FF14の続き

この1年間は主に『FF14』を遊んでいたので
今回も感想を書かなければ元が取れない。
ゲームセンターはもちろんゲーム売り場も縁遠く
そもそも外出自体はばかられるという
言葉にしてみると改めて常と異なる今日この頃。
でもゲームを遊ぶ時間が増えたわけでなく何をしていたわけでもなく
では何をしていたのか、自分でもよくわからない謎。


さすがに一年間遊んだので『新生』からでも8年運営されているとはいえ
相当に胸を張って「遊んだことがある」と言える段階に到達。
若葉マークも取れたしイベントもシャキらない一部を除いて全て潰したし
最初からメインイベントのみをVer5.0まで遊び直してみたりもした。
何年も何年も遊び続けるひとの気持ちまではわからないが
FFシリーズでもっとも遊んだ作品であるのは間違いない。
それくらい遊ぶ気になったのだから、相応に面白かった。


とはいえ、前回に大体の概要は述べたので、今回は別の切り口から
FF14がどういうように面白いのか書いてみたい。


なお「シャキる」はマッチング成立のお知らせ効果音がもと。
「シャキーン」としか表現しようの無い音が
ボイス付きイベントムービー中だろうがロード暗転中だろうが最優先で鳴る。
タンクだと割とあっさり鳴るが、DPSだと数分待つのが当たり前。
その「シャキる」までの待ち時間が「シャキ待ち」である。
混雑度合いから大体の予測時間は出してくれるが
当然、その待っている間に誰かがそのイベントに参加しようと思わなければ
いつまで待とうがシャキらない。
そして一部のめんどうなイベントはまずシャキらない。
そのコンテンツ専用にパーティを募集しなければならないが
さすがに時間制限がきついので放置。


FF14』はストーリーを遊び終えてしまうと必然いわゆるエンドコンテンツ、
高難度の強敵ボスに挑戦することくらいしかすることがなくなるが
レベルシンクの影響もあって、
レベルとか装備とかはそんなに問題ではないのである。
バトルギミックが問題なのである。
このボスはこういう攻撃をしてくるからこう避けて、
タンクはここでこうしてヒーラーはここでこうしてこの攻撃にはこうして
パーティメンバーがわかっていなかったらアドリブでこうしてこうして
というのを、予習して頭に入れて置きその通りに動かなければならない。


エンドコンテンツだから仕方がないのである。
8年間徐々に追加されてきたイベントを8倍の速さで経験しようと思えば
やむを得ぬ苦労ではある。
予習して頑張って上手くいってクリアできればとても嬉しい。とっても嬉しい。
でも避けたがるひともいるのはわかる。


余談終わり。以下本題。

 

 

 

ゲームに求める楽しさはもちろん人それぞれ千差万別だが
FF14』を遊んで自分が思うに、以下2つに区別される。


ひとつめ。成功の楽しさ。


「俺TUEEEE」という概念がよく低年齢向け娯楽作品を揶揄して言われるが
これは成功に見合う対価なき空疎なさまを嗤っているのであって
勝つことを否定するものではない。
正当な競技で勝ち負けをつけることは娯楽における明確な楽しみの一要素。
「ゲーム」ということばに着目すればまさにそのものであり
勝ち負けのない「ゲーム」が
われわれが「テレビゲーム」「ビデオゲーム」と呼ぶものに溢れているとすれば
「ゲーム」という呼び方自体が妥当ではない。


「コンピュータゲーム」において勝ち負けを競うのは
もちろん多くのゲームにとって、まず第一に挙げられる楽しさである。
ここ十余年ほどはオンラインによる対人で遊ぶことが大いに普及し
コンピュータ相手に1人で遊ぶのとは
次元の違う楽しさがあることを知らしめたが
コンピュータ相手に勝利することで楽しさを感じる要素もまた
コンピュータゲームにとって無くてはならない独自性である。


ゲームで成功することによって楽しさを感じる機構は
ひとつのゲームにも複数あり多種多様である。
例えば『FF14』で言えば
困っているひとを助けてお使いをし報酬をもらうイベント。
お話の本筋を進めるのに何ら必要でなく
報酬自体もあってもなくても良いものであったとしても
それを消化する、発生しているものを潰すことだけにも
人は成功による楽しさを感じる。


