲斐と終わらせられた感慨を得られるのだけれども、
クリアしてもなんどもなんどでも再発生するイベントは
どんなにゲーム内の誰かが困っていようが手を出す気になれない。
FF14で言えば「F.A.T.E」。
街の外のフィールドでモンスター退治をするミニイベントだが
自分専用ではなく、パーティを組んでいなくても通りがかっただけでも
協力できるイベントのため、終わらせても一定時間たつと復活する。
自分の進行度合いに紐づいて発生したイベントではなく
世界そのものに発生しているイベントだから。だから永遠に解決しない。
モンスターに襲われているひとを助けても
またおなじひとがおなじ場所でおなじく襲われ、おなじ感謝のことばをつく。
街角に24時間立ち続けてサービス終了のその日まで同じ台詞を繰り返す。
キャラクターではない。背景景色。
そういうものだからと割り切ってみても寒々しい。


ゲーム内のデータを書き換えて、ゲーム内の誰かが不幸が拭われようが
経験値とお金で強くなろうが、現実として誰かが喜ぶわけではない。
自分が気持ちよくなるだけである。
そんなことになんの意味があるのか。ゲームを遊ぶってそういう自己満足なのだ。
だからこそ、手を出そうが出さなかろうが
変わらない終わらない話は、価値を持ちがたい。
ではどうすれば良いか。
大団円でお話完結して、
あとはなんのイベントも発生しない舞台でダンジョンに繰り返し潜っていて
それで満足できるのか。


現実はどこまでも続く。続いて欲しい。
自分がその世界に介在する時間は限られている。現実でもゲーム世界でも。
いつまでも続いて欲しい一方で、
きちんときれいに終わって気持ち良く離れさせても欲しい。
細く長く続くゲーム、遊びの、どれもが持つ課題で、
むしろ商売としてほどほどに失敗して、
きちんとサービス終了したゲームの方が美しいのかもしれない。
そこから得られる楽しさの総量は少なかったとしても。

 


FF14』は確かに良くできたゲームである。
ドラクエ10』も、すくなくもVer.2まではシリーズのなかでどれよりも面白く
遊ばずにシリーズを語るべからずという出来栄えだったが、
FF14』も「FF」シリーズの中でどれよりも面白かった。
なお『11』『15』は遊んでいないので除く。
『8』とか『10』とか『13』とか偏見フィルターが分厚く掛かって曇っている。
もとい、半年ににわたり熱心に長時間遊んだし、
いちおう現行Ver.4の最後まで遊びたいとおもっている。
もう半年かけるのかと思うといささか壁が高いけれども。


これはなぜなのだろうか。やはりオンラインならではの面白さなのだろうか。
しかし『ドラクエ10』はたいしてオンラインゲームとして遊んでいない。
FF14』でもコンテンツファインダー以外でパーティを組んでいない。
それでも染み込むほど、オンラインの力が強いのか、
単純にもっとも近くに遊んだゲームだから印象が強いだけなのか。


少なくとも『FF14』のコンテンツファインダーの面白さは
細く長く一日30分遊ぶゲームとして代えがたい。
メインは白魔道士で、みんなが頑張っているのを後ろから眺めるのが楽しい。
ミスしたDPSをいきかえらせてさしあげる時の生殺与奪握りたる感は
我ながら自身の小ささがおかしい。
タンクはだまっておれについてこい職。
道を間違えてもみんな何か理由があるのだろうとついてきてくれる。あわわ。
Bアライアンスも楽しい。24人の先陣切って突っ込む高揚感。
戦場の一番槍ってこういう感じだったのだろうか。
DPSはとっても忙しい。地面をみて攻撃避けつつ効率効率最高効率。つらい。
でもはた目からはすごいか駄目かよくわからない。きらく。


そこには一人用RPG、一人用アクションゲームにはない面白さがある。
それが一日30分、一日50円で、
ゲーム内でどこにても、お話の進行がどの段階でも、楽しめることが偉大だ。
そしてそれが1人でも遊べるRPGの中に無理なく、
ダンジョン潜る楽しみのために多くの部分が奉仕するほど全体を活かして、
組み込まれて成り立っている。
そこが『FF14』の面白さ、評価されるところと思う。

 

 

2020年を振り返って(あとがき)


今年もいろいろありました。
3月以降ゲーム販売店に一度も行っていないので世間にまったくうとい。
PS5が発売されたことは風のうわさで聞いておりますが
XBOXの最新版がなんという名称の機械なのか存じ上げないれべる。
今年の話題作もまったくわからない。


今年遊んだゲームは上であげたほかには『御城プロジェクトRE』くらい。
これも細く長く一日30分ゲーム。いや5分かな。週に1度1時間で毎日5分。
そういうゲームだからこそ続く。そういうゲームばかり遊ぶ。
そういうゲームで隙間時間を埋めて
一日ごとのゲーム遊んだ感を満たして一年が過ぎる。
本も読みたい、あれもしたいこれもしたい、
時間ができたらあそこへ行きたいあれもしたい。
ゲームについても、あれもそれもどれもかれもを遊んでみたいが、
一日の長さも一年の長さも変わらないので
そうしているだけでは時間ができようはずもなし。
たまに時間ができても、
新しいゲームにとりつく気力を奮い起こすのに大いに努力を必要とする。
積みゲームが山になっていく。


これが現状ではあるのですが、悪いとは思っていないのです。
遊びたいゲームがある。毎日少ない時間でも遊んで楽しんでいる。
来年2021年も、そういう平和な毎日をすごしていきたい。
もちろん時間にゆとりがあって、
いろいろなゲームに手を出してもみたいけれども。
新しいゲームを遊びたい。昔のゲームを遊び返したいとはあまり思わない。
細く長く、コーエーですら『三国志』をこまめにVer.UPするご時世。
常に新しくより良く、ゲームは昔よりずっときれいに、
おおむね遊びやすく前に進んでいると感じている。
新しいものが出難くはなっているのかもしれないけれども。


2020年も終わりです。
2021年、平穏な良い年でありますように。
良い年をお迎えください。また来年。

 

 

 

ファイアーエムブレム 風花雪月


ファイアーエムブレム 風花雪月 -Switch (『TCGファイアーエムブレム0』限定カード「士官学校の新任教師ベレト」 同梱)


