ゲーム処分

kodamatsukimi2008-06-04



・久しくのごぶさたです。この3週間何をしていたかというと
 毎週次々発売されるゲームを端から順に遊びたおしていきたい、
 というゲーマーとして自然当然の欲求に逆らって
 既に持っており、遊んだことがあるゲームのうち
 時間が出来たらまた手をつけようと思っていたものに、手をつけておりました。

・それには理由があるのです。
 こんなにゲームがあっても遊んでいる暇がない。
 ゲームを置いておく場所がないのです。



・数ある嗜好品はなんでも大概そうですが
 常に手元になければならないもの、もう必要がないのでいらないもの、
 そしてその中間と、3種類に区分けできます。
 このうち圧倒的大多数であるのが最期の、どちらでもないもの。

・どんなに面白いゲームや本であっても、常になければならない、
 そばに置いてあっていつでも使用できる状態、ということではなく
 常に使用している状態、にあるわけではない。なわけがない。
 ならばいらなくはないので置いてある、と
 絶対必要殿堂入り永久保存版、の差はない。

・一方で、本当に今後これからずっと絶対に必要のない、
 と確信できるものというのもそうそうない。
 何しろ必要と思ったのだから、それはそこにあるのですからして。


・それでそういうように、捨てたり売り払ってしまうわけでもなく
 さりとて常日頃活用するわけでもないもの、それがゲームというものですが、
 そうして買い集める間も続いていきますと
 物理的で言うとです。空間容積量という、とても実際価値なところで限界が
 いつしか来てしまうわけでございます。具体的には、いまきてます。

・ゲーム機本体各種。新品を売っていないものは故障したときの予備も数台。
 ゲームソフト数百本。たぶん数百本。すくなくとも見える範囲ではおそらく3桁。
 そして数だけでなく大きさも、その数倍をしめる本の山。
 置く場所がない。それらを置いておくためだけに払うお金がない。

・なぜなら、それらの殆どはいつか遊ぼうとは思っていても実際何年も
 ものによっては10年モノのホコリを被っているわけでして
 なぜなら、遊ぶ暇がないのです。
 それというのも毎週新しいゲームが出るからなのです。
 価値を普段みなしていないものに、手間すなわちお金という対価を払えない。



・追い詰められました。
 さすがにどうにかしなければ、気持ち良く新しいゲームを買ってきて楽しめない。

・ほこりを被ったそのほとんどは必要なのです。
 たとえクリアしたらそれでしまいこんでしまうとしても
 いつかいついつの日にか、遊ぶ予定であるつもりはあるのです。
 でも「必ず必要」なのか、というとそうではない。
 なくてもなんとかなる。なんとでもなる。
 既にあるゲームを遊び返しているだけで、端から遊んでいくうちに忘れていって
 1周するころには新鮮な気持ちで遊び返せることは間違いない。

・そうすると新しいゲームは必要ない。でも必要なのだ。
 世間についていくためとかではなく、そこにまだ遊んだことがない
 未知の新しい面白さがあるかもしれないのにそれを見て見ぬふりなど
 できるはずもない。
 ゲームは面白いことを知っているのである。
 だからこまっているのです。


・処分しなければならない。
 優先順位を付けていって、後ろの方、いらないわけではないけれど
 遊ぶとするなら24時間が倍にならなければお鉢がまわってこなささそうなものは
 ここで死蔵させておくのではなく市場に流して
 本当に必要としているひとの手に渡すべきではなかろうか。

・例えばセガサターンSTGレイディアントシルバーガン』は
 Amazonマーケットプレイスによると、時価¥15,000くらいするらしい。
 そのサウンドトラックなど同じく時価¥18,000もするらしい。
 それだけ出しても欲しいひとがいるらしい。
 それなのにこうして飾っておいたまま起動せず何年もほったらかしにしておいて
 それで本当に良いのだろうか。
 いやこの場合良いのですが。