次に、成長することによる機能拡張の楽しさ。
手間を積み経験を積むことで能力が上がり出来ることが増え
これまで出来ていたことが、より容易に出来るようになる。
戦闘で強い敵に勝てるようになる、敵がより容易に倒せるようになることに
人は心地良さを感ずるが
扱う数字が大きくなり行ける場所が拡がり新しい何かを手に入れるだけで
人は時々刻々に連続した達成感による楽しさを感じる。


そして、競技における優位。
必ずしも対人に対戦して勝利するのでなくとも
共に同じ目標を達成するため協力して苦労し合う中にも
個々の能力差や知識の量、そしてすることの的確さの差に優位劣位は発生する。
またゲーム内の能力の高低や操作の巧緻だけでなく
それについてより知っているか否かだけでも
他者に優位を感じて楽しさを精製することが可能である。


もちろんこれは単に単純なものではない。
お使いイベントは報酬の多寡よりも、そのお使いをする過程や結果において
舞台世界や登場人物に対する働きかけや奥行を感ずる知識の開示があるほどに
そしてそこに生ずる小さな物語に対し納得感があるほどに
作業という印象が薄れてゲームに生きた感慨を得ることが出来る。


機能拡張や強くなるということは正の方向のみへの連続的な繰り返しであり
負の方向に自主的でない縛りを設けることは自由さを阻害して歓迎されない。
情報を開示し巻物を開いていくだけであれば問題はないが
そこに強い必要さを置きすぎて、それを知っていなくてはならない、
活用できなければ進まないよう採れる手段を限ってしまうようでは
機能は拡張しているのに出来ることが少なくなったように感ぜられる。


競技においては、ひとつの定まったルールでありながら
各人各様の知識や能力の得意それぞれを
出来得る限り広く活かすものでなければならない。
多様かつ公平でありつつ、機会は平等でなければならない。
言うは易く行うは難し。
物量許す限り取り得る手段を増やして、正解自体を増やさなければ
より多くが納得できる秩序だった解法の存在は困難である。


成功し、達成し、勝利して、区切りつけはっきりし終わらせることは楽しい。
しかし誰もが何の苦労もなく平等にそこに到達できるなら価値が減ずる。
自分が何かを為した、選んだ、操作した、知っていた、時間を掛けた、
誰かより優位に立つ必然がそこにあったからこそ、そこに楽しさが発生する。
それをどれだけ自然に納得できるよう作られているかがゲームの質だ。

 

 

ふたつめ。想像の余地。


10秒間でボタンを押す回数を競うゲームがゲームセンターの前に置いてある。
無料で遊べて、通りがかる人達へ
ゲームを遊ぶことに関心を引いてもらうためのものだ。
スコアランキングがあって上位10位内に入れば
自分のスコアが記録されるのが報酬である。
これは果たしてゲームなのだろうか。何が楽しいのだろうか。
そう問われれば、ゲームだし、誰でもできるのが良いところだし、
スコアが残る事になんの意味はないかもしれないが、
喜びは感じられると答えるだろう。
1人で何度も遊ぶさまを想定すれば面白味は感じられないが
誰かと一緒にいる時に余興として楽しむ例示として優れており
設置する目的に適った規模のゲームである。


しかしながら、音楽のリズムに合わせてボタンを押すゲームであれば
そんな説明など不要だ。
同じくボタンを押すだけでも
たとえ成果のスコアがオンライン全国ランキング入賞圏内に
到底到達し得ない位置でも
誰も見ていないところで1人で遊んでも、明確に楽しい。
音楽に合わせてリズムに乗って、奏でるですらなく拍子を取るだけでも
楽しさを感ずるのだ。


人はゲームに意味を乗せて楽しむ。
音楽のリズムに合わせてボタンを押すゲームでなくとも
自分の頭の中でリフレインする音楽に合わせ拍子を取るだけでも
楽しさを感ずる娯楽として成立するだろう。
しかしゲームの機能は、それを公平な評価点で明瞭化を助け、
頭の中だけでなく耳の外でも音楽の再生を助け、
あるいは打楽器の機能を充実させ譜面の表示を工夫することで
自身だけでは想像しえなかった音楽の感受を遊べるものである。


