カウチポテトカルチョビット

kodamatsukimi2006-07-02



・『三国志大戦2』がいつまでたってもいつ行っても行列に並んで天井眺めながら
 はて、私は一体ここで何しているのだろうと思い悩まねば遊べないので気が削がれ
 仕方ないので日本がさっさと負けてくれて静かになったことでもあるし、
 つまり読売日本テレビが巨人戦を大きく扱うを見るが不快と同じ意で貶すわけでなく、
 サッカーワールドカップを見よう。と久しぶりにテレビをゲーム以外に
 使用してみようとしたわけですが、けれどドイツと時差7時間。
 あちらは頃合でもこちらは深夜。明日に仕事控えて見ていられぬからし
 そこでゲームです。
 ここで『カルチョビット』。
 そしてやはりテレビ画面は再びゲームに占有されたのでありました。いつもと同じ。


 公式サイト http://www.nintendo.co.jp/n08/bixj/index.html ASIN:B000FB6FNA
 製作者インタビュー http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/game/gamenews/news/20060621org00m300155000c.html


・つまりサッカー版『ダービースタリオン』。
 言うならば簡易版、携帯ゲーム機用『サカつく』。
 目を引く見た目は無いけれども噛みはじめると捨てるのが惜しくて止めるに止められず
 いつまでもだらだら果てしなく続くあれ。費用対効果抜群。


・育成するのはサッカーチームであり、することは選手の能力値上昇。
 疲労を溜めて疲れさせないよう、日程にあわせて適度に手を抜き地道にこつこつ。
 試合中はメンバー交代フォーメーションチェンジ以外は見ているだけ。
 経営方面金銭関係が極度に簡易化されているの後大きな特徴で、
 『サカつく』と違い選手年棒や収入総量は自動で決まり、余ったお金で補給する方式。

・そして『ダビスタ』と同じく試合は全て、
 飛ばせるけれど飛ばすことなく見ていなければ強くならない。
 そこが『ダビスタ』より『ウイニングポスト』のが好きであった所以であって
 もちろん『クラシックロード』のようなだるいのは遊んでいられない、と
 『パワードール2』のターンが回ってくるのに30分かかった昔。
 そこが今時しっくり来るかは、遊ぶ態度によるものかな。



・ゲームというものは、遊ぶものである。遊びたいから遊ぶのであって
 遊ばなければならないならば、面白ければ遊ぶだろうけれど、多分面白さは削がれよう。
 お金を出して買ってきてゲーム機に刺し、さあ遊ぶぞ楽しませろよと
 構えているやつを楽しませるのがゲームという遊び道具の役割なのである。

・それを遊んでやろうという態度は様々であって
 それにゲームの方であわせてあげるわけには中々いかないから
 良く出来ているだけでは面白いと評判をとるのは難しいのだけれども
 例えばオンラインRPGである。

・客であるわれわれも構える。何か噂によるとやたらめったらに時間がかかるらしい。
 廃人的に引きこもりであって、リアルマネートレードであってつまり、
 ゲームに夢中の時点で世間的にほとんど同類であるに目をつぶって
 平日の昼間からパチンコ屋に行列している駄目な連中に同類であり、
 とかくよろしくない。昔のことばで言うと「もらとりあむ」とか称される
 大学生あたりにのみ許される職業であるのだネットゲーマーというやつは。という認識。

・しかるに一方で、あっというまにクリアできるゲームもあるよ、という前に
 このサイトのこの文章を今、読まれている方に
 『ポケモン』を遊び倒したと自負される方いかばかりかおられるであろうか。
 あれもあれだ。ものすごくすこぶるつきに時間の掛かるゲームでありながら
 これといって明確にゴールが設定されている、
 つまりエンディングを見てさあ二周目を始めようとかいうゲームでなく
 週刊マンガ誌の人気連載同様、面白いうちは、
 すくなくとも世間一般面白いと感じられているらしい内には
 だらだらいつまでも果てしなく続くゲームでありました。迷惑だ。青春の浪費。
 私は遊んでいないのですけれど。浪費していない。儲け。しったかぶり。


・『ダビスタ』も『サカつく』も同じである。
 エンディングはなく、自分の満足いくまでいつまでも続くこれらゲームに対し
 われわれゲーム好きが、この遊びきれないほどゲームと
 それ以外の流行流感にも埋め尽くされる現情勢下において取るべき態度たるは如何か。
 自分の満足いくまで、がエンディングであるとしてそこへ踏破するその態度や如何。
 発売日に買ってきて即座にクリアし高額で中古屋に売り抜けるか、
 それとは別に、世間の話題に一歩先んずべくを目的として上に同じか、
 それても独立独歩、あたら世の空気に流されないを自らの価値として自己を飾るか
 そんなことに拘るような時点で駄目駄目だよねと客観高踏派を気取るか。

・さて、社会人と自分を呼ぶ立場になってみると
 そうした時、こうしたゲームに対する態度は以前とやはり少しばかり違ってくる。
 もはや青春は遠い日の花火である。とビールを飲む。
 お金は、何しろ入りが知れているから、決して余っているわけではないが
 酒を飲むに比べればゲームなどハナで笑える額である。と思いたい、と飲む。
 ゲームはもちろん面白いからいい大人にもなっても遊ぶのであり
 その他の趣味も付き合いを除いて面白いから遊ぶのであって
 昔勧められたようにあるいは薦めるように、それが役立つ価値あるからするのでない。
 したいからするのだ。そういう価値であって将来に自己実現の基となるを願うでない。
 

・『カルチョビット』は試合を見ていなければならない。けれど『ダビスタ』と違い、
 その間何もボタンを押さなくとも勝手に終了してくれるゲームである。
 飛ばしてはいけない。けれど注視している必要はまったくない。
 自分が何もしなくとも、会社休んで平日昼間から流石に空いているだろうと
 パチンコ屋を横目で見つつ『三国志大戦2』を遊びにゲームセンターに行って、しかし
 「もらとりあむ」を謳歌する連中の列の後尾に並んで一日潰して太陽が眩しくとも、
 世の中は昨日と変わらず平常どおり。

・見ていなくとも変わらない。
 ただ、時々手入れしてあげるとその成果が確実に返ってくるのが
 いわゆる冷たい世間との違いである。


ガーデニングより早い。猫をしつけるより手間掛からない。
 寝そべって本読みながら横目で画面を眺め、たまに気付いた時手を入れてあげて
 それで少しずつ成果があらわれ上がっていく数字で作られる世界。
 その裏で現実の人生掛けたワールドカップ中継の世界。
 しかし、このゲームを遊んでいる、半分本読んでいるこちら側の世界もまた現実である。
 ポテトは摘まないが、そのゲームを遊ぶ態度は、そういう程度に価値あることだ。