月日の流れは地球の表面で過ごしている限りほぼ同じようなものらしいけれど
長く日々を過ごしているほど過去に対する今日一日の割合は少なくなり
いつしか毎日、今年もあっという間だったと呟くようになる。
2017年もいまや12月。平成もあと1年半弱。
そして私は7月29日の発売日に購入したゲームを終わらせるのに4ヵ月。
失われたわけではないにせよ、季節は過ぎ去ったかもしれない冬。
言わずと知れた「ドラクエ」シリーズ11作目はオンライン専用の『10』から5年、
DSで発売された『9』からは8年の間をおいての発売。
初代からは実に31年。DS発売からも13年。
あれこのサイトDS発売前からあったようなきのせいだよねちがいない。
今回はPS4と3DS向け版が双方同時発売されたのもひとつの特徴。
もはやとうに「テレビ」ゲームの時代ではないけれど、
「ドラクエ」シリーズが変わらずその地位を保ち続けているのは驚くべきこと、
制作陣の弛まぬ姿勢に感服のここちであります。
それぞれの間に遊ぶであろう対象世代が入れ替わってしまうほど
期間を必要とするこのごろのゲーム作品。
そのつなぎとして派生作品や絶え間ない広報活動が必要であるともいえるし
期限目標内に作り上げられるのであれば新規作品が入り込み易いともいえる。
見た目に掛かる手間はますます増えてはいるものの、
PS4版と3DS版がみため違うだけでゲームとしては同じものであるだけに
ゲームとしては、格別ゲーム機性能に依存する程度は
依然ますます軽くなっている。いってみれば見た目のためだけである。
それ以外のところで、ゲームそれぞれにどれだけの違いがあるか。
30年様々な作品が「ドラクエ」シリーズ以上に敗北した理由は
見た目と派生作品や広報活動による知名度以外のどこにあるか。
そもそもRPGとかいう分野わけじたい、わりと謎である。
RPGゲームとかSTGゲームとか言われてしまうわけである。
STGとか最近きかないですね嘘つきました。
RPGというものの元はTRPGというものらしいので、
TRPGの本をここ7、8年ほど380冊ほど読んでべんきょうした成果から言うと、
まったく別物である。
AVGはなぜ『アドベンチャー』が元なのかと同じくらい別。
『世界樹の迷宮』が良くTRPGふうと言われるけれど
ゲームブック調と混同しているとしか思えない。
もとい、「ドラクエ」シリーズが、日本のRPGと呼ばれるゲーム群の
大きな割合を規定していたことは間違いないと思われる。
けれど、「ドラクエ」みたいなのがRPGなのか、というと
オンラインゲーム以降のRPGと分類するしかないゲーム等をみるに違うらしい。
アクションがあるRPG。バトルはパズルで育成するRPG。
最終目標はなく世界をみてまわったり作ったりするRPG。
どれも新しいが、どれも昔からあるものの組み合わせでもあり、
どれもRPGといわれればそうでもある。そうでなくはない。
では『ドラゴンクエスト』とは何か。どこが面白いのか。
「アドベンチャー」と同じく「ロールプレイング」という分野名を忘れて
そのつくりについて思いをいたしてみると
すごく接待です、という感想を避けがたい。
主人公が特権的な立場にあり、時間さえかければ世界一強いだけでなく、
世界の数多全てが自分のためだけに用意されている。
謎はあなたに解かれるためにある。敵はあなたに倒してもらうのを待っている。
たるはあなたに壊され運ばれ指さされるためにある。
とはいえこれは、RPGに限らず1人用ゲームであれば当然のこと。
そうするとそもそも1人用ゲームであることが最初から特異であったのか。
TRPGは1人用ではない。少なくとも2人はいなけらばならない。
競う両者でなく出題者と回答者。
競うためのルールを決めるひとと、それで遊ぶ方の2人。
言い換えればパズルやクイズを作るひとと解く方。
TRPGのルールを固定して1人で遊べるようにしたものがゲームブックであり、
これをコンピューター上で遊べるようにしたものがいわゆるRPGである。
コンピューターも本も用いない1人用ゲームはとても限られる。
パズルやクイズを自分で作って自分で解くこともできる。
それが1人で遊ぶということなのだ。