・どんなに『シルバーガン』が当時として良く出来ていたゲームだとしても
 今それにお札を何枚も出すなら、ゲームセンターのSTG
 ¥50コインを何十枚か入れるほうが良いに決まっているのである。
 本当に必要としているならば、いくらだろうが既に手に入れている。


・ではまあ、とにかく売らないにしても、どうにかはしなければならない。
 つまり、これらゲームソフトは、実はなくてもかまわないものなのだ、
 という事実を噛み締めることの方が重要である。

・なければなくとも構わない。
 新しいゲームを買ってくれば良いのだし
 本当に遊び返したければ、買いなおせば良いのだから。
 手放したら二度と手に入らない、というものなどそうそうない。
 そしてお金に糸目を付けず買いなおしたいものもまた、そうあるものでもない。

・では全て処分してしまうべきなのか。
 いやべきなのか、ではなくてどうにかしなければならないのであり
 悩んでいるようで解決は簡単である。結論はでている。
 必要ではないのだから全部捨ててしまって
 本当にいるのならば買い直せば良いのである。
 しかしもちろんそんなことはできない。絶対に無理。
 それは捨てられません。それをすてるなんてとんでもない。

・でも物によってはそれほど悩まずに処分できるのでは、
 と思って区分けしようとしてみた。
 しまいに面白くなって全てのゲームに10点満点で点数を付けリストを作った。
 見返して、思い返して当時を偲んでいるうちに遊びたくなって
 ひさしぶりにPCエンジンまでひっぱりだし、まだ動くことに感動したりした。
 最新のゲームに劣らぬ面白さを再確認したり
 思い出は美しいままに保存しておこうと急いでリセットボタンを押したりした。

・とかしているうちに、何もすすまないまま3週間経ってしまったわけである。
 今ここ。



・どうしよう。
 もう割り切って目をつぶって点数低い方から処分してしまうべきではなかろうか。
 いやできない。無理。
 手に取るたび、そのゲームは今は微妙でもその時は確かに面白かった、
 素晴らしかったことが思い出される。

・『ケツイ』があれば『バツグン』はいらないか。もちろんそうではない。
 『タクティクスオウガ』をサターン版だからと捨てられるだろうか。無理である。
 『グランディア』を遊び返すことがあるだろうか。ない。でも捨てられない。
 『三国志大戦』のver.1のカードはもう使用できない。紙屑同然。でも要る。
 『ポケモン』は遊ばなくとも、『スクリューブレイカー』は要るのである。
 微妙なゲームだって可愛い。
 『天外魔境3』はロードさえ改善されればと夢を見られる。
 『大神』の見た目は他に例ない味がある。
 『ブレスオブファイア5』のようなゲームを、遊ばなくても見捨てられはしない。

バーチャルコンソールなどで遊べるものはもう持っている必要がないのでは。
 いや実機で遊ぶことにはかなわないのだ。
 もちろん理由は説明できませんけれども。


・点数などその時の気分である。
 なにより、古いゲームは新しいゲームにはかなわないものなのだ。
 思い出の中、美しく輝いているとしても
 そのゲームをずっと遊び続けていない自分自身で
 それは思い入れ込みの評価であると認めている。
 見た目だけではない。
 ゲームは明らかに今のほうが、既に良いと認められているものと
 比較され続ける新しいものの方が、平均点高く良く出来ているのである。


・結論として、ほとんど全部処分することにいたしました。
 分別できない。どれも要る。けれどどれも必要ならまた手に入れられる。
 ならばまるごとなくすしかないのである。

・それで本当に要るものが判るかもしれない。かもしれない。
 それとも思い出さなくなるかもしれない。
 言われて、そういえばそれを昔持っていたと、初めて思い出すかもしれない。
 思い出は軽い。
 記憶は儚い。
 そしてそれが必要なのかは、失くす前に、わからないものなのだ。