30年間で17作品も発売されている定番SRPGファイアーエムブレム』シリーズ。
四角マス目に区切られた戦場で部隊を指揮して戦争するゲーム。
各隊は兵種でなく率いるキャラクタの能力として表現され、
戦場経験によるレベルアップで強化。
キャラクタ間の友好度などの関連性も育てる必要があるが、
逆に補給や生産の概念はほぼない、という枠組みはおおむね30年変わらずあり、
最新作を遊んも、いまだにこのままなのか、と感慨深い作品。

 

といいつつ系譜見返したら遊んだのはGC蒼炎の軌跡』以来、
数えて実に15年ぶりであった。
15年か。15年。
15年ですよ奥様。
あらやだおたくのお子さんたらちょっとみないうちに大きくなっちゃって
あっという間ね月日の経つのは早いわねえ。
いやはやわれながら何十年ゲームを遊んでいることか。
なお「『Fire Emblem』は「ヤー」でもなく「エン」でもない」は
この15年、流石に定着した気がする。
それだけ「エムブレム」もあたりまえ化したと言えるのか。
ネットの一局面だけの見方にしても。

 

で、なぜそれほど間が空いたのかといえば特に理由はなく、
しいて「エムブレム」をその間に遊ぶ気が起きなかったからである。
あるいは2001年『ティアリングサーガ』2002年『封印の剣』2003年『烈火の剣
2004年『聖魔の光石』2005年『蒼炎の軌跡』『ベルウィックサーガ』と
シリーズ作品が当時発売され過ぎた反動かもしれない。
もちろん全部を遊んだわけでもないのだが視界には入り食傷するわけで、
短期間に飽和するほど集中させれば良いというものでもないのは
違くはないとは思う。
ついでに言うと2004年に『ゲームボーイウォーズアドバンス1+2』、
2005年に『ファミコンウォーズDS』が出ており、
このあたりのインテリジェントシステムズ大攻勢はなんなんだと今みて思う。
なお『突撃!ファミコンウォーズ』はもちろん別物である。
『ティアリング』『ベルウィック』はもちろん同類である。

 

というわけで、何しろ15年ぶりであり
さらに正直『ティアリング』『烈火』『蒼炎』あたりがごっちゃになっていて
記憶あいまいな気持ちで遊んだのだが、
中身はほんとうに昔の「エムブレム」。
あのころの印象と変わっていない。
自軍が全ユニットを動かした後に敵軍が全ユニットを動かすという完全交代制。
現実味とか戦術的なゲーム性などという概念など知らぬと言わんばかりの
極端過ぎる仕組もそのまま。


もちろん、この昔のままであるところは、
あえて選んでそうしている本シリーズの個性なのだろう。
それでも面白いのだ。何十年前ままの「ゲーム性」でも
「エムブレム」という「ゲーム」は現在も通用するのだと。
実際のところ、他の「SRPG」に属するゲームがあたりに殆どみられないなかで
ひとり「エムブレム」だけが通用し続けているようにみられるのは、
今に至る選択が正しいひとつの証左なのだろう。

 

 


本作のタイトルは「花鳥風月」ではなく「風花雪月」。
あえて捻ったことに深淵な意図があるのかもしれないが不明。
鳥でなく雪。タカラヅカの組み分けか中華風なのか。不明である。

 

上に書いた通り15年開いているので近作との違いはさっぱりわからないが、
15年前との違いで言うと、遊びやすさはかなり変化している。
戦場は全体傾向として明らかに適度に狭くなり、出撃部隊数も絞られていて
1戦闘あたりに掛かる時間は大きく減っている。
回数制限はあるが「待った」が有り、
何より戦闘中に倒れても死亡扱いにならないモードも用意されている。
戦闘中の指示においても、1人ずつの行動を決定する前に
どこに移動させることでどの敵が誰に攻撃するかが明示される。
時を止められるどころか未来視できて時間も戻せる。
相手にしてみればこれでどうやって勝てとな圧倒的強さ差。


いずれもゲーム進行速度を大きく改善させており
ワンミスリセットのあのころは隔世の感。
ノーマル難度はぬるぬるも良いところで
誰にでも投げ出さず最後まで遊んでほしいという心地の粋。
とことん気軽に遊べるよう均らされている。
特に、このゲームで戦闘不能になっても良いということは
特攻しても最後の一人がボス敵を倒せれば良いわけなので
逆にボス敵の破天荒な強さが表現できそうで
まったく異なるゲームにもかえられそうだが、現状は中途半端。
思い切って従来の死んだら終わりは無くしても良かったのでは。
どうせ「待った」するのだし、したいひとは自分で縛れば良いのだし。
そこまでは「エムブレム」でなくは出来なかったか。
それでも、リセットして頭からやり直すことが「エムブレム」なのだ、
という枠から抜け出したのは驚きを覚える。


例えばレベルアップ時の能力値成長がランダムであるのは
そのまま残されているのを見ても、
製作者がどれを「エムブレム」として残すべきか判断の上で
選択しているのは見て取れる。
これらの変化は、いずれもあたりまえのかくあるべき変化で改善と、
簡単に決めつけることはできない。
あまりに容易に解けるSRPGにゲームとしての面白さなどないからだ。
話の続きを、キャラクタたちの活躍をもっと見続けていたいが
SRPG部分でつまづきたくないひとたちにも遊び続けてもらいながら、
「エムブレム」の面白さをどう訴求するか。
「エムブレム」らしさ、そのゲームとしてどこが面白いのかと
より広いひとたちに向け楽しんでもらえるゲームとしての広さとを
比べ合わせて変わってきたものなのだろう。
何が正解かは難しいが、そういうものだからそうなのだと
無思慮に続いてきたわけではないことが
現在まで続いてきた結果につながっている。

 


SRPGのゲームとしての面白さは、単純に言えば「詰将棋」のようなパズルだ。
それを与えられた情報から正しいとされる手順をより多く選べたほど
高い報酬が得られるゲームとして展開する。
そして対人対戦戦争シミュレーションボードゲームでなく
対コンピュータの1人用テレビビデオゲームであるからには
上手く操作することが良い評価に結び付くゲームでなければならない。
SRPGで言えば、敵軍と自軍の強さ差だ。
適度に強い敵、手加減されていると感じない程度の難しさの壁を、
あっさりではなく、情報を吟味し用意された手段を尽くせば、
なんとなかりそうでなんとかなる程度の試行で乗り越えられる強さの差。
理想と現実をの差をこのあたまで判断しこの指で操作して埋められる快感。
それが「SRPG」、「ファイアーエムブレム」だ。