みんなが遊んでいるから自分も遊ぶ。
そのゲームの話題についていくことができ
誰かの話に同感したり反論したり新情報に共に期待したり不安がったり
プレイ動画をみて感嘆してみたりくさしてみたり。
実際にゲームを遊んでいるよりも
そのゲームを話題にして楽しんでいるほうが多くそして楽しく
主客転倒して、そのためにゲームを遊んでいることもある。
そのために遊んだのに意外と面白くて喜んだりする。
ゲームを遊ぶだけでなく、ゲームで遊ぶのだ。


今やこれは現在におけるもっとも主流であるゲームの遊ばれ方ではあるが
ゲームである必要はない。
マンガでも映画でもスポーツ競技でも事件事故のニュースでも何でも良いのだ。
ゲームはそれで遊ばなくとも、遊んだことがあると言える程度に知っていれば
それで遊ぶことが出来る機能を持っている、ということである。


この場合、ゲーム内における繰り返しの単純作業は、
みんなでそのゲームを遊ぶことには向いていない。
1000時間かけて最初に出てくる雑魚敵を倒し続けて最強になりました、
という結果の情報自体は遊べるが、
1000時間の過程は、何ら遊ぶ方にとって楽しみがない。


音楽に合わせてボタンを押すゲームで言えば
始めた最初の様子や上手に遊んでいる様子は価値が感ぜられるが
その過程は面白味が少ない。
まったく無意味ではないだろう。最初と上手くなった最後と
その途中の上手くなっていく何回かは価値を持つが
1000時間掛けて上手くなったならば、そのほとんどは無価値である。
けれど遊んでいる自分にとっては、
1000時間かけて上達したその過程の1曲ごとにも価値は感ぜられるはずである。
楽しかったはずだ。


何かを作り上げていく、当事者でないひとにとっては無駄とも思われる過程。
過程の全てが有意義でなく一様な正方向の上達でなく
必要さが薄い無駄とおも思われる時間の費やしであったとしても
しかし達成の暁にはそれは価値を持つ。
最終評価にとっては無駄であるかもしれない作業。
マップを隅々まで埋めること。すべてのアイテムを集めること。
すべての敵と戦うこと。すべてのイベントを発生させること。
そうできなくとも、そうしよう、少しでも多く埋めよう、
塗りつぶそうとしようとすることは、なぜそうするのだろうか。
そうしたがるのだろうか。
上達するかもわからないのに、ゲームの中で評価されるかもわからないのに、
作業を続け続けるのか。


それは、そうすることが自分にとって価値あると判断するからだ。
ゲームにおいて評価に値しなかろうが
自分でない周囲にとって無価値だろうとも
そうするほうがよかろうと思うからそうするのだ。
雑魚敵を倒して経験値を稼いで強くなる。
最適解ではないかもしれない。効率悪いかもしれない。
けれど前に進んでいるし、労せず前に進めているだけでも良いではないか。
何百回と同じ曲を繰り返し遊んだからといって、
それでもオンラインランキングに載るほど完璧にはできないかもしれない。
でもそれだけが価値や意味や勝利や楽しさや終わりではないのだ。
今、この一曲を遊ぶことに楽しさがあれば、
例え上手くならなかろうが、他の人にとっては無価値だろうが関係ない。


ゲームの中にデータを蓄積する。それを積み上げ加工する。
独自のどこにもないものができあがる。
それは、世間的にみて他と比較して、凄くないかもしれない。
ごく普通の無個性平均な程度かもしれない。なんのニュース価値もないだろう。
でもそれが目的ではないのだ。
飽きたらデータを消すだろう。消さないにせよ忘れるだろう。
別の何かを始めたら今していることは自分にとってすら
たちまち無価値になるだろう。
でもそれでも良いのだ。いま楽しいのだから。
そこに目先の楽しさを追おうと、何かの結果をつくろうとした過程、
そこに楽しさがあるのだから。
完成し、完結することだけが楽しさではない。


