『ウィザードリィ』から見えるもの

ウィザードリィ』の面白さ 「探索」と「戦闘」


・『ウィズ』はTRPGダンジョンズ&ドラゴンズ」を元にしたコンピューターRPGcRPG)。
 ダンジョン最深部にいるボスを倒してもゲームは終わらない、という
 エンドレスゲームである所は
 元はボードゲームであった「D&D」、そしてTRPGに発するがゆえ。
 ゲームの目的はボスを倒しエンディングを見ることでなく
 そこでの冒険を楽しむことにある。


cRPGは1人用。多人数で遊ぶTRPGを、会話のないcRPGに落とし込むときに生まれたのが
 ダンジョンの「探索」、ひととの会話でなく、ひとの作り出した計算機との「戦闘」。
 どちらもTRPGにあって、けれどcRPGでしか出来ない面白さがあります。
 仲間がいる楽しみ、そして孤独であるがゆえの勝利の喜び。


・冒険の中で物語を演出すること重視した『ウルティマ』。
 果てなき世界の探索を具現化した『マイトアンドマジック』。
 それらに比して『ウィザードリィ』が特に、今の日本のRPGの元となったのは
 もちろん図抜けたその完成度、そしてついでに移植の良し悪しもありますけれど
 「戦闘」による「育成と収集」という要素が好まれたから。

・逆に言えば「探索」はわかりにくい要素として、あえて切り捨てているといえるでしょう。
 『ウィズ』継いで後に続く『ドラクエ』が
 2つの要素の内「探索」を簡略化しているのに注目です。


・3Dダンジョン。先の見えぬ暗闇の中。
 一歩ごと方角を確かめ、手製の地図にマス目を埋めて行く。
 『ドラクエ1』ではたいまつがあってダンジョンは暗闇に包まれていました。
 けれど『2』からはそうではない。
 『1』であっても3Dでなく、東西南北は「はなす」コマンドを選ぶまでもなく分かり
 強い明かりで照らせば、壁の向こうに囚われの姫が透けて見える。 


・3Dダンジョンの、まさにこの足元だけを確かとする道行は「探索」の楽しさそのものです。
 けれどその成立するためには
 例えば「潜水艦ゲーム」において何もない海上をマス目で区切らなければならないように
 ダンジョンは方形の重なり、単純なものの積み重ねで、
 認識されて区切られる組み合わせであるほど「それ」は表現しやすい。
 だから『BUSIN0』のダンジョンには探索の楽しみが薄く、そして『ドラクエ』も同様である。


・もちろん『ドラクエ』には地上フィールド、青い海、緑の丘、
 魔王に襲われているはずなのに光り輝く世界を巡り歩いて
 世界の神秘を探求する旅があります。
 それが『ドラクエ』の選んだ、わかりやすさを尊んだ選択であったでしょう。



・ハード性能の要求からワイヤーフレームで表現された24年前のダンジョン。
 そこには、そのルールだからこそ成り立つ「探索」の楽しさがあった。
 同時に『ローグ』のように、神の視点、俯瞰視点から迷宮を眺めるゲームもあったが
 そこには当然探索の楽しみはない。


・ゲームとして世界を構成するために
 この世界から世界を切り取るとき、どのルールでハサミを入れるか。
 「探索」か「攻略」か。
 それとも物理法則シミュレートとフルポリゴンで現実という名のリアリティを追求するのか。


・ゲームは仮想世界である。
 その世界のルールを構成するためにもっとも適当な世界が選ばれる。
 3Dダンジョンでも良いし、主観視点でも、
 ゲームとして優れていれば、そこにその世界は成立する。


・3Dダンジョンの良さ。探索の楽しさ。
 RPGに限らず、世界の表現をゲームの面白さとして活かしているかが大切なのです。



・蛇足。
 『ウィズ』が必ずしも手放しで褒められず
 そして『ドラクエ』程には受け入れられないのは、まあ、話を広げると様々にいえますが
 ひとつには、一部のダンジョンが理不尽に難しいからでもありましょう。
 『3』のB3Fあたりは序の口。
 「Extendead」(http://gameplay.jp/~ext)のまはまんさんも言われるように
 『4』のB8F、B4F、B2F、B1Fあたりは
 是非マップを取り上げて開発者にプレイさせたい勢いです。

・さらに蛇足。
 『ウィズ4』は成長要素、レベル概念がなく
 いう事を聞かないモンスターを引き連れてダンジョンを潜り、
 でなく昇り抜けて行くという異端的な作品。
 日本人からみれば『女神転生』がまさにそれを踏襲しているのが面白いところ。

・と思っていたのですが
 APPLE 2でオリジナル『The Return of WERDNA』が発売されたのが’87年11月。
 アトラス設立が’86年4月。初代『女神転生』が’87年9月発売。
 なんと『メガテン』のほうが先。
 偉い。間違えていてすいません。
 完成度はどっちもどっちとしておきましょう。いや『旧約女神』は偉大ですとも。
 欧米では売れないでしょうけれど。