その実現すべき面白さを、ゲームとしてどのように実現するか。
どれだけの情報をどのときに与えるのが、
公平であると信じさせ適度な手ごたえと感じさせることが出来るか。
攻撃は何回のうち何回外れることがばらつきとして納得され得、
クリティカルはどの割合で発生することが安定性を対価とした歓びとなるか。
そしてそれらは部隊の配置や戦場に至るまでの準備で何がどれくらい補えるか。
それぞれのゲームの仕組みごとに適度さの範囲は異なり
絶対の正解は遊ぶ相手により異なる。
同じ難度を同じ人間が遊んでも、情報の理解度合すなわち見えている範囲で
感じようは如何にも異なる。
相手の様々な段階に合わせた適度さは出来得る限り高精度に越したことはないが
そこに手間を掛けた度合がゲームの面白味に比例するわけでもない。


結局、多くのひとに興味をもってもらう間口の広さ、
最後までほとんどのひとが到達できてかつ、お話としての感慨だけでなく
ゲームとしての解いた感触を苦労に見合うより多く与えられているかという
結果だけがすべてだ。
手段はどうでも良いのだ。
「エムブレム」というゲームである必要はないのだ。
好きなキャラクタが活躍する心躍るお話こそがまず求められるのだ。
それがSRPGというゲームなのであり、面白さである。

 


もうひとつ大きく変わっているのが、
これは本作からの大きな売りであるようだが、
成長させる仕組みが戦闘経験値でのレベルアップによる職変更だけでなく、
士官学校での教育で、各人技能を成長させていく形になっている点。
お話は月毎に章立てされて月末に固定強制戦闘があり、
それに向けて学校で仲間と会話して仲を深め、雑魚戦闘で経験値とお金を稼ぎ、
それぞれの個性に合わせどの職に成長させるか先を見据えて技能を育てていく。
仲間との友好さがお話としては重要でも
ゲームとしてはそこまで重要にはできないところまで
まさに『3』以降の「ペルソナ」シリーズのそれ。
ガワを変えれば戦闘が「エムブレム」な「ペルソナ」最新作で通ずる作り。
ペルソナ3』がそれだけSRPG規格において画期的に優れていたというべきか、
それを取り込めた「エムブレム」が良くしたりというべきなのか。


パッケージにもある通り赤青黄色の3クラスが用意されていて、
冒頭で主人公がどのクラスの担任になるかを決め
以降そのクラスの生徒を仲間としてお話が展開していく。
それぞれのクラスは「エムブレム」伝統に従い
各国お偉方御子息で占められているから
必然やがてかつての学友と三国間戦争勃発して盛り上がるわけ。
三周して全貌が見えるのは『烈火の剣』のようであり
生徒たちの成長が描かれるのは『聖戦の系譜』を思わせ
主人公の立ち位置は『蒼炎の軌跡』を思い起こさせる。
なんでお坊ちゃまお嬢ちゃまが先頭に立って戦闘してるのか、
リアルリアリティが壊れているとか言ってはいけない
そういうものである。お客がそういうのを求めているから商品は在るのだ。
現実的な容姿で現実的な性能の有象無象が華々しくない泥沼戦争する現実と
どちらが見ていて操作していて楽しいか。当然の帰結である。


絶好調任天堂ブランドだけあって予算の潤沢さを感じさせ
戦闘前後のイベントはもちろん、
街中でのちょっとした仲間たちとの会話にも、きちんと音声が振られている。
アニメシーンの出来と言い、『新サクラ大戦』と比較して
母体活力の異なりを察しずにはおれない。
見た目の映え良さにしても
昔日「エムブレム」の美男子キャラにおける輪郭のぐにゃぐにゃ感を思えば
任天堂もここまできたかと思わず涙。
基本無課金でキャタクタ入手に課金させているシリーズに何を今更ではあるが。
『風花雪月』にどうこういうより『ファイアーエムブレム ヒーローズ』で
任天堂がどれだけ儲けているかいないのかに
焦点を当てるべきなんだなのかもしれないが、
その手のゲームに課金するひとの心境をいささかも理解できないので資格なし。
本作の仲間たちの名前も音声付きなのにかいもく覚えられない。向いていない。
三周したのにどういうお話だったかもう覚えていない。
顔絵と性能はいいかげん一致するようになったけれども。

 

 

さて、『風花雪月』の出来栄えなのだが、
レベル一定に達したところで職業変更するしかないので
レベルアップ毎の能力上昇値を吟味するという旧態依然から、
戦闘を経ずとも一定技能に達することで各職につくことができ
それぞれの職変更は戦闘前にに自由に行え、
職業ごとに能力上昇傾向があるので、
キャラクタの個性と全員の得意分野の凹凸を見定めて
長所を伸ばし短所を潰すべく様々な職を経由させて成長させていく、
という仕組みは、面倒だし目新しくも何もないけれど、昔よりは良いと思う。


もっとも問題なのはノーマル難度が簡単すぎることではなかろうか。
赤青黄色の三周が前提としてあるといっても
昨今の据え置きゲームに当然求められる性能として一周は40時間程度掛かる。
最初の10時間はノーマルでも良いだろう。
しかし中盤からだれる。途中で難度変更できないのだ。簡単すぎるのだ。
ユニット性能情報をまったくみなくとも
一群となって進軍し囲んでぼこればどうにでもなる。
また戦場を狭くし出撃人数を限り
一戦ごとの負担を軽くするため戦場展開で起こるイベントを単純にしたことで
この大勢で1人を囲むがどこでも通用してしまう。
一戦ごとが軽くなったのは良い。
誰にでもとっつきやすいよう簡単にしたのも良い。
しかしこれではSRPGとしての面白さに気付かないまま
お話の気に入る入らないだけで味わわれてしまうのではなかろうか。
ノーマルだけで遊び終えたひとのどれだけが計略をボス以外に使ったことか。