さて、そういう、過程を自分だけが楽しめれば良いというゲームにおいて
より良いゲームとはどのようなゲームだろうか。
それは量である。楽曲の数である。
広大な舞台世界であり無数のキャラクタでありアイテムである。
質はもちろん大切だ。ゴミがどれだけあろうがゴミはゴミだ。
しかし最上級のものが1点殿堂上にあるよりも
一定以上のものが多数あるべきなのである。
タイムアタック動画やノーミスプレイ動画にとっては
最高の巧緻を尽くした楽曲や
理不尽でないが安易でもないコース設計があればよいが
過程を楽しむ一般大多数、ゲームを遊んでいるほとんど全ての普段にとっては
ごく普通だけど多彩かつ想像を超える濃淡傾向高低の幅
端から端まで味わいきれないほどの品書きの多彩さこそが求められるのである。


そういう観点で、現在の基本無料ゲームや、
支持され続ける限り終わらないロールプレイングゲームがある。


海の向こう産ゲームの見た目に対する量の多さと手間掛け方は圧倒的である。
よくぞここまで隅々描いて採算が取れるゲームとして成り立つものだと思う。
遊ぶ多くのひとにとっては瞬間でしかない飾りに膨大な手間をかける無駄。
だがその細部の無駄が全体の印象をつくり
結果として多数がそれを支持すると、成功の結果が信じさせるのだろう。


日本産のゲームは、そういうところに追いつこうとして
容易に成功にはつなげられてこなかったようだが
しかし、ひとつのゲーム作品に長期間長時間つなぎとめる仕組みには成功した。
その必然として、従来であればシリーズ続編と分割していたものでも
ひとつの作品に手間をかけ続ける形に変容した。
ゲームの楽しさにとって、そうあるべきと信じてそうしたわけではなく
結果として成功したものがそうだったというのが
いかにもうちのところの文化のありようではある。
果たして次はいかなることや。

 

 


FF14以外にも三国志14だったりモンスターハンターだったり
どうぶつの森だったり『Detroit: Become Human』だったり
『Marvel's Spider-Man』だったり『ウマ娘』だったり
いろいろ遊んでいたわけです。
さわってみただけで投げ出したゲームもたくさん。


けれど『FF14』を除けば遊んだというほど遊んでいない。
最近のゲームは巨大なので。広大というより容量が膨大なので。
ゲームとしては普通。みたことあるものだけれど、とにかく沢山つめこんで
多くのひとにたくさん、すなわち長く遊ばせる。


『Detroit』はおおむねフローチャートを埋めたけれど
まるでクリアしたという気がしない。奥深いのではない。
ゲームとして斬新なのではまったくない。ただ量が多いのだ。
ウマ娘』は逆の意味で斬新である。
まさかこの題材にここまで手間暇容量を詰め込むとは。
その中身はすごくなくとも、その在り様がすごい。


FF14』は8年続くサブスクリプションとして必然の形式なのかもしれないが
ドラクエ10』にせよ『FF14』にせよ
その圧倒的量すなわち遊べる楽しさの量が、
シリーズ中でもっとも楽しい作品であるかのように感じさせる。
ドラクエ1』でローラ姫を助けてグラフィックに反映されたとき。
ドラクエ2』でサマルトリアの王子が仲間になったとき。
ドラクエ3』で「そして でんせつが はじまった!」の字を
賢者の石片手にみたとき。
思い出補正は強く、その後何十年たってもその一瞬の感慨は強く胸に迫る。
それでも面白かったの量として『ドラクエ10』のほうが大きく感じる。


FF14』はFFシリーズの中でもっとも洗練されている。
遊びやすい。入っていきやすい。わかりやすい。
すぐに容易に強くなれるし無駄な作業感は少なく
イベントを次から次へと浴びるように見て進めていくだけで
その広さに無理なく到達することができる。
それも何年もかけて遊びやすいよう、正しく正しい方向へ正してきたからで
そしてそれが出来る仕組みだったからだろう。


オンラインRPGだからシリーズのどれよりも楽しい、
というだけでは全てではない。
長く続く形式であり、それゆえに修正がきき容量も膨大であるからこそ
ゲームの成立する形式と規模。
その方向と量の楽しさが、『FF14』の面白さだ。