『ゲーム批評』終了


・今月3日に発売されたVol.69をもちまして、『ゲーム批評』が終了とのこと。
 休刊廃刊ではなく誌名変更でもなく終了。
 同編集部は引き続き「G-navi」というゲーム情報誌を作られるもようですが
 あくまで終了。
 本題こちらは'94年の創刊から12年。12年。
 ついにようやく、『ゲーム批評』が終わりました。



・全号持っている身としては感慨深い。
 特に初期の数年。
 創刊号を読んだ驚きは今も覚えています。
 その'94年当時は、PSとSSによる「次世代機戦争」より前のSFC時代。
 メーカー提灯記事当たり前、そういうものだと思っていたゲーム雑誌の棚に
 ぼろい紙質小型のサイズで置かれていたのが『ゲーム批評』。
 巻頭特集「『FF6』は感動的な物語ではない」。へへえ。
 裏表紙にはずばり
 「『ゲーム批評』は公正な立場を確立するため、広告を入れません。」
 驚きです。

・Vol.10まで特集題を並べてみますと
 「ファンタジーは死んだのか/ゲーム業界内事件の真実」
 「格闘ゲーム神話の終焉/Hゲームの罪と罰
 「次世代機を斬る!/ゲームスクールの実態」
 「帝王任天堂の悲哀と栄光」
 「新世代ゲームの葛藤/ゲームの批評とは何か」
 「衝撃、キャラクターゲーム/裏ソフトの「濃密」な生態」
 「RPGの本質とは何か/決着!?サターンVS PS」
 「スクウェア幻想の真実」
 「胎動・・・アドベンチャー/製作者とユーザー、その存在の示すもの」
 「ゲームは誰が作っているのか/徹底!シューティングゲーム
 と、引っ張り出して眺めていたら思わずずるずる読んでしまう懐かしさよ。
 『FF6』が感動的だ、と当時は言われていたのだなあ、と。
 思えば遠くへ来たものよ。



・『ゲーム批評』は、今までにないゲーム誌でした。
 売れているゲームに批判的な文章が載っている。
 メーカー側からすればゲームを売ることとは関係がなく、
 ゆえにゲーム雑誌で取り上げられてこなかった業界周辺事情を取り上げる。

・「批評」というほど内容あるのか、
 とマニアのみなさまには毀誉褒貶相半ばながらも
 批判するため『FF』をとりあえず押さえると同じ程度の位置を
 築いたわけでございます。
 まあマニア以外が買うような代物でないですな。Vol.4までは季刊ですし。


・創刊当初、PSとSSの次世代機戦争で業界盛り上がっていたころは
 『ゲーム批評』も様々な話の種をばらまいて
 今読み返しても様々に興味深く面白いです。 

・けれどしかし。
 ゲームについて語ることにも、実は割りと限界はあるのであり。

・常にひと入れ替わり、過去の記録は膨大な量ゆえ流されるネットのゲーム談義は
 同じ事を違うひと果てしなく繰り返し続けれれることを
 許容しますけれども
 創刊号から全部買い揃えておくようなマニアに監視されている種の雑誌では
 当時であっても、そ知らぬ顔は出来ません。


・'98年、Vol.20の特集は「売れるゲーム売れないゲーム」。
 続くVol.21「それじゃ、ゲームの面白さって何?」。

・売れるゲームと、良く出来たゲームと、面白いと思えるゲームは違います。
 面白いと思える、興味を持って面白がれるゲームはひとによりけり。
 では、作り手にとって面白いゲームとは何か。
 良く出来たゲームか、売れるゲームか、
 それとも開発者のあるひとりが面白いと思えるゲームなのか。

・「じゃあ、面白いゲームって何?」
 「面白くても売れなければ意味がない」
 「売れてもその次また新作を買ってくれるような良いゲームでなければならない」
 ゲームソフト単体でいうならば、この問題は難しくない。
 良く出来ていて誰もが面白いと思えるゲームに、お金掛けて広告出し売れば正義。
 これを任天堂めそっどと名付けるべし。

・面倒なのはそこにゲームハードが絡むこと。
 ソフトなければただの箱。されど、ハードなかればソフトはただのゴミ。
 共有体験のため全てのゲームソフトはもっとも売れているハードで出すべき、
 まではまあともかく
 であればハードメーカーは自ら率先してそのハード集団を守り立てなければならない、
 となると、もはや政治の世界でございます。
 関心ないひとにはどうでもよいのに
 それだけを日刊宅配情報誌の連日一面にすることが許される、
 宗教と並ぶと世間では認められる話題。神学論争。任天堂は神。いざさゲーハー板。 