基本的なところは流石によくできている。
SRPGという単純に完成した仕組をきちんと磨き上げている。
どの職業にもキャラクタにも武器にもアイテムにも使いどころがあり
英雄物語のSRPGにおける再現度合として文句のない仕上がりだ。
いまだにこれなのか、と思い
いまでもこのままのか、と思うが
それでもこれでも良いのだ、これが『ファイアーエムブレム』だと納得できる。

 


SRPGというものをかつて、
広く容易に様々なキャラクターバトルものを再現できる仕組である、と
勝手に判断していたが
現実には広く容易にSRPGが市場に遍在しているようには思われない。
結局それは、
15年ほど前のSRPG群がすでにおおよそ出来上がっていたからであり
あとは内に籠って他との違いを練磨していくしかなかったからなのか。
それともいまだにこのまま、新しい物が産み出せていないだけなのか。
SRPGという分類の中にある必要がないだけなのか。


ファイアーエムブレム』がSRPGである必要はないのだ。
時代に合わせ周りに合わせ商品として求められる形に変わって
しかし面白ければそれで良いのである。
今のところいまだに「エムブレム」はSRPGだが
果たして15年後、30年後はどうなっているか。
そう、そのころもまだ、任天堂も『ファイアーエムブレム』もあるのだろうし。

 

2019年回顧

また1年の終わりがやってまいりました。
しかたなくしかたなく読み返して、
現時点で思うことを書いていきたいと思います。
昔と比べて量少なく楽には違いないけれど、
自分で書いた文章を読み返す億劫さは変わりなし。

今年はかなり均等に4ヵ月ごと3回。
4ヵ月ごと書こうと決めていたとかではなく、たまたま。
謎の年間ばりおりずむに支配されている。
ここ数年そういう配分であるところをみると
年に3回くらいゲームについて放出すれば十分なくらいが
自分の中のゲーム分なのだなあ。


今年のゲーム周辺のできごとですが、
画期となる特段大きな出来事はなかった感じ。
SwitchでTVモニタへの出力を廃した
携帯専用の「Nintendo Switch Lite」が9月に出ました。
ポケモン」も気づけばいつの間やら携帯用でない見た目に。
ちょっと前、25年くらい前は白黒だったのになあ。
いよいよ携帯据え置き間でみための違いは無実なことに。
ゲーム売り場はますます縮小して、
ネット眺める時間にゲームを遊ぶ時間がどこまで抗せるか。
ゲームとして面白いかより
話題になっているか次第が優先され過ぎるのは、
たかが一消費者ながらも憂慮すべきことではありますが。

クラウドゲームなどの話題もありましたが、
むしろ「PlayStation Now」とかの定額制、subscriptionの方が
2019年の単語といえるかもしれません。
そんなに遠くないうちに、ゲームはオンライン上に存在し
基本無料か遊ぶ時だけお金を払う形式が主流となるのかも。
従来のゲームセンターに置かれるようなゲームが
完全なくなることはないにせよ、書籍電子化よりは変化しそう。

 


さてでは以下は、今年遊んだ順に思い返していきます。


ドラゴンクエストビルダーズ2』

去年末にも書いたので付け加えることもなし。
1年以上前なので本格的に忘却の彼方だけれど、
現在の印象としては以下IGNレビューに珍しくおおむね賛成。
https://jp.ign.com/dragonquest-builders-2/31930/review/2
『1』は面白かった。『3』は出るのかなあ。
とはいえ、『マインクラフト』が遊ばれている総量に比べると
所詮「ドラクエ」ブランドも蟷螂の斧。
『マインクラフト』は本屋に沢山関連書籍が並んでいて
一回クリアしたら終わりの遊び方しかしない勢には
永久に到達できない世界と感じさせます。
ポケモン」にせよ、これも世代の違いよね。

 

三国志大戦(新)』
週1遊んでいる、と書いていますが、その後月1になり、
昨日遊んだのは数か月ぶりだった。
そんなで語る資格があるのかな話ではあるけれど
実は頂上対決、毎日更新される公式リプレイ動画は
すべて欠かさず見ているのである。
https://www.sangokushi-taisen.com/movie/battle.html

だから一日10分分の資格はある。はず。
土日は2試合載るので年50時間くらいは見ている計算。
これは文句なし。のはず。たぶん。
プレイ動画見るだけでしったかしていけない法律はない。
ない。ないけれど、浅くて薄いことは自覚しようと自戒を込めて。


あと14年前から書いている繰り返しですが
三国志大戦』を遊ばず
ゲームの面白さについて語る資格はないのであります。
それくらい斬新なのだ、だったのよ当時はさ。
どれくらい遊べば語る資格初級が獲得できるかというと
とりあえず頂上対決だけ見て
わかった気になっているひとよりは遊ぶべきだ。
それくらいハードル低くても良いから
面白いので遊んでほしい。試してほしいなあ、高いけど。
無料で遊べるゲームがいくらもあるのに
わざわざゲームセンターまで行き何千円も払うのは
おかしい世界、なぜ成り立つ市場環境なのか不思議には思う。
見目麗しキャラクタユニットの入手籤に何万円と払うのと
どちらがおかしいかといえば、どっちもどっちかもしれないが。

 

龍が如く0
今年『シェンムー3』が発売されました。
U.SUZUKIにわれわれが求めていたのは
アウトラン』とか『スペースハリアー』とか
バーチャファイター』であり、『F355チャレンジ』ではなく、
まして「シェンムー」続編ではなかった。
最新技術を使った、セガらしい斜め上の凄いゲームをこそ
期待していたのだけれど、
御本人の作りたいものは違ったのだなあ、と思う。
時代の変遷もあるのかもしれないけれど、悲しいことだ。
と遊んでもいないのに勝手なことを書く。


いや違うよ「シェンムー」の続きが遊びたいんだ、
というひとも当然いるだろうけれど、自分はそうは思わない。
シェンムー」の続編にどういう新しさが期待できるか。
続きって分割では。『FF7』リメイクと同じなのでは。
長くて長大なお話は分割して水増しして作って売って許されるのか。
いや良いのかもしれない、
続けて遊んで面白いならそれでも良いのかもしれないけれど、
シェンムー」がいつか完結したとき、そうあるとは思えない。