例えばカードを使ってsolitaire(一人遊び)の『ソリティア』をする。
これはクロスワードパズルや詰将棋と違い、
解決すべき状況を自らランダム生成できる、類まれな完成度のゲームで、
言ってみればサイコロを振って次の100回のうち1が出るのは何回かを
予想して遊ぶのと同じ仕組みと道具立てのゲームでありながら、
格段にゲームらしさ、何度も繰り返し遊んで飽きさせない要素、
ふんわりいうと「ゲーム性」を作り出している。
この言葉はあやしいが、『ソリティア』が『丁半当て』よりは
複雑度合、遊びごたえ、長く楽しめそうさが大きいのは確からしく分かる。
しかしそんな苦労をしなくとも、もう一人だれか遊ぶ相手がいれば良いのだ。
TRPGのゲームルールを書いた本があれば複雑な飽きない遊びができるが、
なくとも囲碁将棋盤やカード、それすらなくとも会話を交わすだけで
1人でどんな道具を使って遊ぶより「ゲーム性高い」、
飽きの来ないゲームを遊べるのである。
ゲームブック、そしてコンピュータはその遊び相手の役割を果たす。
小説や映画はそれ単体で遊ぶのではなく、したがって「ゲーム性」はなく、
それを見た経験を使って自分であるいは誰かと遊ばなければならない。
しかしクイズやパズルは違う。自分を含む誰かが作ったゲームを使って遊ぶのだ。
一方で映画や小説のように、コンピュータゲーム機を使うのにもかかわらず
誰かの作ったもので誰かと遊ぶわけではないゲームもある。
ゲームとは何か。「ドラクエ」ってなに。なにが面白いの。他とどう違うの。
30年前、「ドラクエ」にも『ウィザードリィ』『ウルティマ』という先達があり、
それらにはTRPGという元があり、TRPGにはごっこ遊びという原型がある。
最新の『ドラクエ11』は、何が面白いかを零から作るわけではなく、
「ドラクエシリーズ」として良いものを作ればよいのである。
30年遊ばれてきて、どこが面白かったか、何が不親切だったか、
オンラインにするにあたってはどうすれば良いか、
対応することでゲームはできあがる。
「ドラクエ」は他のRPGを冠するゲームと比べて様々にすぐれているところがあり、
総じて比較的良い出来だったから、遊ばれ売れて続いているのだ。
そこにゲームとしての進歩とか新しさとか革新は
必ずなければならないのではないのだ。
1人用より複数人で遊ぶゲームの方が、複雑で、展開や解法に拡がりがあり、
どこまでもいつまでも遊ぶことができて、ゲーム性が高い。
「ドラクエみたいな」1人用は、主人公様の接待でありすることは決まっていて
用意されたものを指示通り右から左へ動かすだけなので、ゲーム性は低い。
まったくそうである。
しかし「ゲーム性」の低いことが面白さの大小に正比例するわけではない。
言わず知れたこと、人生ゲームほど「ゲーム性」、
それを構成し介在する要素の複雑さ度合が高いゲームはないけれど
1人用接待ゲームより面白いとは限らない。
同じ能力値でも感じ方はそれぞれ。セーブポイントからやり直しも出来ません。
では「ドラクエ」の何が面白いのか。
お話が深いのか。感動するのか。舞台設定が格好良いのか、行ってみたいのか。
登場人物が魅力的なのか。お友達になりたいのか。
雰囲気が良いのか。パッケージイラストのおかげなのか。その再現性か。
課題達成が困難であったり解法わかりづらかったりすることの少ない難度設計が
優れているのか。レベルがあがりやすくて敵がほどほどに強いからか。
しかし、そういう素人でもわかるところを30年間、
まわりがなぜ模倣しなかったのかと思えば、
あるいは真似をして苦労少なくて済んでいたのに
なぜより高い名声を勝ち得なかったのかとすれば、
ゲームの仕組みにおける設計上の問題ではなく、
映画や小説のような、「作家性」にあるようにも思える。
絵画や音楽などの芸術において、良し悪しを素人が判断するのは困難極まる。
歴史系統上の画期性もその評価理由に加わるとなれば、
もはや素人と大家の作品区別もつかない。みための技術だけではないのだから。
料理でも文章でも演劇でも映画でも同様であれば、やはりゲームにおいても、
遊んでいて面白いかを除けば、その作品の良し悪しを、果たして自分が正当に