・『真女神3』でそこからまた別の道を選んでいるのも興味深いところです。
 『ウィザードリィ』はどこへ向かうのか、というテーマもまた、同じくあるところ。




ウィザードリィ』の本質とは何か

 
 「物語世界を想像する楽しみ。様々な遊びかた。それらを許容する自由。
  それが『ウィズ』たるところである。」


・まず「物語世界の想像による創造」。

・『ウィズ』は世界設定はあってもキャラクターはいない。
 これもTRPG
 そこで自己設定からキャラクターをつくりストーリーを構成するのは遊び手自身。

ベニー松山さんの「隣り合わせの灰と青春」「風よ。龍に届いているか」。
 そして「ウィザードリィのすべて」。
 それら影響を受けて「和風Wizardry純情派」のように
 物語が作られ続けている独自性は『ウィズ』だけのもの、なのか。


・作られた物語世界、あるいはなくともそこに創る物語の世界。
 それは『ウィズ』だけのものでは、もちろんない。

・完璧主義者が生涯をかけて編み出した如何な緻密なる物語も
 決して想像する力の限界には行き着けない。
 逆に物語が生み出されない世界とは、そこに人間性を介在しえない世界であり
 すなわちそここそ想像の埒外である。

・なぜ『ウィズ』世界は20年近くに渡り愛されるのか。
 優秀なガイドのためか。キャラクターがなかったがゆえか。


・これについては私は解りません。
 おそらくそれぞれの人の中にしか答えのない問題なのではないでしょうか。



・後者、自分なりの遊び方や楽しみ方を見つけ出す自由。
 ここはちょっと解りにくいところなので
 再び教科書から長々引用させていただきます。

 ウィザードリィに保証されていた自由とは、迷宮に光を当てることへの自由だ。
 わからない所にプレイヤーが好きな角度から光を当て、何かを見つけ出す楽しみ。
 ベストと思えるパーティ編成を見つける。
 正体のわからない敵を倒して、正体のわからないアイテムを見つける。その正体を見つける。
 どうなっているかわからないマップは、方眼紙を埋めて全容を見つける。
 ストーリーが無いなら、自分の中にある物語を見つける。
 ゲームに終わりがないなら、終わらせるタイミングを見つける。
 それぞれがそれぞれの方法で遊び方、楽しみ方を見出す喜び。
 それがWizの持つ『プレイヤーの遊び心に与えられた自由度』なのだ。

“XTH”(エクス)には「未知数」「無限大」という意味があるらしい。
 未知数。わからない世界。そこにどの角度から光を当て、
 どのような面白さを見つけるか。
 “XTH”を持つことがゲームの魅力であり、
 “XTH”を解明して面白さを発見することが攻略であり、
 その過程を経てゲームを好きになることがゲーマーの最大の喜びだ。
 そして、「未知数」とは「可能性」という意味でもある。

 そういう観点で見るなら、本作は素晴らしい内容だ。
 特に、上手く発展させればシミュレーションゲーム級の戦略性を持たせられそうなコンクエストには
 大きな魅力を感じた。
 次回作以降で、複数のパーティを並行に運用する部分にもっと意義を持たせることができれば、
 この要素は大化けする可能性がある。

 
 しかし、そこまで凝りながら、
 コンクエストは全然無視していてもゲームは進められます、
 という自由度を許容することが最も大切だろう。
 “Legacy of Lylgamyn”と同じことをやっていたのでは、ただの退化だ。
 舵取りは難しいだろうが、「革命」と言うからにはそのくらいの変革を成し遂げて欲しい。

・ゲームを攻略するということ。
 「やり込み」を許容する自由。
 そして変革を成し遂げてそれを許容してまだ『ウィザードィ』であること。 
 
・そんなふうにまとめられるかと思います。



・ゲームを攻略する、とは何か。
 字義を言えば「知恵を用いて相手に勝利すること」。勝つための方法を見つけ出すこと。
 ゲームとは「勝ち負けを争う遊び」なのです。

・では『ウィズ』やRPGにとってそれは何か。
 対戦相手はいませんから、ゲームルールと、自分との戦いということになるでしょう。
 RPGに「勝つ」というのは何か。クリアすることか。
 けれどクリアがないエンドレスゲームならばどうか。


・前々回、『DQ6』のタイムアタックのレポートを書きました。
 彼の「やり込み」人の方々は確かにゲームを攻略し、勝利して
 何よりもゲームを楽しんでいます。
 一度クリアすればどんなに面白くとも満足してしまい込んだり売ったりしてしまうゲームを
 うらやましいほどに楽しく、素晴らしい「ゲームで遊ぶということ」の姿を見せてくれます。


・ゲームを「やり込む」こと。
 それだけがゲームを楽しむやりかたでないことはもちろんです。
 また、ゲームに勝利すること「攻略」すること、それだけがゲームというものでもない。


・そのゲームで、楽しめるかどうか。それが遊び手が求めることで求められること。
 そしてゲームに求められるのは、それをどのように許容するか。
 わかりやすくいえば、誰もが、どのようにでも、遊ばなくとも、楽しめるものが優れている。
 


・『ウィザードリィ』の本質。「遊び方や楽しみ方を見つけ出す自由」。
 それは
 優れたRPG、優れたcRPG、優れたコンピューターゲーム、優れたゲームが持つものであり
 多くの既知の素晴らしいゲーム達もまた、持っているものでもあります。