ゲームを作るのがどんどん手間かかるようになっているのはわかる。
だからといって、もとひとつだったものを分けて売るのはどうなのか。
マンガも何十冊も続けば確実に名作なのか。
5冊10冊で完結していても長々作品より優れているものはある。
完結していなくても既存部分だけで既に素晴らしい、という理屈もある。
そういうものもあるだろう。でも『FF7』や「シェンムー」がそうなのか。
映画的な面白さという面からすれば、
分割して完結していない部分がどんなに映像や俳優演技で素晴らしくとも、
それはその作品としての良さ、価値とは別物ではなかろうか。
ゲームではそんなもの目指していないのだろうか。


龍が如く」の面白さも「シェンムー」同様よくわからなかったけれど
では「ドラクエ」の、RPGのどこが面白いのか、といわれると難しい。
殴るのが人間でなくモンスターならそれで良いのか。
勇者として世界を救うのは気持ち良くて
現代世界で認められるのはそうではないのか。
RPGも、いやゲーム体験自体が、その題材に興味がなければ
操作していても面白がれないものかもしれない。
今までは目新しさだけで引き付けてこれたのだけれど。

 

『仁王』
12月に『新サクラ大戦』を遊んだらダッシュ移動ができない。
会話イベントの選択肢が選べない。
おかしい、こんなわかりやすいバグがあって話題にならないはずがない。
それでようやく、PS4コントローラのLスティックが
正しく入力できない状態になっていることに気付く。
ドラクエ10』ではまったく気にならなかった。
新しいコントローラ買ってきたら『新サクラ』がふつうに遊べて
試みに『仁王』を遊び直してみたら快適。
ええ今までのは何だったのなんでそれでクリアできてたの自分。
なぜ気づかない。おおまぬけ。


いやだって「ゼルダ」のダンジョン仕掛けがクリアできないとき
まさかバグだとは思わないでしょう。思うけれど。
まさかアクションゲームで操作が上手くいかない理由が
コントローラ壊れているからなんて思うわけがない。いや思ったけれど。
思ったけれど、まさか本当に壊れているとは疑わない。
いや疑ったけど、コントローラ買い替えるほどまでには思わなかった。
よしこれで『SEKIRO』も楽勝だな。歳は関係ないぞ。
クリアできなかったらコントローラがまた壊れているに違いないな。

 

ドラゴンクエスト10
現在はversion5.0が発売されているけれど、買っていないし遊んでいない。
versionいくつで完結するのかわからないけれど、
完結したら続きを遊ぶかというと、たぶん間違いなく遊ばない。
大規模なオンラインRPGにほぼ一人用モードとはいえ
触れたのは初めてなので、様々な目新しさがあり楽しく遊べたのですが
では「ドラクエ」って面白いのか、といわれるとわからない。
オンラインごしに協力しあい『ドラクエ10』を遊ぶのは面白い。
でも『ドラクエ12』が1人用だったら面白がれるのだろうか。
『11』はなぜ出来が悪くないのにあまり良い印象がないのか。
自分のゲームを遊ぶ日々の習慣時間が
もはや何十時間か1人で少しづつ積み上げるように遊ぶゲームと
あっていないのではなかろうか。
過去最高に面白かった、良くできていたと思っているRPG
20年ほど前くらいに遊んだPCエンジンの『天外魔境2』なのだけれど
果たして記憶を消して今、『天外2』を遊んで面白いだろうか。
ドラクエ10』は面白かったのかそうでなかったのか。
と書いて思ったけれど、
そんなこと思い悩んでも結論はないな。
実際遊ばないわけであるし、新しいゲームを遊ぶ時間で一杯だ。

 

 

幕間
ドラクエ10』から『新サクラ』間に何も遊ばなかったわけではなく、
もちろんいろいろ手を出してはいたのである。
出そうとしてはいたのである。


Switchは「ゼルダ」しか遊んでいなかったので活用せねばと
買ってきたのが『スプラトゥーン2』。
WiiUからの新規作品ながらすでに定番の風格。
4対4の対人対戦で、敵を撃ち倒す技術があまりなくとも
地面をペンキで塗りつぶすことでチーム勝利に貢献できる点が
従来の銃を撃ちあうチーム対戦ゲームとの違いであるが、
それくらいしか違いがない。任天堂もこういうゲームを作るのだなあ。


しかし遊んでいて何が面白いのかもうひとつわからない。
特に新しくないのでは。普通に銃を撃ちあうゲームでは。
みため変え任天堂が出すことで従来より広い層に訴求しただけなのでは。
ボーダーブレイク』とかと何が違うのかわからない。
めんどい。マッチングで8人揃うのを待っていられない。
『マリオオデッセイ』もめんどい。『スマブラ』も遊ぶ気になれない。
任天堂が面白いと思っていることの何が面白いのかわからない。
とは、あまりに偏狭なみかただが、ひとことで言えば、合わない。
対人対戦ツールとして出来が良いからの評価なのだ、と言われれば
そうですか、そうなんですね、とは思うけれども。
実際多くのひとが楽しんで遊んでいるのに
自分が興味ないからけなすことになんの意味があるのかである。


そしてまた、他にもSwitchのゲームを何本か買ったけれど、
どれも思い出せない、ここに書く気が起らない程度に印象に残らなかった。
たぶんおそらく出来が悪いわけではなく、自分に合わなかったのだろう。
見立てを間違えたのだ。何が自分に面白そうかの想定が違っていたのだ。
ドラゴンクエストヒーローズ1・2』もまったく面白味を感じなかったが
『三国無双』や『戦国無双』だと面白がれたのだろうか。
PS4の『パペッティア』のような、丁寧に良くできているのに
誰も受け取らなさそうな作品を見ると、
言葉にしがたい悲しさを勝手に想起する自分がある。
ただ狭い自分ひとりがそう受け取っているだけで、
周囲全てにその正しさが及ぶかのように当たり前に錯覚する。
それに仮に、もしそうであるあまりに不遇な存在があったとしても
誰か一人でも心底その作品を愛し受け止めているひとがいるのであれば、
そこに難癖をつける方がおかしいのに。売る側でもあるまいに。

 


さてそうしてそういうわけで、
何本も買ったのにことごとく外れ、いや合わず、
自分の遊べなさにげんなりしているうちに
数か月が過ぎ去った。
何しろこの間は、もう何年も遊んでいる『御城プロジェクトRE』の
ログインすらしなかったし
ゲームセンターへ行く気も起らなかった。

