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1.ゲームの面白さについて
私にとって、ゲームが面白いと思うところ、興味を感じるところは、今までにない新しいことがら、考え方を、それを通して知ることができる、というところにあります。もちろん、小説や音楽や絵画、ほか様々な表現媒体によっても、それを制作したひと、それを用いて表現しているひとの、そうであるべきと考えた形を知ることができますが、とりわけテレビゲームという媒体が、特に興味を引く理由は、その新しさにあると言えましょう。
この、ゲームソフトという工業製品から見てとれることがらとは、表現作品として様々な見せ方があり、また遊び道具しても多様な遊ばせ方があるテレビゲームの特性において、商品として魅力あるものを制作するのはどうするべきか、という結果と、それが選ばれた際の判断における考え方です。考える、とは単に思い付きではなくて、充分に最適化されたと判断された選択です。普通、考えているつもりで為された結果という出力は、しかし、それまでの経験とその場の環境による気分の反射反応反映であって、後からそれを自身の正しく行われた選択であったと追認しているに過ぎない、と見ることができるわけですが、少なくともゲームソフトの制作においては、どのようにそれを構築することが正しいか、より良くあるかを、多くの場合、複数人が長時間を費やしてあるべくあるはずであり、その結果がそれで正解に近付いていくのかはともかくとして、そこにあるべき見識は、その制作に関した経験だけではなく個人の好みだけでもない、判断の過程を複数度経たものであり、考えであると思われるわけなのです。
ゲームは今までになく、新しいです。ファミコンからこちらおよそ25年。様々な種類の仕組みに触れることを繰り返し、その広がりを次第に知ることで埋めていく間にも、ゲームは常に何か新しいものを生み出して、飽きさせることなくここまできています。新しい何かとは、見て回ることのできる情報の量が増えたこと、性能向上と手段の工夫と手間の投入による見た目の向上、というような分かりやすいものだけではありません。操作できる自由は、斜めに奥へ連続量にと広がって、操作できる対象は、数も種類も概念も増え続けている。ネットに接続することで目にする景色は、それぞれは単体で完結しているはずが、そこに自分でない誰かがあることによって、際限なく広がるかのように映るもの。単純な造形に見ていた想像の奥行ある絵が、もうそこにあるかのような幻想をも抱かせてくれる。ゲームは遊び道具として、どのように使うものであるという手段に」おいては、広がりこそしてはいなくとも、手を変え品も変えて考えられ続けて、細分化は繰り返されています。
テレビゲームとは、文章も絵も音楽も映像も様々な表現を、テレビを通して扱うことができ、さらにそれを遊び道具としてゲームとして、操作することもできる。それを作るということはつまり、両方ともに作らなければならないわけなのですが、そもそもテレビに映ったものを操作するということ自体が今までになかったものだし、2つの配分をどのようにとるかを調整するだけで、いかようにも変えることができる自由があるわけです。今までにないところへ生み出される新しい表現、遊び、ゲームというもの。それを選択してきた考え方もまた、見たことがなく、新しく、興味深く面白い。

2.ゲームとは何かについて
私は、ゲームをという存在もあることを知ったのではなく、すでにゲームが当たり前にあるときを過ごした世代です。そうして見てきたゲームとは何だったのか。新しく、面白く興味を引く対象である一方で、趣味であり遊びであり、暇つぶしの手段でもありました。何らかの価値を汲み取るため、面白がるためだけに遊ぶのではなく、遊んでいて楽しいから遊ぶ手段でもある。むしろそれこそがゲームというものの主体です。テレビの中の何かを自在に操作できるというゲームは、そこに自己を投影しなくとも、そこに現実の広がりを感じずとも、その作りを眺めて妙に浸ることなどせずとも、ただ上手く操作するだけでも楽しい。
また、ゲーム機の前にいて、ゲームソフトの中を操作することだけが、ゲームを楽しむことの全てではありません。それを楽しんでいる仲間と、共に楽しみ、またそれで楽しむことを共有したり、それに抱く興味の違いを比較してみたり。ゲームの中だけにあるはずの価値であっても、ネットを介したりしなくとも、そこに含まれ取り出せる情報を共有することで楽しむ手段も多様にあるのです。それは、テレビゲームではなくゲームを使って遊ぶ遊びであるけれど、テレビゲームとはテレビを通した表現から知ることができる情報を操作して遊ぶ遊びであれば、ゲーム機を通してテレビ画面の中を操作しなくとも、テレビゲームではなくともそれはゲームであります。どちらも情報をやり取りして操作する遊びであり、それを通してここを見ることも、ここからそこを見ることも自由にできる。ここもそこも自身の自由にはならなくとも操作はできる。それがゲームなのです。
ゲームとは、自身の持つ情報を写すだけでなく、操作することで、様々なものも映す。自身を通して様々なものを写す。そしてそれは操作できる。ゲーム機はなくともゲームと同じものは既にそこにあるのだ。

3.この文章をなぜ書いたのかについて
私が、ゲームについて思ったことを書く、このサイトを書き始めてもうすぐ5年分である。先月、これらの文章を読んでいただき、何度もコメントのやり取りもさせて頂いたゲーモクさんが亡くなった。もう読んでいただくことができない。意見を寄せていただくことができないことは悲しいことだ。ゲームを通して、ゲーモクさんがどのようにこれからを見ていくのか、それをもう拝見できなくなったことは悲しいことだ。
ゲームは世界ではなく、そこにあり、それを通して自身を写し、それをとりまくものを見るもの。
自分自身が変わるとも変わらずとも操作しようとも、見えるものは、関わらずあり続ける。そこにある私は、その景色に興味を抱いて面白がり、楽しんでいくのみである。