・そこに確たる答えはない。

・ゲームは面白ければ良いのだ。
 それはそのひと個人にとっては正しい。
 けれどゲームを商品として扱う産業からすれば違い、
 そして個人の正義でなく、世間一般に認められる絶対価値基準、
 すなわち「批評」を看板に掲げる雑誌としては
 延々ぐるぐる回り続けるを余儀なくされながらも
 立ち止まれず同じ場所も通れず、果たして軸心見失い迷走の末、
 ついに辿りついたるは、看板の架け替えという末路なわけであり。

・ようやく今更です。
 遅い。もう何年も早く名前を変えておくべきだった。
 その内容にお金を払う価値があると、
 少なくとも惰性でも買うには値するとここまで来た身からすれば。



・結果として『ゲーム批評』が果たした役割は
 ゲーム雑誌メディアの取り扱う幅を広げたことです。
 メーカーの結びつきから自由なゲームの見方。

・最近の例えば『ファミ通』はゲームソフト紹介、攻略だけでなく
 有名シリーズの歴史成り立ち、過去の埋もれた良作の紹介、
 ゲームジャンルの分類と解説、そのジャンルの代表作、そのどこが優れているのか、
 等々、マニアが得々として知っていた種のゲーム知識記事を載せております。

・「面白いゲームとは何か」についての理論武装
 読者の「面白いと思うゲーム」を
 すなわち「良いゲーム」たらしめるよう誘導するのは
 「売れるゲーム」これすなわち「良いゲーム」であることにこそ
 健全たる業界の発展があるから。
 さらに一方で、より良くゲームを楽しむための
 様々な面白がりかたについても抜かりなく話題を広げている。
 まったく正しい。さすがです。

・過去のメーカー資料を書き写した紹介記事から
 かつて『ゲーム批評』が扇情的に書き立てていた、
 知らなくてもゲームを楽しめる種の周辺事情も記事とし扱うように変化したのは
 必ずしも『ゲーム批評』の功でなく、産業発展時代の経緯ではありますが
 その前と後で変化があったのは確か。
 エイプやベントスタッフが少しずつゲーム攻略本というものを変えてきたように。


・逆に、『ゲーム批評』が迷走した原因のひとつには
 ついにその質で『ファミ通』にも勝ることなかったからでもあります。 

・ゲームは毎週新作が遊びきれないほど発売されます。
 そこには常に、必ずしも前進でなくとも変化がある。
 また、そもそも前進とはどちらを良いとすべきなのか、と
 答えは出せなくとも問い追い続け、行く先を問うていく。
 ゲームに大きな変化がなくなり
 枯れた技術の水平思考で全てのゲームが作られるかと見えるようになったとしても。
 なぜそうなのかそうなったのかそうなるのか、ゲームの面白さとは何か。
 そこにまだ、答えはないのだから。

・創刊号から常に続けられているその時々発売されたソフト批評。
 それと、それが基になるはずの雑誌全体方針、
 編集部が持って行きたい方向とが一致しなくなった時点で
 『ゲーム批評』は終わっていたのですが
 何より『ファミ通』「程度」にも、
 『ゲーム批評』にとって「ゲームの批評」とはどうあるべきか、
 決まってもいなかったように、外野からは見えます。



・『ゲーム批評』終了。
 終わってよかった。それが偽らざる感想です。

・ゲームに、すくなくともその時代文化には揺るがせない絶対価値基準を
 置けるのかどうか。それはどのようなものか。
 それを問うのが「ゲームの批評」。

・けれどゲームを遊んで、自分にとってだけ面白いゲームがあれば
 それで良いのである身には、高邁なお題目にあまり関心はありません。
 ゲームが面白いこと、面白く感じることが出来るのは
 既に疑いようなく確かであるのだし。

・ただ、それがなぜ面白いかと思うは、またそれも面白くある。
 そういう位置に在ってゲームを眺めてみる。
 このゲームは面白い。なぜ面白いのだろう、どこが面白いのだろうと
 つらつら思いあそばすのもまた面白い。

・そういう土台にまず、メーカーの結びつきから自由なゲームの見かた、
 という『ゲーム批評』が提示した、今や当たり前の価値観がある。
 それが『ゲーム批評』という雑誌のひとつ大きな価値だった。


・以上を持ちまして、『ゲーム批評』は終了です。