 

何をしていたかというと仕事をしていたのだが、
仕事はこれまでもしていたのだから
ゲームをする時間がまったくなかったわけでもない。
おそらく、ゲームをしたい意欲が削がれていたのである。
毎日帰ってくるのが22時過ぎで気力体力が追いつかなくて
週末くらいしか時間が取れなかったからではない。はず。
続きはまた一週間後、これで遊ぶ気を維持するのがどれだけ大変か、
とかそういうことではない、と思う。

 


そして12月になっていた。

 

 

『新サクラ大戦
12月になり暇になったわけではなく余暇時間も変わらなかったが、
ようやくゲームをする気がすこし回復。
『DEATH STRANDING』が良いらしい。
花鳥風月、じゃなくてなんたらかんたらの『エムブレム』が良いらしい。
しかし買ってきたのは『新サクラ大戦』であった。


サクラ大戦」である。
あれはゲームじゃないだろう、ゲーマーにあるまじき選択だ、などと
戯れに自嘲しないわけでもないけれど、
『マリオオデッセイ』『スプラトゥーン2』を投げ出して取り繕う資格もない。
頭空っぽでいい、操作覚える努力も
ゲームの仕組みを入れる必要もないものを遊びたかったのだ。
いや、より正しく言うなら、
遊ばないとならなそうなものではなく、遊びたいものを選んだのである。
『Detroit: Become Human』も『Marvel's Spider-Man』も遊んでおきたいし
The Last of Us』や『大鷲のトリコ』すら未だ遊んでいないが、余力がない。
隙間がない。頭に入らない。気力が湧かない。


そして一昨日書いた通り。
『新サクラ』は決して傑作ではないが、昔ながらの「サクラ大戦」だった。
期待以上ではないが期待以下でもない面白さだった。
正直アニメシーンはひどいと思う。
20年以上前の初代、『ときメモ』とかの同期だった時代にすら
あんなひどい絵はなかったように思う。解像能は悪かっただろうけど。
エンディングやオープニングですら酷い。誰があれで良いと思えるんだ。
なぜ見せ場のイベントシーンで使うことに誰も疑問を抱かないのだろうか。
どうして20年経って退化しているのか。
許せる最低線に達していない。無料で描き直させていいくらいなのでは。
でもまあ続編下手には定評あるセガだし。
ゲームの出来栄え管理の駄目さ加減は信頼できるのがセガだし。
それに『ペルソナ5』もアニメシーンはそんなに良くなかったから
今のアニメってそういうものなんだろう多分。
昔のように、ふつうの絵が当たり前にかけるひとが希少なのだろう。
なんでそんな業界が存在していられるのかさっぱり理解はできないけれど。
でもゲームの面白さ、遊んでいての楽しさにはそんなに関係ないから良いのだ。
良くはないけど、小難しい高踏なゲームを遊びたかったのではない。
高品質に越したことはないとは思うよセガさん。なんで成長できないんだ。
まあゲームとしては「サクラ大戦」していたから良かった。
遊んで良かった。良い選択だった。
また、「サクラ大戦」は何が面白いのか、を書く機会が持てたことも良かった。

 

 

そして現在に至る。
ちなみに『御城プロジェックトRE』は12月から再開。
以前書いたように、平日は1日10分でよく、
土日に遊べばちゃんとついていけるこのゲームの有り様は素晴らしい。
もうタワーディフェンスはこれだけで良いくらい気に入っている。
単に日本の戦国時代が好きなだけと言われれば否定もしないが。
1円も払っていないことにはまこと良心が咎めるが
払うに値するものがないから困る。
遊び続けるのに値するものは提供してくれているのに。

 

今年の感想は、できばえともかく面白がれるものは面白かった。
できばえ関係なく、自分が興味持てないものを面白がる余裕がなかった。
このサイトではゲームの何が面白いのかに管を巻いているけれど
出来の良し悪しではない、同時代の他と比較してどうだったかではない、
まして売れたかどうかではない。
遊んで自分が面白いかどうかなのである。そうでしか有り得ないのである。
面白ければ良し。次回作の発売日が楽しみと思えるような出来ならなお良し。
そのためには売れているほど期待もできる、という因果関係なのだ。


来年はとりあえず『エムブレム』の新しいのを遊んでみようかと思っています。
毎日遊びたくなるようなゲームを選べるよう幸運に恵まれますように。


ではまた2020年に。良い一年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

 

新サクラ大戦

サクラ大戦」は1996年に1作目が出て
2005年に5作目が出たのち、これまで続編が出ていなかったが
14年ぶりに続編が発売された。
タイトルは『新サクラ大戦』だが舞台背景は同じで
中身も、たしかにあの『サクラ大戦』だと感じさせる。


『新サクラ大戦』は前作から作中で10年ほど経過しており
登場人物の多くも一新している。
ゲームとしては、戦闘部分がターン制で仲間全機を順に動かすSRPGから
主人公機と僚機を切り替えながら戦うアクションに変更されている。
全体は複数の話に区切られ、前半で仲間との交流と事件の発端が描かれ
後半は戦闘パートで敵を倒して勝利、次回へ続くという流れは同じ。
主人公を除く仲間はみな「攻略」対象であるヒロインであり
その構造はなんとも古めかしい、べたべたの「ギャルゲー」である。


あの単純でひねりのない「サクラ大戦」を今出して果たして面白がれるのか。
そこが『新サクラ』の注目点だったが、
戦闘部分こそ時代相応に変わっているものの、
旧「サクラ大戦」シリーズが他の「ギャルゲー」と比較して傑出していた、
ただヒロインを「攻略」することが「ゲーム」の面白さでなく
そのばかばかしくも愛すべき舞台世界に浸れる「ゲーム」である、
自身の美点をきちんと理解した、真に正統な続編といえる出来ばえである。
懐かしい。


