ドラゴンクエストビルダーズ アレフガルドを復活せよ


ドラゴンクエストビルダーズ アレフガルドを復活せよ - PS4 


『マインクラフト』は非常に成功した作品だけれども
なぜなのか理屈ではわかっても
実際にわかるかというと想像である。
トロフィーを全開放し
フリービルドモードで超げきとつマシンを作りバトル島も更地にして
することが無くなるようなひとにとっては。
ランダム表示されるネットの向こうの作品を目の当たりにして唯々感嘆するが
自分には鑑賞中にお腹が空かないようレストランを作る以上のことはできない。




『マインクラフト』は以前書いたように「レゴブロック」のテレビゲーム版である。
ブロックをリアルマネーで買わなくても良いが集める手間はあり
その集める手間をアクションゲーム風にして組み立てるのも同じ操作でするもの。
アクションゲームとして敵を倒すというような目的はなく
ブロック積み重ねていろいろなものを作るという目的に対するゲームが手段である。
『テラリア』はその2D版で、本『ドラゴンクエストビルダーズ』はその日本風RPG版。


操作とかみためを長年培った「ドラクエ風」に置き換えただけでなく
集めたブロックをどうやって加工していくか、
「おつかい」という小目標を繰り返し設定して導入する日本式RPG調で
丹念に置き換えている。
その出来栄えは「ドラクエ」の名を冠するに相応しく高く、
『アトリエ』シリーズとか『牧場物語』シリーズとかの
同じような「ものづくり」を「敵を倒して強くなる」の他に据えたRPGとして
お話にならないほど隔絶している。
もちろん『マインクラフト』のゲーム造形があってこそのものだけれども。


題材は30年前の1986年に発売された最初の『ドラゴンクエスト』。
1993年にスーパーファミコン用にリメイクされ、以降も様々な機種で遊べることで
未だに素材としての価値を保っている。
岩山の洞窟の構造は覚えていてもさすがにメルキドガーデンは覚えていなかったけど。


4作目のように段階を章立てで区切り
それぞれのお話でひとつの滅びかけた街を再建していくという目標が与えられて
そのためにはとりあえずどうすれば良いか、
再建していく過程で徐々に増えていく街のひとびとからの頼まれごとを
達成していくことで実現していく。
作った食堂で料理をして満腹度を回復するアイテムを作ってくれ、
敵が襲って来れば共に戦い、夜は再建した宿で共に眠る。
彼らが街中でちょこまか動き回っているのは
それが自分が建て直した舞台だからこそ楽しく嬉しい。


お話はいろいろあって、きちんとひとつの区切りを迎える。
章立てされているので気軽に何度も楽しめて、きちんと終わりがあって達成でき、
愛着あるみんなに称賛され感謝されながら
いつものファンファーレでエンディングを迎えるのはまことに気持ちが良い。
さすがドラクエだ。しみじみ良いなあ。
ドラクエ1」はファミコン版以来遊んでないけど
もう一度そちらでも、ひめをちゃんと救ってあげたくなるなあ。




一通り操作を覚えたところで後は自由に好きなものを作ることができる。
限られた広さの枠内だがネットに公開することができ
他のひとが造ったものを自分の作っているところの隣りに呼び出して
その中を眺めてみて回ることができる。
多くの力作、大作、工夫をこらした秀逸な作品に溢れていてただただ感心する。
すごい。えらい。よくぞ思いつくものだ。
眺めているだけでいくらでも時間を費やせるここち。


敵を倒して強くなるだけのゲームでも
そういうひとの作ったものに感心することはできる。
低レベルでクリアしたり、実時間短時間でクリアするよう工夫を凝らす。
実際それがどれだけ困難であるか知っているから感心すること、
そんな発想であればこれを達成できるのかと驚くこと。
限りあるゲームの奥行を隅々底まで浚って、
新しいものを作り磨き上げて完成されたものは、同じ素材からの別する作品である。


このゲームや『マインクラフト』も同じ。
建物。あとは看板に書かれた簡単な紹介。解説。
出来上がったそれを眺めるだけで、単純に時間を掛けるだけでは、
もととなって出来ているものを隅々まで知ってなぞるだけでは
つくれないものがそこにある。
敵を倒して強くなるゲームや、対人対戦ゲームや、
できなりのお話を楽しむだけのゲームを一通り遊んでわかった気になって
良かったのだろうかという気にさせる。やむ。良かったも何もないけれども。


それぞれのゲームは、それで様々に遊んでいくことができる。
このゲームはそれが特に目に見えてわかりやすい。
だから優れているということでなく、
欠けなくこちらの解釈を許さず完成されていて揺るがない作品だって良いのである。
この作品の音楽やパッケージイラストが想像させる舞台のようすや
キャラクターたちのちょっとした台詞のひとつに手を加える必要はない。
いつまでも漂っていたい、眺めていたい、遊んでいたいと思わせる舞台づくりは
ゲームパッケージとして必要だし、
ロード時間だって舞台の広さだって作れるものの幅広さだって操作のしくみだって
いずれもみな大切である。


その作品を懐かしく好意をもって思い出すとき
それはその遊んだゲームが最初から最後までもっていた出来ばえが全てでなく
結局遊ぶ自分がそれでどのように遊んだかでしかない。
ゲームに限ったことではないけれど。
コントローラーを握って、手でブロックを積みいろんな方から眺めるだけでなく、
ブロックを作って、小人になって加工して積んで作って中からも上からも眺める。
これはゲームだからで、これこそテレビゲーム、ビデオゲーム
とにかくゲームとよく呼んでいるいわゆるゲームのゲームらしいゲームだ。