同じ物差しで比較して上下を付けられているか、まったく自身はない。
まして遊んでみて面白いかどうかの印象も加わるとなれば。
「ドラクエ」って面白いのだろうか。
『11』は遊んでみて、戦闘は見ていて時間の無駄を感じ、
終盤何手内撃破課題のために仕方なくAI切って指示出すのはまこと億劫だった。
敵キャラクタも魅力がなかったし、お話も失われた過去を求めていいのか、
そこは割り切るとしても、あそこまでするならよりもっと全体に
先代との関連があって良かったのではないか。
記憶喪失とか覇王斬とかも取ってつけた感が拭えない。
それ以外はおおむね良くできていたと思う。
仲間の半分くらいは一緒に旅をする必要なかったと思うが、
戦闘能力割り振りと成長過程は過去最高の洗練で芸術の域に達しているし
お話上のキャラクタごと役割分担も、他のRPGと比較して優れたもの。
ベロニカセーニャ姉妹の造形と、わずかな台詞でそれを描く技術は素晴らしい。
「幼なじみのエマよ」など細かい不満点はいくらもあるけれど、
全体振り返って過去シリーズと比べ印象点をつけるなら
屈指の高得点は間違いない。
他と比べてどうなのか。そう思うとまったく自信がない。好みの問題だし。
ゲームとしてどうなのか。いつもの「ドラクエ」である。
ではなぜ「ドラクエ」がこんなに長いこと高い評価を得ているのか。
昔は海外で受け入れられてなかったし、絵画や音楽と同じく
歴史上の画期性もあるのではないでしょうか。周りの環境だよね。
『FF15』に比べれば印象良いよね。『ゼルダ』とはちょっと方向違うよね。
『ペルソナ』とも違うよね。『真・女神転生』は『3』で終わったね。
まあ「ドラクエ」は「ドラクエ」ってことだよね。
ところで、最初に書いたように発売日7/29に買って
クリアするまで4ヵ月も掛かった方が私としては印象深いのである。
クリアまで84時間。
全体の2/3に当たるであろう★の付くところまで到達したのは9/24の55時間。
最初の2ヵ月は月30時間くらい進めたが、ここ2か月は月15時間。
毎日30分進めたのではなく、土日のどちらか都合のいい日に、
嫌々ながら仕方なく電源入れて、やっとなんとか最後までたどりついた。
遊んだというより進めた。終わらせた。
ゲーム自体は決して悪い出来ではないのである。
過去シリーズと比べて劣っていない。でもこの有様。
明らかに遊ぶこちら側に問題があると思われる。
もちろんこれも、テレビにつないだゲーム機の前に座って
毎日1時間じっくり楽しむ遊び方が時代に合わないのだ何なのだとは言える。
もっと気軽に手軽に遊べるように細かく区切っても
それなりに達成感が得られるようにだのなんだの。
旧来ゲーム信奉者としては言いづらいながら、
毎週更新して1日10分で遊んだ気になれるブラウザ携帯ゲームを見習えと。
よりにもよってかのあの「ドラクエ」相手に。
3DS版がなかったら本当にそういう感想も自分から出てきたかもしれない。
時代は移る。人も変わる。「ドラクエ」はちゃんと進歩している。
曖昧な言いかたを避ければ、昔と比べて時代相応に見た目も良くなり、
ゲームとしては良い意味で変わらず遊びやすくなっている。
あるいは表現が豊かになって、
それで遊ぶ余地が少なくなっているかもしれないけれど。
こちらは退化している。過去のげーれきに対して
「ドラクエ」最新作の占める新しさの感心度合が割合低下している。
それを退化と呼ぶのであれば。大進化の悲報。ソーマ神権現ちゃんの雫。
過ぎ去りし時を求めるのは時間背理に関わらずその気はない。
やはりゲームに求めていて求め続けていくのは、
見たことのない遊んだことのない新しさ。
『ドラクエ11』は『FF9』とは比較にならず、
そしてシリーズの過去どれとも比べても、
新しくないが良くできた「ドラクエ」だった。
『1』から遊んでいれば今更の「ドラクエ」だが、
30年、他のゲームが常にその時々に求められる水準を
必ずしも越えられないでいるなかで
『マリオ』『ゼルダ』に並ぶ隔絶した高質の作品には違いない。
今年産『マリオ』も『ゼルダ』も遊んでいないひとの言うことで間違いない。
予定と違う。今年はやすぎ。