ただ、14年ぶりだから懐かしいだけであって、
旧を知らないひとが遊んで面白いのかはわからない。
旧シリーズのヒロインもお話の主要登場人物として登場し
『新サクラ1』のお話も旧シリーズの影を追うもの。
14年途切れたとはいえ前を一切無視するわけにはいかない、
といって新規に遊んでくれる層にも
面白さをわかってもらえるものでなければならない。
一作ごと完結しながら舞台設定を共通するシリーズ続編の難しさは
これぞ正しいやり方、というものが無いように思う。
逆転裁判」シリーズなども同じ難題に突き当たったものであり、
サクラ大戦5』でシリーズが一端途絶えたのも同じことで、
一作ごとの評価に、続編としての収まりようが含まれてしまうことから
逃れ得ない難しさは、
過去の評価を頼みにできること以上に利益対効果の見通しを暗くする。


それでも今、例えば「アイドルマスター」シリーズなどが
「ゲーム」としてある中に
旧「サクラ大戦」の面白さを正しくなぞる『新サクラ』が
どのようにどう受け入れられるのかは興味深いところ。

 

 


旧「サクラ大戦」は当時、何があれだけ受け入れられたのだろうか。
何しろ1996年、23年前の当時であるからして、
そのころの他作品とひとつづつ比較しなければ正しい評価をしようがなく
現在思うところを並べたてても捏造でしかない。
またその要素は当然ひとつではないだろう。
ゲームとして、今見れば古く凡庸であるように見えても
当時の市場において他と比較し優れていた面がなかったはずがない。
例えば初代『ときめきメモリアル』の発売が1994年。
そこではゲームとして目新しさがあった。良くできていた。
上手く時宜を得た。売り方が上手かった。
商業的にみて9年間に5作品が出るほど成功したという結果だけは間違いない。
同時に、それだけ人気があったのになぜそこで途絶えたかの理由も、
同じくひとつで言えることではない。
他と比較して埋もれてしまう内容だった。出来が悪かった。
新しさがなくなった。売り方がまずかった。出し過ぎて飽きられた。
やはり14年前に立たなければ、その当時なぜに答えは得られない。


しかしながらこんにち、『新サクラ』を遊んでみて、
懐かしさと共にゲームとしての面白さも
ふるびてかすれてすりきれきってはいないことに気付く。
現在からみると古い。他で見たことのないような新らしさはない。
何が「サクラ大戦」の面白さなのだろうか。

 

 

ゲームたる部分を見ると、
先に書いたように「アドベンチャー」部分と「SRPG」な戦闘部分でできている。
ヒロインのいる場所を選び、会話イベントで好感高まる選択肢を選ぶ。
仲良くなれば戦闘部分で能力値にプラス効果がある。
それが「アドベンチャーゲーム」であったが
この「戦闘ユニットと仲良くなることで能力を高めるゲーム」を
どれだけ「ゲーム」として他と差別化できるだろうか。


イベント発生の期間や機会を制限する。
正解だったのかの判定や効果をわかりづらくする。
正解を選ぶこと自体の難度を上げる。
多くの「アドベンチャーゲーム」製作者が、
この現在もこの限られた選択肢のゲームを使って新しいゲームを作りたいと
意欲表明しているのを目にするが
果たして「アドベンチャーゲーム」の新規性ある選択が
ゲームの評価につながった例がどれくらいあるだろうか。
多くはお話の筋書きや、それを演出する表現への評価であって、
この「ゲーム」に求められているのは、
正しく正解を選べたという評価への納得感にしかないように思う。
ミステリなどでは、それこそが「ゲーム」意義であるかもしれないが
「ゲーム」のに流れる時間の速さや量がミステリに向いているとはとても思えない。


何のために選択させているのか。
アクションゲームのように、
臨機応変状況に応じた効果的操作ができたかで判定するのは評価基準が明確だ。
対戦ゲームであればアクション要素がなくとも選択肢の結果に納得できる。
「アドベンチャー」ではどうか。
そこまでに提示された様々な要素から、
例えば、話しかけたキャラクタがその状況でどのような応えが返ってくることを
話しかけられたキャラクタに求めているかが、答えを見て納得できるかどうか。
それが一応の基準と思える。
しかし「ゲーム」では、お話にとって必要な展開へと導かれる応えでなければ
答えとして評価しない場合も求められる。
納得できないが必要だ。現実でも納得できないことには慣れているではないか。
それが日常ではない冒険というものなのだ。
しかしそこにアクションや対戦ゲームのような「ゲーム」である意義はない。
「ゲーム」として必要なことは納得できても、
正解のない選択肢を選ぶことがゲームなのかという失望だけが残る。

 

話し戻して、「サクラ大戦」の「アドベンチャーゲーム」は、
正解の選択を選ぶことは容易な種のゲームである。
選択した結果ごと異なるヒロインの反応を楽しむためのものである。
ヒロインの好感度合が最も下がる、つまり誤った選択肢を常に選び続けたとしても
戦闘部分がクリア不可能になるわけではない。
つまりヒロインを「攻略」する必要がない。それで話が行き詰ってしまうことはない。
ヒロインを「攻略」して仲良くなることが目的の「恋愛シミュレーション」と
その点異なるのだと言えないこともないかもしれないが、していることは同じである。
サクラ大戦」はヒロインと仲良くなるのが目的ではない、とは断じて言えない。

 

戦闘部分はいわゆるSRPG。行動順が回ってきたら移動して攻撃。
RPGとして能力育成の要素はなく、「アドベンチャー」での選択肢結果による補正のみ。
敵と仲間との位置取りと、回数や発動に制限ある必殺技を効果的に撃てるかどうか。
アニメーションや演出では高速で空中を駆け回ったりするが
「ゲーム」としては妄想で補うしかない。
地道に単対多の状況をつくるよう立ち回ることの繰り返しで
最高に能力が高まっていれば一撃で敵を灰燼に帰さしめるような波乱はない。


ここでしいて、「サクラ大戦」が特徴的である点を挙げるならば、
RPGな育成要素がないところとなるだろう。
仲間との交流による能力補正と、育成成長能力の個性付けは何ら矛盾しないことは
多くのゲームが採用していることから証明されている。
能力成長そのものがないことで各機の戦闘能力個性に着目する機会がなく、
ひるがえってはヒロイン個性演出機会も潰していないか。
煩雑さを避けて脇の経験値稼ぎのみが目的となる機会を設けなかったとしても
戦闘評価による能力補正もないのはなぜなのか。

 

現在から見れば、
サクラ大戦」のゲームとしての仕組みはSRPGを中心として良くあるものである。
基本無料でアイテム課金ゲームにもあふれるほどあるものでもある。
仲間の紹介と事件の演出部分に、ゲームたるバトルシミュレーション。
当時としては、仲間が全員攻略対象であるヒロインであることが
重大な他との差別点であったろうが、現在ではいうまでもない。

 


先に書いたように、20年以上前の当時なぜ「サクラ大戦」が売れたのかではない。
今遊んで何が面白いのか。


仕組は目新しくなく良くあるゲーム。
簡単で詰まるようなところはない。
上手く操作する必要は低い。成長要素なく単純である。
お話部分はあまりできが良いとは思えない。
伏線あるいはミスリードかと思わせるような台詞になんの意味もなかったり、
敵はわかりやすく悪で、味方が思い悩む理由もいかにも浅い。
話の規模は壮大なはずなのに、限られた登場人物しか戦っている描写がなく、
なんともからっぽでやすいつくりである。


ばかばかしい。でも面白さがあるのだ。
勧善懲悪、因果応報、破邪顕正。お話はとても単純。悪人は悪い、味方は正義。
世界を救うため少数の犠牲はやむを得ないか。断じて否。全員救ってこそ正義。
仲間との信頼。敗北からの再起恢復復活。そう、悪を蹴散らし正義を示すのだ。
いってみれば時代劇や子供向けヒーローもののお約束で出来ている。
時間内に事件が起こり、展開し、悪を懲らしめ、日常に戻る。
その形式は単純で驚きがないが、だからこそ安心安全に見ていられる。
絶体絶命の危機には、必ず最高のタイミングで味方が助けに現れる。
これを、展開がわかっているのに何が面白いのか、と非難するのはできない。
そうなることがわかっていても面白いからだ。
勝つのがわかっているのに戦うことになんの意味があるのか。
勝つことが気持ち良いからだ。正義は心地良いからだ。
一切後ろめたくなく罪の意識にさいなまれることのない善などあり得ない。
しかし善と正義の概念は矛盾しない。娯楽の場に勧善懲悪の心地良さは否定できない。
サクラ大戦」はゲーム作品として極めて稀に、
そいうばかばかしい子供じみた裏表のない作品形式を、その形式の持ち味を、
自覚してわかってあえて採用しているのが、他にない特長である。


そしてもう一点評価すべきは、ゲームの仕組みからみてもお話のありかたからみても
これが最初、1996年発売の『サクラ大戦』から変わっていないことだ。
単純なゲームである。成長要素もない。だから戦闘で良い評価を得る必要もない。
ヒロインの関心を得るのも極めて容易。お話が詰まることも無い。
だからときにあえて間違っていると判っている選択ができる余裕もある。
遊ぶことができる。
ひとつひとつの要素は現在から見て、目新しくなく手が掛かっているわけでもなく
技術的にすごくもなく、質が高いものでもない。
しかし、できる範囲でどれを選ぶかの選択においては確固たる軸があり誤っていない。
それが23年前の最初から出来ていることが素晴らしい。
初代から確固として完成している。
ゲームの基礎構造は未だ単純だが、しかしここをこうすればという点はない。
欠点はない。ゲームとしては最初から出来上がっているのだ。
そして継続して23年後も出来ていることが評価できる。
わかって出来ているんだなと思える。
次を作ろうとするとき、仕事をした証明として誰もが新しく何かを付け加えようとして
全体を損ねる例は枚挙に暇がない。ゲーム以外でも日常あまりにありふれて
人間は全体の退化、ごく一部の改善による進化が当たり前ですらないかと思うなかで、
無駄なもの、他であたりまえでも「サクラ大戦」では邪魔なものを峻別できている。
だから面白がることができる。

 


『新サクラ』では、時代に合わせみためも大きく作り直されている。
ヒロインたちの表情は、声だけでなくみためからも読み取ることができるようになったが
これが同時代の他と比較して、優れていると言うことはできない。
イベントシーンでいまだ一枚絵に頼る場面が多数あり、その出来もよろしくない。
予算の都合か声のついていないイベントも少なくない。
歩き回れる範囲は広くなく、個々の舞台背景の演出も不足している。
SRPGからアクションへの変更で、話を盛り上げる効果演出の一面は強化されたが、
作品主題として不可欠な全員で力を合わせ戦っていると感じさせる面は失われている。
サクラ大戦」として上手い操作をすることの必要はないとしても、
理想の華々しい格好良い動きはまだまだ妄想で補う他ないだろう。
同時代の、現在の他のゲームと比べて、総合的に良い出来か否か。
すごく劣ってもいないが、傑出して良いところもない。
5点満点なら4点、10点満点なら8点くらいのゲーム。
それが『新サクラ大戦』である。


でも「サクラ大戦」自体は現在遊んでも面白い。
他にこういうばかばかしく単純で面白いゲームがないからで、
ばかばかしさを楽しむことを邪魔する要素がない点で良くできているからだ。
ゲームとしてこの他に様式を代えがたく完成している。
器の中身、お話やみためはいくらも正すべきべきところはある。
しかしゲームとしては簡素でも必要十分にできている。

 

 

www.youtube.com

ゲーム外でも広く有名な主題歌の流れるオープニング。
懐かしい。そしてなんとも古い。でも遊んでみればそれが良いのだ。
エンディングでもやはり歌が流れる。20年前と異なりありふれた演出だ。
過去のエンディングもみな一度しか聴いていないはずなのに
印象深い歌だったなと十数年ぶりに思い出す。


過去シリーズを遊んだのはそれぞれ一周のみ。関連商品も一切購入したことがなく、
シリーズの、「サクラ大戦」という作品のファンではない自分でもそう思わせる。
音楽の良し悪しなどわからない。
一度聴いたら耳に残るものが良いのか、
耳に残らずとも雰囲気を盛り立てるものが良いのか。
しかしゲームと共にある劇伴において「サクラ大戦」のそれは印象深いものであり
その作品を思い起こす時、良く懐かしさを喚起するものであるのは確かなことだ。

ゲームとして同時代に置いて傑出していなくとも

その位置をよく理解し作られ、そこにいつまでも浸っていたい心地良い世界。
そういう十年後、二十年後に懐かしく思い出せるだろう作品が
現在も遊べたことは喜ばしいことだ。